フィーブ・キール 4
Ⅴ フィーブ
落とし戸を閉める。
これでどれくらいの時間稼ぎができるか、わからない。それでも、きっと、アーキスの縛めを解くくらいの時間はあるだろう。
――あって欲しい。
じゃらりというなじみのある音に振り向けば、アーキスが、鎖を弄っていた。
まってろ、今、外してやる。
息が荒く、声にすることができなかった。
まったく、自分で自分が、情けない。いや、そんなことを考えているひまはない。オレは、アーキスを、解放するために、やってきたのだ。
呼吸を整える。
「アーキスっ」
思いもよらないほどの、鋭い声になってしまった。
アーキスが怯えなければいいのだが。
よかった。顔を上げたアーキスは、少しも怯えてはいないようだ。何かに耳を澄ませている。
「手、手を出せ」
焦ってしまう。
オレを追って、騎士たちがやってきている。彼らの罵声が、オレを、急き立てる。
アーキスが、おとなしく手を、伸ばしてきた。あまり、やさしくは扱えないが、許してくれ。今は、速さのほうが大事なんだ。
鍵を、枷の鍵穴に、差し込む。あまりにも手が震えて、数度失敗したが、どうにか、開錠できた。次々に、枷を外してゆく。
アーキスが、無言のまま、手首を、さすっている。
大丈夫そうだ。
よかった。
これで、アーキスは、自由にどこにでも行くことができる。
こんな、狭く不自由なところなど、アーキスには、あまりにも似つかわしくなさ過ぎたのだ。
追っ手の得物のたてる音が、背筋を粟立たせる。
アーキスを、解放することができた感慨に浸っているひまなど、今は、ない。
「アーキス、立てれるか?」
立つことができないというなら、オレが、背負ってやる。そう覚悟したオレの目の前で、アーキスが、笑った。
金の目が、少しだけ細められ、形よく整ったくちびるの端が、めくれ上がるように、もたげられる。
心臓が、ひとつ、耳障りな音をたてた。
こんな、アーキスなど、オレは、知らない。
後退さりたいほどの寒気が、背筋を這いのぼる。それを諌めてくれたのも、しかし、また、アーキスだった。
オレの手の上に、アーキスの手が重ねられ、強く、握りしめたのだ。その手の、あたたかさが、オレを、我に返らせた。
「よっと」
気分を変えるためにも、オレは、力を込めて、アーキスを引っ張り立ち上がらせた。
「フィーブ」
耳もとに、アーキスの、やわらかな声が、届いた。
ああ、いつものアーキスだ。
そう安心したときだった。
ドアが、大きな音を立てて、開かれた。
屈強な騎士が、ふたり、次いで、見慣れたオベールが、塔に、踏み込んできたのだった。彼らの背後、階には、まだたくさんの追っ手の姿がある。
オレは、それだけのことをしたのかもしれない。
オレは、それだけのことをしようとしているのだ。
声もない。
震える。
恐いのだ。仕方がない。
それでも、アーキスだけは、自由にしてやりたい。永かっただろう苦痛から、解放したいのだ。
オレは、両手を広げて、オベールたちに対峙した。
オレは、アーキスを、スクリーンの影に、押し込んだ。とっさの判断だったが、かろうじて、間に合った。念のために、手を広げて、オベールの意識をこちらに向ける。
『アーキス、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
押し込む寸前にささやいたのは、妄信に近い、確信だった。
竜と呼ばれるからには、根拠があるはず。血を啜られる竜など、聞いたこともない。ならば、そうなる以前には、竜と呼ばれるだけの力が、アーキスにはあったはずなのだ。
―――自由になってくれ。
オレは、心の中で強く祈り、オベールらと対峙した。
「もう、逃げ場はない」
オベールが、厳しく、告げる。
そんなことは、わかっている。オレには、逃げ場などは、ないのだ。逃げるにしても、この三年間握りもしなかった剣の腕は錆びてしまっているだろう。逃げ切ることなどできはしない。けれど、オレ自身のことなど、今はどうでもよかった。オレは、せめて、なんとしてでも、アーキスを解放してやりたかった。それだけだ。
オレは、ただ、オベールの目を、見返した。
「いったい、キールの若君には、なにを考えておられるのか」
どこか溜息交じりのことばだった。
「殿の御情を受けることは、このうえない名誉。それを、恐れ多くも、殿を足蹴にして、逃げ出すだなどと。人質であるという、己が身をわきまえてはおられぬのか。あなたの国が、滅ぼされてもかまわないと、まさか、考えておられるはずは、ございますまい」
そんなことは、わかっている。今更―――だ。
やってしまったことは、取り返しがつかない。
許されることでも、許されようとも、思ってはいない。
奥歯を、噛みしめる。
と、不意に、オベールの口調が変わった。
「まさかと、思うが、キールの若君は、竜に誑かされておしまいか」
嘲るようなオベールのことばが、オレの中の何かを、弾いた。
「それとも、すでに、ねんごろになられておられる――とか」
ねっとりと、さげすむような声に、オレの中で形になりかけていたものが、崩れ去る。
「見目形は整っておれど、所詮人外。竜と呼ぶも、家畜に過ぎぬ。そのようなものに誑かされるとは」
嘲笑うオベールに、オレの我慢も、限界だった。
「アーキスは、家畜じゃないっ!」
剣の柄に手がかかったと思った時には、抜刀し振りかぶっていた。
「名前までおつけか。物好きな。家畜と一つ身になられるようでは、殿の御情を受けるに値せぬが――殿はことのほかキールの若にご執心のごようす。どうであれ、連れ戻れとのご命令」
オレの攻撃をかわしたオベールが、オレの手から剣をもぎ取った。
その時だった。
下のほうから、悲鳴が聞こえてきた。それは、まるで、この世のものとは思えないほどの、ありえぬものを目にした恐怖の、悲鳴だった。
「なにごと」
オベールの声が、力をなくした。
オレを捕らえている手が、小刻みに震えだす。
オレもまた、今の自分の状況を忘れ去り、ただ、目の前を、凝視していた。
目の前――ドアから、入ってくるもの、それは、本当に、
「と………殿」
生きているのか。
青白いというより、青黒い、そんな肌色の、人間が、うつろなまなざしで、こちらを見ていた。
その口からこぼれ落ちているのは、赤い――血。その手にしているのは、ひとの、手―――だろうか。
咀嚼する音が、怖気を、吐き気を、誘う。
いったい、なにが起きているのか。
ゆらりと、近づいてくる、その、おそらくはボルティモアだろうモノから、オレは、目を放すことができなかったのだ。