ラブストーリーがはじまらない
日直当番の朝は早い。通常登校時間の二十分まえに登校し、担当教員に生徒名簿と学級日誌を受けとると、教室内の換気と掃除、座席の整頓、授業で使用する備品の点検をおこない、生徒が集まるまえに、ここちよく勉学にはげめる環境をつくらなくてはならない。座席順にまわってくるふたり組みの仕事で、片方が遅れれば支障をきたす。
ベッドの横にある置き時計が午前八時を告げていた。昨晩、アラームを午前七時に設定したのだが、電子音にききおぼえがないので、目安針だけをなおしてセットをし忘れたか、寝ぼけてとめてしまったのだろう。私は自分の警戒心のうすさを呪った。いまは動揺する時間も惜しい。制服に着がえて下階へ降り、家族へのあいさつもそこそこに洗面所へむかう。姉の理花子が顔をだして「なにいそいでんの?」と不審がった。
「日直だったのに、寝坊したの」
「へえ、馬鹿だねあんた」
姉はのんきに笑った。
専門学校で美容をまなんだ姉は卒業後、エステティックサロンに就職し、エステティシャンとしてはたらいている。出勤時間は十一時と遅く、自動車通勤ということもあり、毎朝のんびりかまえていた。
高校は自宅から徒歩で十五分の近場にある。日直当番の登校時間は八時十分なので、走れば間にあう可能性は捨てきれない。走りながら、ホイップクリームとミックスフルーツのサンドウィッチの封をあけた。登校支度を終えてあわただしく靴を履いているところに、姉からわたされたものだ。パッケージには駅近郊にかまえるサンドウィッチ専門店のロゴがはいっている。姉がつねに非常用として買い置きしている食料のひとつだった。口の悪い姉だが、昔から面倒見がよくなにかと可愛がってくれるので頭があがらない。
二車線道路をへだてて建つ校舎がみえた。しかし、つづく横断歩道の青信号は点滅をはじめる。民家の角を走りきり、横断歩道にせまったところで右側に衝撃をうけた。食べかけのサンドウィッチが手の中でつぶれた。
「大丈夫、怪我はない?」
肩をささえられて起こされた。顔をあげると、衝突した人物の正体が学園一の美男子鷹丸くんだということを知った。
「ご、ごめんなさい、私……」
ふと視線をさげると、鷹丸くんのブレザーの襟が白く汚れていることに気づいた。間違いなく、サンドウィッチからはみだしたホイップクリームである。
「あっ、あああああ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
ぬぐおうにも、私の手は同じようにホイップクリームと砂塵で汚れている。高校近辺はかつて、武家屋敷が並ぶ一帯だったため、路地は入りくんでいてまぎらわしい。「角張って整頓された道は人とぶつかりやすいから気をつけなさい」と、幼いころから両親に口すっぱく注意をうけていたにもかかわらず、情けないこととなった。
「これくらい平気だよ。それより、いそいでいたんじゃないの?」
私は日直当番のことを思いだしてうろたえた。信号が青に変わり、鷹丸くんは「早く行きなよ。この件でなにか不都合なことがあったら、あとで遠慮なく言っていいからさ」とせかして送りだした。礼を述べ、走りぎわにふり返ると、鷹丸くんは微笑んで手をふった。
教室へ駆けこんだのは、生徒名簿と学級日誌を隣席の男子生徒が受けとったあとだった。途中、手が汚れていたため上履をとりだせず、靴下のまま廊下を走っている場面を養護教員の浅倉にとがめられたがふりきった。ちゃらちゃらしているようにみえて案外まめな男なので、のちにこまごまと指導されることを考えると気が重い。すでに教室内の清掃にとりかかっていた男子生徒ははじめ、私の姿を気の毒がったが、寝坊がまねいた事態と知ると仕事の半分以上を押しつけた。文句は言えなかった。
生徒をむかえる仕度をととのえ、学級日誌に授業表の記入をしながら今朝のできごとを寧々につたえると、寧々は腹をかかえて笑った。
「なにその古典的少女漫画みたいな出逢いかた! 実際に体験する人はじめてみたよ。あとで写メ撮っていい?」
「珍獣あつかいやめてよ。ぶつかりたくてぶつかったわけじゃないんだから……」
「そりゃあそうだろうけどさ、結果が悪かったよね。笑い話でしかないよ。いいじゃん、これが縁で本当に少女漫画みたいな展開になるかも」
寧々は他人事とさだめて勝手に楽しんでいる。授業表を書き終えたところで、龍之介が友人の寺島と浩太郎くんをともなって入室した。
「おまえ日直の時間に寝坊して遅刻したんだって?」
閉口いちばん、龍之介は憎らしい口をきく。返答したのは私ではなく寧々で「実はね……」と今朝のいきさつを語った。
「それ本当!? 佐藤ちゃん希少生物だね! ね、放課後写メ撮っていい?」
寧々と同じような反応をみせたのは浩太郎くんである。「やだあ、浩太郎くん私と同じこと言ってる」と寧々は愉快気だが、見世物にされた私はまったくおもしろくない。つづけて龍之介が「危なっかしいやつだな。どうせ遅刻のことしか頭になくて猪みたいにつっこんでったんだろ。おまえ怪力だし、相手がかわいそうだよ」とすげなく言うのでよけいに腹がたつ。私は勢いにまかせて龍之介のわき腹をなぐった。鷹丸くんは被害者にもかかわらず気をまわしてくれたというのに、なんて遠慮のないやつらだろう。
放課後、担当教員に生徒名簿と書き終えた学級日誌を返却するため席をたつと寧々と浩太郎くんに名を呼ばれ、なんの懸念もなくふりかえった姿を携帯電話のカメラに撮られた。
「加工してあとで送ってあげる」
言うなり寧々は教室を飛びだして携帯を奪おうとする私から逃れた。虚弱体質というわりに足が速い。その隙に、浩太郎くんもどこかへ消えうせていた。
「撮られたときのおまえの顔、気ぬけてて超阿呆面だったぞ」
龍之介はせせら笑って玉緒ちゃんを駅まで送り届けるために教室をでていく。……とりあえず龍之介が自宅へ帰ってきたら押しかけて憂さを晴らしてやろう。
教員室へむかう途中で女子生徒にかこまれている鷹丸くんをみつけた。
「あ、今朝の」
鷹丸くんが手をあげて私を呼んだ。改めて謝罪すると「なんかいも謝ってもらっているし、もういいよ。そんなに自分を責めたら駄目だよ」とあまり気にしていないようだった。鷹丸くんから直接声がかかった私におもしろくない顔をしていた女子生徒たちはあらかじめ事情をきいていたのだろう、うわずった声で「もしかして例の朝の娘?」と鷹丸くんにたずね、肯定されるとあっさり下校していった。
「それで、怪我はなかった?」
「私は大丈夫だけど、鷹丸くんは? 汚しちゃった制服は……」
ブレザーの襟をみると、汚れは目立たなくなっていた。
「女の子が気づいて洗ってくれたんだ。だから本当に大丈夫だよ。……そんなことよりお願いがあるんだけど」
鷹丸くんはためらうように笑って尻のポケットから携帯電話をとりだした。少女漫画みたいな展開になるかも。寧々のからかう声が遠くできこえてうろたえた。心臓の音がうるさく鳴っている。私はブレザーのポケットに入っている携帯電話を指でなぞり、その存在をたしかめた。
「パンをくわえながら、ではないけれど、食べながら走って異性とぶつかる人って本当にいるんだね。びっくりしたよ。記念に写メ撮らせてもらってもいいかな?」
「…………え」
返答するよりさきに、鷹丸くんの携帯電話から乾いた音が鳴った。
教員室へ入ると、医務室から出ていた浅倉に朝の事情を問われ、責任感のなさと行儀の悪さを注意された。担当教員の鈴ヶ谷先生がなだめてくれて場はおさまったが、呆然としていたので浅倉の説教はもとから耳にはいっていない。あしたはきょうよりいいことがあればいい、そんなことをずっと願っていた。
翌朝、七時二十分に設定した置時計のアラームよりまえに、携帯電話の着信音が鳴った。着信は寧々からで、今日は遅刻しないように、との注意にきのう撮影された画像がついてきた。間のぬけた顔の横に、ラブストーリーはとつぜんに、と文字がはいっていた。漢字をひらがなに直しているあたり、先方に気をつかっているらしい。私はメールを削除してふたたび寝にはいる。起床時間までまだ十五分もあった。




