フィーブ・キール 3
Ⅲ フィーブ
ボルティモアの手が、オレの手を掴んだ。
忘れていたつもりはないのだが、アーキスのことばかりが気にかかって、対策を考えていなかった。結果的に忘れていたのと同じことだ。
何?
ボルティモアに押し倒されかけたことだ。
そりゃあ、まぁ、オレだって一応騎士だし。男同士でするそういうことが、戦場ならある種の嗜みだってことくらいは、知ってる。けど、これまで一度も戦に出たことがないわけで、ずっと塔で仕事してたオレは、それに関する作法やもろもろなんか、学ぶひまも、機会もなかった。
当然、心の準備もないわけで………。
小姓たちの控えの部屋から、オベールに呼び出されて、案内されたのは、ボルティモアの部屋で、厭な予感がした。
したからといって、逃げるわけにはいかないのが、城勤めの辛いところなのだろう。ただの城勤めですらそうなのだから、人質であるオレに、拒否権などもとよりない。
この間は、アーキスに関するどさくさで、お咎めなしだったが、今回も同様ってわけにはいかないんだろう。
この辺で、腹を括らんといかんのだろうなぁ。
ボルティモアの手が、着衣の袖口から、するりと入り込んで、オレの腕を撫で上げる。ぞわりと、背中を走り抜けたのは………どう分析してみても、快感なんかじゃなかった。
男にというか、ボルティモアにこんなことされるっていうのが、厭なんだけど。
ボルティモアのこと、オレは、好きじゃない。好きになれない。こういう感情など、邪魔なだけだろうけど、やっぱり、そういうことするなら、せめて、最低限は、好きなヤツとしたほうが、気分的に違うんじゃないかなぁと、思うわけで。
好きなヤツ………いないよなぁ。
そう思った瞬間、頭の中に浮かんだのは、アーキスの白い顔だった。
「うわっ」
思わずのけぞったのは、他意があったわけじゃない。
あまりにも思いがけなかったことに、自分でびっくりしてしまっただけで……。
気がつけば、ボルティモアの手を振り払っているオレがいた。
気まずい沈黙に、どうすればいいんだろうとか、はやく謝んないととか、怒ってるんだろうかとか、思考がぐるぐるとまわっていた。
「あ……と、すみま…………っ」
とりあえず謝らないとという選択肢を選んだオレが、最後まで言葉を口に刷るより早く、ボルティモアが、オレの着衣に手をかけた。
無言のままの行為に、気まずさなんか吹き飛んだ。
恐い。
正直なところ、それだけしか、頭になかった。
だから、オレは、無様にも――いや、多分、知らないが、作法的にはそうなるかもしれない――ボルティモアの腹を、蹴たぐってしまっていたのだ。
あまりに予想外の行動だったのだろう。
グゥと、呻きをあげて、ボルティモアがうずくまる。
とっさの行動だったが、オレの背中に、冷たい脂汗が滴りながれた。
やばい。
最悪。
どうしよう。
たかが、閨房でのことと、笑って許しては、くれないだろう………か。
多分、もう、取り繕えないんだろうなぁ。――なんとなく他人事のように考えているオレがいた。
こんなことで、自国に破滅を招くなんて、すっごい間抜けだ。けど、やってしまったあとに、なかったことには、できない。
ゴメン―――隣国の家族に謝る。
オレのせいで、戦が起きるかもしれない。ボルティモアに攻め入られては、それでおしまいだ。
ゴメン。
伯父や伯母、それに、まだ顔も見たことのない従妹に、謝る。
ゴメン。
一族郎党、それに、領民たちに謝る。
本当に、ごめんな――――。
ここまで最悪の事態を引き起こせば、後はなにをしても同じかもしれない。
ボルティモアは、まだ、うずくまったままだ。
そうだ、なにをしても、同じだ。
なら、どさくさに紛れて、探してしまおう。
とっとと、探して、奪ってしまおう。
ここでもたもたしていては、オベールがくる。そうなってからでは、遅すぎる。
家族たちの顔を振り切り、オレは、家捜しをはじめた。
あってくれと、心の中で願いながら、あちらこちらを引っくり返す。
そうして、物は見つかった。
アーキスを縛めている枷や鎖と揃いだとすぐにわかる、鍵は、ボルティモアの机の小引き出しから転がり出てきた。
「うわっ」
鍵を懐に仕舞おうとして、手首をつかまれた。
うずくまって震えていたボルティモアが、オレの手をぎりぎりと締め上げる。
なんか変だ―――そう思った。
よく考えれば、オレが蹴たぐったくらいで、ボルティモアが、こんなに弱るとは思えない。
青ざめた顔が、のっぺりとした顔の中、細い目が、爛々と光って、オレを見上げていた。
「は、はなせっ」
必死になって、オレは、ボルティモアの手を、振り払った。
そうして、後も見ずに、廊下にまろび出たのだ。
追いすがろうとする声、もしくは、オレを留めようとする声が聞こえたような気がしたが、オレは、走った。
その時、オレの頭の中には、ただ、アーキスの白い顔だけが、浮かんでいたのだ。