猫は歩く。
私は猫だ。名前はにゃー。
私は雄だが、飼い主が可愛い名前にしたいという願いで、この名前に成った。
私の一日は飼い主を起こすところから始まる。
ぺしぺしと私のこの愛らしい肉球で飼い主の顔を叩く。それを何度か繰り返すと、のっそりと起き出す。
飼い主は何時ものように、私に朝の挨拶をし、それと同時にその綺麗な手で顎の下をくすぐる。
これが朝一番の仕事の報酬だ。この時ばかりは私の顔は弛緩し、ごろごろと甘い声を出してしまう。
名残惜しくはあるが至福の時間は終わり、次は餌の時間だ。
この家は裕福な部類に入るらしく、私の餌は『ロイ○ルカ○ン』という。そこそこ高い餌らしい。私は餌を用意する飼い主をじぃと見つめ、物思いにふける。
――最近、隣の家は雌の猫を飼い始めたのだ。
ある日、二階の窓の傍から隣の家をふと見ると、黒い毛並みの猫が縁側に丸まって日向ぼっこをしていた。私の視線はその黒猫を捕らえた。そして離せなくなった。何と蠱惑的なのだろう。その黒い毛は身体が上下するたびに、艶を増していくようだ。
しばらくして黒猫は起きた。そのまま軽く伸びをする。そして座り、前足で目を擦ったりしている。
また、身体をしきりに動かしたり、きょろきょろと周りを眺めたりしている。仔猫のように好奇心旺盛な様子だ。
その一挙一動に私の心はどうしようもなくかき乱される。
これが恋という奴かと知ったのは、その日の夕方になってからだった。
そんなことを考えている間に、餌が目の前に置かれていたらしく、何時までたっても食べ始めない私に飼い主は心配していた。
飼い主の心配そうな顔に私は気付き、一鳴きして、餌を食べ始める。今日の餌も美味しく頂くのだ。
餌を食べ終わり、私はふらっと外へ出掛ける。
二階の窓から塀の上へ。華麗に飛び移り、歩く。
隣の家に居る黒猫をちらちらと見ながら、何食わぬ顔で通り過ぎる。
ああ、何と私は情けなく、みっともないのだろうか。
黒猫へと交友を結びに行けない自分に私は悶々としながら、いつも通り過ぎるのであった。
私の散歩には道は決まっておらず、ただ気の赴くままに歩き続ける。
そうだ、今日は大通りを歩こう。車や人が賑やかに通り過ぎる大通りならば、私の気も紛れるだろう。
先日の雨で濡れたアスファルトは、今日になっても渇ききってはおらず、ところどころ湿っており、歩くにはちと気持ちが悪い。
また先日とは打って変わって華やかに色付いているこの大通りは、歩いているだけで様々な人間を見ることが出来る。上を見れば大きな画面に人間が映っており何やら話している。視線を戻すと、街行く人間に、立っている人間が何やら叫んでいる。同じ格好をした人間が沢山、同じ場所に入っていったりと色々だ。
ここは見るもの聞くものすべてが新鮮に感じられる。家の中に引き篭もってばかりだと当然得られないものだ。
そうだ。引き篭もると言えば隣の家の黒猫はどうしているのであろうか。私が見かけるときは、いつも家の中だ。彼女は外に出歩いているのだろうか。
私は気になり始め、人間観察どころではなくなった。
大通りから薄暗いじめじめとした路地へと入り、ある猫に会いに行く。
その猫は三毛猫では大変珍しい雄だった。また、ここら辺一帯の顔で、この街でなら知らぬ猫はないと言い切るほどの物知りな奴だ。
彼とは長い付き合いで、腐れ縁である。いつも会うたびに私をからかい、にやついた表情を浮かべ鼻で笑う。とても嫌な奴だ。だが、私は自分の懐の大きさを見せるためにも彼に会うのはやめない。
彼はとある神社の賽銭箱の裏に居ることが多い。いつの日か彼に問うてみたことがある。
「なぜ、君は賽銭箱の裏に居るのか」
そうすると彼は私の顔を一瞥して、こう言った。
「ここまで繁栄している人間が、これ以上何を願うのか、想像する為だよ」
その時だけは過去に視たことが無いくらいに、真剣な面持ちだった。
私はそれ以上何かを話すのを躊躇い、止めた。それ以降、この話題を持ち出すのは憚られるようになった。
しばらくして彼の居る神社の前まで来たが、私はここにきて彼に会うかどうかを思い悩んだ。彼から情報はほしいが、私の思いを知られるのはひどく面白くない。
大きな鳥居がこちらを見下ろしている。まるでお前は小さい、と言わんばかりだ。
意を決し、鳥居をくぐる。後ろにある鳥居を鼻で笑う。どうだ、私は小さくないぞ、と。
「にゃー君。君は変な行動をよくするね。何で鳥居に向かって得意顔をしているんだい?」
後ろから彼の声がした。瞬間私は、冷水を掛けられたかのように全身の毛を逆立てた。一番見られたくない相手に見られてしまった。私は肩を落とし、緩慢な動きで彼を見る。すると、彼は案の定にやついた顔で私を見ていた。
「僕に見られただけで、そんなこの世の終わりだ、みたいな顔をしないでよね。傷ついてしまうじゃないか」
彼は泣く振りをする。だが、微かに口角が上がっているのが見えた私は、それを突っぱねる。
「そう言って君は笑っているじゃないか。まったく」
「まあまあ、こんなところで立ち話もなんだ、向こうへ行こうじゃないか」
彼の視線の先には賽銭箱があり、私は、ああ、と返事をして賽銭箱へと彼と一緒に近づく。
「さて、にゃー君。君がここに来たということは、なにか知りたいことがあると思っていいのかな。まさか雑談しに来たわけではないのだろう」
いつもの彼の定位置、賽銭箱の裏に座り、彼は聞いてきた。
「ああ、そうだとも。私はあることが知りたい」
「おっと、僕が君の知りたいことを当ててあげよう」
私の次の言葉を待たずに彼はそう言い放った。どうにも嫌な予感がする。彼とは数日前に一度会ったのだが、何も言ってはいない。私の黒猫への思いはまだ知らないはず。いやしかし、彼はこの街の事を何でも知っていると豪語している。もしかしたら、知っているのかもしれない。だが、私のささやかな矜持が、この思いだけは自分の口から言う前に彼が知っているというのは、我慢ならないものだと囁いている。
そこまで見越してか、彼はにやついた顔で言う。
「最近君の家の隣に越してきた黒猫の行動が知りたいのではないのかな?」
やはり、と私は思った。それと同時に羞恥と憤りが心の中で湧き上がった。
「どうして、君が知っているのだ! くそったれ!」
そう悪態をついた私は、感情のままに地面を引っ掻いた。
「当然じゃないか。僕だぞ。この街で知らないことなんてないさ」
「それにしてもだ。私の心の中にまで入ってこないで貰いたい」
「あはは。面白いことを言うね、にゃー君は。誰も君の心の中には立ち入れないさ」
「ただの比喩だ! 本気にしないで貰いたい。そう君はいつもそうだ。私の事を見透かしたかのように、すぐ傍で見ているかのように言ってくる。私はそれが気に食わないのだ」
彼は肩をすくめ、言う。
「そんなことを僕に言うのはお門違いさ。にゃー君。君の事について僕が知っているのは、ひとえに君が教えてくれるからさ」
「それは、どういうことだ? 私は何も教えていないぞ」
彼の言葉を聞いて私は困惑した。だが、興味もわいた。彼がどうやって情報を集めているのかを、その一端でも知られればと思ったのだ。しかし、すぐに知らなければよかったと後悔した。
「簡単さ。にゃー君、君の顔に書いてある」
「……」
「君が数日前からそわそわしていたり、それを不思議に思った僕がそれとなく情報を集めていった結果、彼女の事が分かり、そしてついさっき鎌をかけてみて、にゃー君が恋をしていると確信を得た」
一呼吸置き彼は続けた。
「にゃー君。実に君の行動は単純で分かりやすい」
そう彼は言った。私は自分に素直ということなのだろうか。褒め言葉として受け取っておこう。私の懐は広いのだ。
「そこまで分かっているのなら、教えてくれ。彼女は外に出るのだろうか?」
私の瞳の奥に宿した考えを彼は汲み取ったようで、二つ返事をした。
「ふむ。なるほどなるほど。いや分かった。教えてあげよう。君の恋が実らんことを願っているよ」
「それで、なんで君がここに居るのか。私が納得のできる説明をして貰いたいな」
私は今、彼からの情報を元に黒猫の訪れるであろう場所へと来ている。その場所は草が覆い茂っている広い空き地だった。その空き地には土管が五つほど奥の方に鎮座しており、この土地の主だと言われても信じてしまいそうなほど、存在感が大きかった。本当にこんなところに来るのだろうか。しかも彼までついてきており、その表情はいやらしく笑っていた。
「いやいや、この僕がこんな面白そうな事を見逃すはずが無いじゃないか」
ひどく納得してしまった。私はそれ以上問うことをあきらめ、電柱の陰に隠れて黒猫を待つ。
「にゃー君。君は普段偉そうなのに色恋事となると途端に臆病になるね」
「五月蝿い。慎重と言いたまえ」
何とも彼の言葉の一つ一つが気に障る。もしかしなくとも、彼はわざとやっているのではなかろうか。もしそうであっても、私は何も言わない。言っても無駄だと知っているからだ。
ふと思いついたことがある。それを私は彼に聞いてみる。
「君は、恋愛をしたことはあるのか?」
彼は一瞬目を見開いた。が、すぐにいやらしい顔に戻った。
「したことはあるよ。まあ、失恋に終わってしまったけどね」
「驚いた。君は私よりうまく女性を口説き落とせそうな気はするが、どうして駄目だったのだ?」
今度は私が目を見開いた。彼は昔を懐かしむように笑いながら言った。
「いや実に情けない話だが、彼女にとって僕はただの有象無象に過ぎなかっただけさ」
「君が有象無象か、なら全部の猫がそうなってしまうな」
笑いながら私が言うと、彼は目を細めながらこう返した。
「それは仕方ないね。彼女は他の事に情熱を注いでいたからね。それでも、僕は想い続けざるを得なかった」
「ほう。君がそんなに熱中していたのか。どのような猫だったんだ?」
私は少し、彼の方へ身を乗り出すようにして聞いた。
「美しい猫だった。それと気品に満ち溢れていて、優しさも忘れない。まるで白百合のようだった」
彼はうっとりとしながら、その猫の事を語った。その様子に私は、彼も一匹の雄猫だったのだなと思ったのだ。
「その彼女は今どこに?」
「彼女はこの街には居ないよ。飼い主に付き合って世界中を旅しているんだ」
「それはすごい。私なんてこの街から出ようと思ったこともないというのに」
「そうだね。我々のように一生の短い猫が自分の手の届かないような場所に行き、目で見て、耳で聞い
て、足で触れる。何とも壮大で――滑稽なことだ」
その言葉は彼女を貶しているものではないのだろう。私は直感的にそう思った。なぜなら、その言葉を彼が言ったとき、彼の顔は、それについていけない自分を悔しがっている様な、旅に出掛けられる彼女を羨ましがっている様な、そんな顔をしていた。
なんとなく会話は切れ、無言のまま私たちは待ち続ける。既に太陽は真上を通り過ぎ、西に傾いた柔らかな日差しが空き地の草を照らしている。
半日起きてたこともあり、私の瞼は重く、足が暖かくなる。非常に眠たいのである。だが、寝るわけにはいかない。ここで寝てしまっては私の黒猫への思いはその程度のものかと隣に居る彼に、また嫌味ったらしく笑われてしまうだろう。
私は気合で起きつづける。眠気などには負けないのだ。
それにしても、と隣を見てみると一切眠気などない様な顔で、彼は空き地を飽きることなく眺めている。その頭の中で彼は何を考えているのだろうか、気にはなるが私には理解できないと思い、考えるのをやめた。
視線を空き地に戻すと、空き地に隣接している家の塀の上を黒猫が歩いているのが見える。私は思わず声を上げそうになり、どうにかそれを飲みこんだ。
「来たぞ! のんきに考え事をしている場合ではないぞ、君!」
私は興奮のあまり彼の肩をばしばしと叩いた。
「分かった。分かったからにゃー君。肩を叩くのはやめてくれ」
その言葉に私は叩くのをやめ、黒猫を見守る。
私が一向に動かないのを見て彼はこう言ってきた。
「にゃー君。君は何しにここに来たのかな?」
私の様子に呆れたと彼はこれ見よがしにため息をつく。
「黒猫と仲良くなるためさ」
「そうかい。それならばなぜ君は向こうに行かないのかな?」
「タイミングを計っているのだよ。君は少し黙っててくれ」
はいはい、と彼は肩をすくめて言う。そして私はじぃと黒猫の行動を観察する。
黒猫は空き地に入ると、まっすぐ土管の方へと行った。土管の前まで来ると、にゃー、と一鳴きする。すると、土管の中からひょこっと五匹ほどの仔猫が出てくる。
仔猫は出てくるなり黒猫と遊び始めた。それをとても楽しそうな顔をして黒猫は一緒になってじゃれあう。その姿は他の仔猫たちと変わらないほどに幼く見えた。
私は出ていくタイミングを失った。
今の黒猫は二階の窓から見える姿よりも、ずっと魅力的だ。仔猫に時折向けるその瞳は、まるで母がわが子に向けるような慈愛に満ちた瞳だ。それは息を飲むほどに美しい。
そんな黒猫を私が行くことで穢してしまうのではないかと思ってしまう。
私は惚けたように黒猫を眺めていると、隣に居る彼がぽつりと呟いた。
「……仔猫か」
――仔猫。仔猫というと今黒猫と遊んでいる五匹の仔猫。それをなぜ彼は呟いたのだろうか、私は疑問に思った。また、彼がこんなにも悩んでいる所はあまり見たことが無い。何か不吉な事が起こるのだろうか。私は不安になる。
「仔猫がどうかしたのか?」
黒猫から目を離さずに私は彼に問う。
すると彼は歯切れの悪い返答をした。
「いや、すこし、気になることがあってね」
「ふむ」
そう言った彼に私は気になったが、考えても無駄だと思い、黒猫を飽きることなく眺める。
しばらくして、彼は大きく頭を振り、やることが決まったと言わんばかりに私を見て言った。
「にゃー君。僕は戻らせてもらうよ。ここに居ても君がちっとも行動しようとしないのでね」
「無粋な観客が居るから行動しないのだよ」
皮肉に皮肉を返し、私はしっしと前足を振る。彼は笑いながら電柱の陰からひょいと出て、道路の向こうへと少し早足で消えていった。
その後、私は黒猫が帰るまでそこに居続けた。結局、出て行くことはできなかった。
二日経った。私はいつもと変わらずに黒猫を眺め、過ごしていた。この二日間で黒猫に数度の接触する機会が訪れたが、行動する勇気が持てなかった。
そのことについて、私は昨日の夜にずっと悶々と考えてしまっていたため、今非常に眠たい。今朝は何度も瞼がくっついてしまった。そんな様子の私に飼い主は和んでいた。どうやら私が眠気を我慢している姿が可愛いらしく、飼い主はやたらとカメラで撮っていた。
いつものように出される餌を食べ、今日の私は二階の窓の傍で黒猫を眺めながら居ようと決意する。
隣家の見える窓がある部屋は白を基調としたモダンなデザインだ。ソファや机の色はダークブラウンで飽きがこないようにアクセントを加えている。また、ソファの隣にある観葉植物が無機質な空間に温かさをもたらしている。
私はこの白く無機質な空間が好きだ。
別世界のような、外界と隔離されている様が安心を呼ぶ。
逆に彼はこの空間を見たらこう言うだろう。
「この世界を真っ向から否定している様な場所だね」
私はむしろこの世界の可能性を示している場所だと思う。まあ、元から彼とは趣味が合わない。まさに正反対な思考である。
なぜ彼と友好を結んでいるのか今でも分からない。気が付いたら彼が隣に居るのだ。彼が隣に居ることはそんなに苦ではないので良いのだが、逆に彼が隣に居ないと私はつまらないのだろう。なんだかんだ言って、彼との会話は楽しい。また、私の知らないことを彼は知っているのもあり、日々彼の知識には驚いたり、感心したりしている。彼がどう思っているかは分からないが、いやらしい笑みを浮かべ私をからかうぐらいには親しいのだろう。
閑話休題。
この部屋にある観音開きの出窓。そこの張り出した棚状になっている部分に私は座る。ここが私の定位置だ。
今日も今日とて黒猫を眺める。数日前からの私の日課になりつつある。が、ふと思いつく。これはかなり気持ち悪いのではないのか? と。
思い始めると泥沼にはまるかのように、どんどんと負の考えが頭に絡みついてくる。
向こうからすれば、知り合いでもない赤の他猫から見られているわけだ。――ううむ。いやだな。
私は前足で頭を抱え自己嫌悪する。
しばらく悶えに悶え、若干涙目になりつつも隣の家を目に映す。するとどうしたことか、隣の家の門の前に彼が居るではないか。
私は慌てて窓から塀へと飛び降り、隣の家の門の前まで行く。
「きっ、君は、一体何をしているんだ!?」
はぁはぁと息を弾ませる私の問いに彼はすました顔で、おや、早かったじゃないか、と返した。
「早かったって、私がどこに居るのか知っていたのか?」
「もちろんだとも、君は分かりやすいからね」
私は頭を抱えたくなる衝動に駆られてしまった。何とかそれを抑え込む。
「いや、僕がこの時間帯にここに来れば君は飛び出してくるだろうと思ってね」
今度は頭痛がしてくる。深く考えるな、彼はそういう奴だ、と自分に言い聞かせる。
「まあ、ここでは何だ。神社に行こう」
そう彼は、平常心、平常心と心の中で唱えている私に言って歩き出した。
場所は変わって神社の賽銭箱の裏。あの後、私の抑えきれない心の叫びを彼にぶつけながら来た所為か、彼と面と向かって話をするのには少し気まずさを覚えている私が居た。
彼はそんな私をよそに少し溜めてから話し始める。
「君のところに訪ねたのは他でもない、黒猫の事だ」
私は気まずさなんて忘れたかのようにはじけるように彼の顔を見る。黒猫に何かあったのだろうか、いやしかし、さっき見たときはべつにいつもと変わらない姿だったと思う。
彼の顔は真剣味を帯びていて、これから何を話すのか予想もつかない。
ふと、この前の彼の様子が頭をよぎった。
いやな予感がする。
「黒猫が、どうしたというのだ?」
浮足立つ私は不安に駆られながらも、彼に続きを促す。
「黒猫――彼女は子供を産めないかもしれない」
がつんと来た。鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が心の中を走る。何故、と言おうとするがうまく言葉にならない。舌が回ってくれないのだ。そんな様子の私に彼は、落ち着いて、深呼吸をするんだ、と声をかける。
たっぷり時間をかけて何度も深呼吸をする。大丈夫だ。落ち着いた。
「君は期待を裏切らないね。予想通りの反応だ」
「それが落ち込んでいる猫に言う事かね」
「いや、すまない。僕はシリアス展開はごめんなんだ」
ははは、と彼は笑いながら前足を拝むように合わせる。私はそんな彼にいらつき、猫パンチを食らわせる。
「それにしても何故なんだ?」
私はゆっくりと確実に言葉を発する。
「ああ、先日の黒猫観賞会の中で僕はある事が気になったんだ」
「ある事とは?」
「調べたときにも気になったんだが、黒猫は成猫にしては行動が幼すぎると思ったんだ」
あの時黒猫を見ながら考えていたのはそのことか。
確かにそのことは私も思ってはいたが、それがどうして子供が産めないという事になるのか。疑問に思ったのが顔に出ていたようで、彼はその理由を言った。
「彼女はつい最近、子宮摘出手術をさせられたらしい」
「なに?」
「子宮摘出手術。所謂、避妊手術だ。その影響で仔猫のような行動をとるという」
それでなのか。彼が気になった部分の理解が出来た。
それにしても子供が産めないのか。これだけ考えると私がそれだけを求めて黒猫を見ていると思われてしまうが、それでもやはり、子供を作れるというのは重要だと思う。私と黒猫との間に何か形のある物を残せる事は黒猫への愛があったことの証左になるのだ。と、私は考えている。
――ああ、いかんな。存外ショックが大きいようだ。また落ち込みそうになる。
私は弱気になりそうな心を叱咤して、彼を見据える。
「僕が口を出せるのはここまでだ。あとは自分で判断して行動するといい」
彼もまた私を見据えながら言った。
私は、ああ、と頷き神社を出る。
それから私は考え、悩んだ。
ここ数日と一日中惚けることが多く、飼い主の言葉にも上の空で返事をして、心配させてたりもした。
餌の味も感じる暇などなく、思考が繰り返す。
彼にはああ言われたが、どうしても私では考えがまとまらない。
頭が錆びた機械のようにうまく働かないのだ。
黒猫は私にとって禁断の果実だ。それを手にすべきではないと分かっていても、黒猫の魅力は抑えられない。ほしいと思ってしまう。手に取ってしまえば黒猫の無垢な心を穢してしまうかもしれないというのに。
恋とはこんなにも甘く、抗いがたいものなのか。
彼もかつてはこのような、身を焦がすような恋をしたというのか。いや、しているというのか。私には耐えようのない、辛く苦しい。
そうだ。気分転換に外に出よう。このままでは身も心も腐ってしまうだろう。
私はどこかぼんやりしたまま家を出る。そのまま当てもなくふらふらと歩いていく。
どこを通ったのか分からないが、大通りへと来ていた。
いつもと変わらないように人間たちは、足早に私の前を、横を、後ろを通り過ぎて行く。
耳に何かを付けて歩いていく人間。携帯電話というものを操作しながら歩いて行く人間。複数の人間が横に並び、なにかを話しながら歩いている。
大きな人間たちには小さな私は見向きもされず、そこに居る。まるで私の存在が無いかのような錯覚を覚える。
気分転換に来たというのに、さらに落ち込むという、何をしに外に出たのか分からなくなる。
大通りを抜け小さな路地に入る。そこは薄暗くじめじめとしていて、私の心を反映しているかのような場所だ。
まったくもって私らしくない。私はこんなに繊細な猫ではなかったはずだ。常に余裕を持って優雅たれ、を信条としている私が、今は余裕を持てない。
足元にあった小石を前足で蹴る。小石が転がり、音は壁に反響する。やけに大きく聞こえるその音は私の心をさらに重くする。
はぁ、とため息をつきながらとぼとぼと歩く。
しばらく歩いていると後ろから声が掛った。
「こんにちは。落ち込んでいる猫さん」
透き通るような声だ。私はその声に引かれるように後ろを向く。
「こんにちは――」
私は声の主を見た。そこに居たのは白い毛の美しい猫だった。
「何について落ち込んでいるのか教えてもらってもいいかな?」
その言葉に私は自然と口を開いていた。
「恋、について。彼女に私が告白することが果たしていいのだろうか。そのことで考え悩み、落ち込んでいる」
初対面の猫に何を口走っているのだろうか。そう考えるものの、白い猫の前では話すことがさも当然かのような感覚になってしまう。不思議な猫である。
「恋、ね。それも片思いか。それは辛いだろう、怖いだろう。相手の事を思うというのは喜びや悲しみ、苦しみや恐怖を一気に感じるものだ」
ああ。黒猫の事を思えば辛く悲しくもある。苦しいのだ。だが、それ以上に嬉しく喜びも感じてしまう。これが恋なのだ。
「私のこの気持ち、彼女に伝えるのは良いのだろうか。自信が持てないのだ」
私は気が付いたら聞いてしまっていた。この奇妙な白い猫に。
白い猫はくすくすと笑い、答えた。
「自信なんてどうだっていいのさ。言わないことには何も始まらない。何も始まれない。君はまだスタートラインにすら立っていないんだ」
言われてみればその通りだ。私が一人でうじうじと腐っているだけなのだ。まだ、何も始まってなどいない。
「仮に、仮にだ。彼女が子供を産めないと分かっていた場合はどうすればいい?」
どうしても気になっていることを、不安に思っていることを聞く。この白い猫に聞けば答えが分かると思って。
白い猫は少し考えるそぶりを見せ、言った。
「子供か。それは重要だ。でも、子供が出来なくとも一緒にはなれる。それだけでは駄目なのかな」
白い猫は困ったように笑う。
「さっきから偉そうなことは言っているが、私には恋愛経験が無くてね。まあでも、私を慕ってくれたある猫の言葉なんだが、恋とは相手のありのままを受け入れることだ、と。君に必要なのはこの言葉じゃないかな」
ふと、彼を思い出した。何故だろうか、分からない。だが、私の心にその言葉は沁みた。何を悩んでいたのだろう。何で悩んでいたのだろう。私の頭の黒い靄が晴れて行くのを感じた。
「良い顔になったじゃないか。さっきよりもずっと良い顔だ」
「あなたのおかげだ。ありがとう」
はっきりとした頭で私は、白い猫に感謝を述べた。
「いいさ。君を見ていたらつい声をかけてみたくなってね。礼には及ばないよ」
それじゃあ、と白い猫は言って、私の横を通り過ぎる。
段々と小さくなっていく白い猫を見ながら、私は前足で顔を叩き、気合を入れる。
路地から大通りに出ると、人間たちが相変わらず歩いている。
しかし今度は、私はしっかりと存在している。小さな私でも、確かに存在している。
もう迷いなどない。私は黒猫に告白しよう。胸に秘めた決意が色あせないうちに。
目の前に広がる大通りを力強い太陽の日差しを浴びながら、私は――猫は歩く。
車の中で思いついたので書いてみました。
駄文ですが読んでくれてありがとうございます。