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英雄のゆりかご

作者: aires1_999
掲載日:2026/09/27

  ねんねん ゆりかご いくつある

  百と千と まだたりぬ

  ひとつめざめりゃ えいゆうさま


  ――古い童歌(わらべうた)


        ♢


いつの時代にも、ごくまれに英雄が生まれる。


城門を素手で押し倒す者がいる。川の流れを曲げる者がいる。一人で一軍の前に立ち、そのまま一軍を止めてしまう者がいる。


最古の王墓の壁にも、門の前に一人で立つ人物が刻まれている。


いまの時代には、英雄院がある。英雄を扱う役人を育てる学校である。


アルトが英雄院の官僚課程に入ったのは、十八の秋だった。


アルトは英雄ではない。大きくなっても、何も起きなかった。英雄院の官僚は食いっぱぐれがない、と聞いた。志望の理由は、ほとんどそれだった。


        ♢


英雄史概論の講義は、教育棟の三階の東の端、第七講義室で行われた。


天井の高い、奥へ長く延びた部屋だった。梁(はり)には古い鉄の鉤(かぎ)が、端から端まで同じ間隔で並んでいる。二十七人の新入生は、前のほうに固まって座っていた。


席に着くとき、床がわずかに傾いている気がした。古い建物だからだろう、とアルトは思った。


扉が開いて、モース教官が入ってきた。五十がらみの、背の高くない男である。教壇に立つと、挨拶もなしに黒板に一行書いた。


『国にとって、英雄は何人いればよいか。』


「今日は、英雄の数の話をします」とモースは言った。「答えてください」


前の列の学生が手を挙げた。


「多ければ多いほどいいと思います」


「では、何人いれば多いのですか」


学生は黙った。


「質問を変えましょう」モースはチョークを置いた。「昔、一人で足りた国がありました」


  ──────────────


  守り手が死んだのは、秋の終わりだった。熱が三日続き、四日目の朝、冷たくなっていた。七十一歳だった。


  三十年のあいだ、敵の軍勢は国境の丘まで来ては、城壁の上に立つ守り手の姿を見て、引き返した。一度も剣を抜かずに、三十年である。だから城壁は直されなかった。守備兵は半分に減らされ、減らした分の銀で、王都には美しい劇場が建った。


  初雪の日、丘の上に、いつものように旗が並んだ。


  城壁に登った少年兵が、古参の兵に訊いた。


  「守り手さまは」


  古参の兵は答えなかった。門を閉めよ、と下から声がした。


  門は、三十年ぶりに、人の手で閉めねばならなかった。閉め方を知っている者は、もういなかった。


  ――ロサ・ヴェント『初雪の門』より


  ──────────────


「『初雪の門』です」とモースは言った。「皆さん、子供のころに一度は読まされたでしょう。国は、その冬のうちに地図から消えました」


何人かがうなずいた。アルトも読んだことがあった。十歳のとき、最後の頁で泣いた。


「では、この国はどうすればよかったと思いますか」


窓際の学生が答えた。


「英雄に頼らなければよかったんです」


「零点」


教室が少し静かになった。


「隣の国には英雄がいます。あなたの国にはいない。城門は、あなたの軍隊ごと内側へ倒れてきます。英雄に頼らない国というのは、英雄を持つ国に負ける国のことです」


別の学生が言った。


「城壁を直して、兵を減らさなければよかった」


「部分点。正しいですが、それだけでは足りない。敵の英雄が来たら、同じことです」


モースは教室を見回した。誰も手を挙げなかった。


アルトは考えた。英雄に頼らなければ負ける。頼れば、その一人が死んだときに終わる。問題は、頼ったことではない。


アルトは手を挙げた。


「一人に頼ったのが問題なら……複数、置けばいいのでは。一人が死んでも、ほかがいるように」


「その通りです」


モースは黒板に書いた。


『二座制(にざせい)』


「それが、二座制です」



その国の最期を見ていた隣の国が、それをしました、とモースは言った。


国防の要に、常に二人の英雄を置く。一人が死んでも、一人が残る。一人が病んでも、一人が残る。退く者が出る前に、次の者を育てておく。二つの座のどちらも、決して空けない。


「最初の四十年は、大成功しました」とモースは言った。「ある時期には、三人いたこともあります。国は、あの冬の弱点を克服したと考えました。実際、克服していたのです」


それから、英雄が現れなくなった。


「二十八年、一人も現れませんでした。珍しいことではありません。英雄は、来てほしい年に来るものではない」


一人が老いて退こうとした。国は、あと一年だけ、と頼んだ。もう一人が病に伏した。国は、病床のまま名簿に名を残した。老いた一人は、死ぬまで座を降りられなかった。二十八年ののち、ようやく力が現れた子供は、すぐに繰り上げて座に就けられた。


二つの座は、空かなかった。書類の上では。


  ──────────────


  閲兵の日。広場に二つの座が並ぶ。第一座には英雄が立つ。第二座には、幕を下ろした輿《こし》が一つ置かれている。


  宰相 第二座は。


  侍従 ご健在にございます。


  宰相 お顔を拝したい。


  侍従 お風邪を召しておいでで。


  宰相 去年もそう申したな。


  侍従 去年から、お風邪を。


  (一同、輿に向かって深く礼をする。輿の中から、咳が一つ)


  ――喜劇『第二の座』第二幕より


  ──────────────


教室のあちこちで、小さな笑いが漏れた。アルトも笑った。


「笑っていい」とモースは言った。「初演から四百年近く、毎年どこかで上演されている芝居です。ただ、この芝居を笑った国のほとんどが、そのあと同じことをしました」


笑いが引いた。


「結局、この国は、二人はいないと認めました。認めて、城壁を直し、兵を増やし、英雄が一人しかいない前提で国防を組み直した。国は、滅びませんでした」


モースはチョークで、二座制の三文字を丸で囲んだ。


「二人いることが、目的になっていたのです」


モースは教室を見回した。


「当時の人は、この失敗から何を学んだと思いますか」


アルトは、さっきの芝居を思い出していた。空いた座。来ない英雄。


「英雄が出ないのが問題だ、と」アルトは言った。「……だったら、出るようにすればいい」


「当時の人も、そう考えました」とモースは言った。「どうやって」


「英雄の血を残す。英雄同士を結婚させるとか。英雄の家に、子供をたくさん持たせるとか」


「部分点」


アルトは瞬きをした。


「やった国はあります」とモースは言った。「それも、たくさん」



英雄の血は子に伝わる。人々はずっとそう信じてきた、とモースは言った。親に似た子が生まれるのだから、英雄の子は英雄に近いはずだ。それはごく自然な考えで、愚かな考えではなかった。


だから多くの国が、英雄を結婚させた。英雄の家には土地を与え、子の数に応じて税を免じた。英雄の子同士を娶《めあわ》せ、その子をまた娶せた。系図は何百年分も書き継がれた。


「最も有名なのは、これでしょう」


  ──────────────


  帝、英雄の血を国に満たさんとて、一英雄に妻を賜(たま)うこと千に及ぶ。子、三千余。うち英雄、なし。


  ――『南方年代記』千母帝(せんぼてい)の条


  ──────────────


また笑いが起きた。


「一人も?」と後ろの誰かが言った。


「一人も」とモースは言った。「同じころ、帝都の粉挽きの家からは、一人出ています」


笑いが大きくなった。モースは笑わなかった。


「部分点の理由は、ここからです」


英雄の血を増やそうとした国々は、どこも几帳面だった。誰が誰と結婚し、何人の子が生まれ、その子が英雄だったかどうか。何世代にもわたって、一人も漏らさずに書き留めた。英雄の家の子だけでなく、山村の農民の子の記録まで取った。


その膨大な帳簿が、のちに一か所に集められた。


「そして分かったのです。英雄の血筋だからといって、英雄にはならない」


モースは黒板に書いた。


『英雄は、血では増えない。』


「血で増やそうとした記録が、それを証明したのです」


鐘が鳴った。


「続きは休憩のあとで」とモースは言った。


        ♢


休憩は二十分だった。


アルトは廊下に出た。隣の席の学生がついてきた。ベルンという名の、よく喋る男だった。


「千母帝、試験に出ると思うか」


「『うち英雄、なし』は出るだろうな」


「嫁が千人ってのも出るかな」


「出たら書けばいい」


「千人の名前を?」


アルトは笑った。


鐘が鳴った。


        ♢


モースは黒板の端に、小さく三つの言葉を書いた。


『一人に頼るな。』


『来ない年があると思え。』


『血は役に立たない。』


「前半のおさらいです。当時の統治者も、ここまでは知っていました」


「では、問題です」とモースは言った。


「あなたは、ある国の統治者です。隣の国には英雄が三人いる。あなたの国には一人しかいない。その一人も、あと何年もつか。二十年か、十年か。そのあと、英雄が一人もいない年が来るかもしれない。さて、あなたならどうしますか」


窓際の学生が言った。


「よその国の英雄を、金で雇う」


「部分点。やった国があります。英雄は、とても高くつきました。そして、もっと高く払う国が現れた日に、いなくなりました」


別の学生が言った。


「隣の国の英雄を……」そこで言葉を切った。


「零点。相手も同じことをします。そして相手には、三人いる」


誰も手を挙げなくなった。


アルトは黒板を見ていた。


血は役に立たない。家は関係ない。どの家にも、等しく生まれる。なら、関係があるのは――


答えは、もう出ていた。


「人を、増やせばいい」


言ってから、自分の声が少し弾んでいたことに気づいた。問題が解けたときの声だった。


「その通りです」


「では、英雄を一人増やすには、何人増やせばいいと思いますか」


前の列の学生が言った。「千人、とか」


「もっと」


後ろの誰かが言った。「一万人」


「もっと」


モースは黒板に向き直り、その下に、さらに一行書き足した。


『およそ百万人に一人。』


「百万人です。百万人で、一人」


誰も何も言わなかった。


アルトは黒板の数字を見ていた。百万人。英雄一人に、国がひとつ要る。


それでも、頭の中で、次の一手が勝手に組み上がっていった。止めようとは思わなかった。


「……大きくなるまで生きないと、英雄かどうか分からない」とアルトは言った。「なら、子供が死ななければ、それだけ増える」


「そうです」


ベルンが、ほとんど独り言のように言った。


「……それは、いいことだろ」


誰も応えなかった。


「子供を、たくさん産んでもらえば」とアルトは続けた。


「そうです」


「隣の国を取れば、その国の子供の分も」


「そうです」


アルトはそこで止まった。


教室は静かだった。さっきまで笑っていた者も、誰も笑っていなかった。ベルンが、机の上で指を組んでいた。


「満点です」とモースは言った。「一人に頼らず、来ない年を作らず、血にも頼らない。これまでの教訓を、全部守っています。どこにも誤りはない」


「この答えに、最初にたどり着いた人がいました。ある国の記録院の書庫で、何十年分もの子供の帳簿を一冊ずつ繰(く)って。その人は、集計簿の余白に一行だけ書き残しています」


  ──────────────


  およそ百万につき一。二百万なら、二。


  ――ある記録院の集計簿、百十七頁の余白


  ──────────────


「この一行から始まり、百五十年続いたものがあります」とモースは言った。


「それが、揺籃(ようらん)戦争です」


誰も何も言わなかった。


モースは、少しのあいだ天井を見上げていた。梁に端から端まで並ぶ、古い鉄の鉤を。


「この部屋には、かつて四百のゆりかごが並んでいました」


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― 新着の感想 ―
最初は英雄を二人置く話だったのに、最後には「百万人で一人」という数字にたどり着くのが怖かったです。最後の四百のゆりかごも妙に残りました。
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