英雄のゆりかご
ねんねん ゆりかご いくつある
百と千と まだたりぬ
ひとつめざめりゃ えいゆうさま
――古い童歌
♢
いつの時代にも、ごくまれに英雄が生まれる。
城門を素手で押し倒す者がいる。川の流れを曲げる者がいる。一人で一軍の前に立ち、そのまま一軍を止めてしまう者がいる。
最古の王墓の壁にも、門の前に一人で立つ人物が刻まれている。
いまの時代には、英雄院がある。英雄を扱う役人を育てる学校である。
アルトが英雄院の官僚課程に入ったのは、十八の秋だった。
アルトは英雄ではない。大きくなっても、何も起きなかった。英雄院の官僚は食いっぱぐれがない、と聞いた。志望の理由は、ほとんどそれだった。
♢
英雄史概論の講義は、教育棟の三階の東の端、第七講義室で行われた。
天井の高い、奥へ長く延びた部屋だった。梁には古い鉄の鉤が、端から端まで同じ間隔で並んでいる。二十七人の新入生は、前のほうに固まって座っていた。
席に着くとき、床がわずかに傾いている気がした。古い建物だからだろう、とアルトは思った。
扉が開いて、モース教官が入ってきた。五十がらみの、背の高くない男である。教壇に立つと、挨拶もなしに黒板に一行書いた。
『国にとって、英雄は何人いればよいか。』
「今日は、英雄の数の話をします」とモースは言った。「答えてください」
前の列の学生が手を挙げた。
「多ければ多いほどいいと思います」
「では、何人いれば多いのですか」
学生は黙った。
「質問を変えましょう」モースはチョークを置いた。「昔、一人で足りた国がありました」
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守り手が死んだのは、秋の終わりだった。熱が三日続き、四日目の朝、冷たくなっていた。七十一歳だった。
三十年のあいだ、敵の軍勢は国境の丘まで来ては、城壁の上に立つ守り手の姿を見て、引き返した。一度も剣を抜かずに、三十年である。だから城壁は直されなかった。守備兵は半分に減らされ、減らした分の銀で、王都には美しい劇場が建った。
初雪の日、丘の上に、いつものように旗が並んだ。
城壁に登った少年兵が、古参の兵に訊いた。
「守り手さまは」
古参の兵は答えなかった。門を閉めよ、と下から声がした。
門は、三十年ぶりに、人の手で閉めねばならなかった。閉め方を知っている者は、もういなかった。
――ロサ・ヴェント『初雪の門』より
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「『初雪の門』です」とモースは言った。「皆さん、子供のころに一度は読まされたでしょう。国は、その冬のうちに地図から消えました」
何人かがうなずいた。アルトも読んだことがあった。十歳のとき、最後の頁で泣いた。
「では、この国はどうすればよかったと思いますか」
窓際の学生が答えた。
「英雄に頼らなければよかったんです」
「零点」
教室が少し静かになった。
「隣の国には英雄がいます。あなたの国にはいない。城門は、あなたの軍隊ごと内側へ倒れてきます。英雄に頼らない国というのは、英雄を持つ国に負ける国のことです」
別の学生が言った。
「城壁を直して、兵を減らさなければよかった」
「部分点。正しいですが、それだけでは足りない。敵の英雄が来たら、同じことです」
モースは教室を見回した。誰も手を挙げなかった。
アルトは考えた。英雄に頼らなければ負ける。頼れば、その一人が死んだときに終わる。問題は、頼ったことではない。
アルトは手を挙げた。
「一人に頼ったのが問題なら……複数、置けばいいのでは。一人が死んでも、ほかがいるように」
「その通りです」
モースは黒板に書いた。
『二座制』
「それが、二座制です」
その国の最期を見ていた隣の国が、それをしました、とモースは言った。
国防の要に、常に二人の英雄を置く。一人が死んでも、一人が残る。一人が病んでも、一人が残る。退く者が出る前に、次の者を育てておく。二つの座のどちらも、決して空けない。
「最初の四十年は、大成功しました」とモースは言った。「ある時期には、三人いたこともあります。国は、あの冬の弱点を克服したと考えました。実際、克服していたのです」
それから、英雄が現れなくなった。
「二十八年、一人も現れませんでした。珍しいことではありません。英雄は、来てほしい年に来るものではない」
一人が老いて退こうとした。国は、あと一年だけ、と頼んだ。もう一人が病に伏した。国は、病床のまま名簿に名を残した。老いた一人は、死ぬまで座を降りられなかった。二十八年ののち、ようやく力が現れた子供は、すぐに繰り上げて座に就けられた。
二つの座は、空かなかった。書類の上では。
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閲兵の日。広場に二つの座が並ぶ。第一座には英雄が立つ。第二座には、幕を下ろした輿が一つ置かれている。
宰相 第二座は。
侍従 ご健在にございます。
宰相 お顔を拝したい。
侍従 お風邪を召しておいでで。
宰相 去年もそう申したな。
侍従 去年から、お風邪を。
(一同、輿に向かって深く礼をする。輿の中から、咳が一つ)
――喜劇『第二の座』第二幕より
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教室のあちこちで、小さな笑いが漏れた。アルトも笑った。
「笑っていい」とモースは言った。「初演から四百年近く、毎年どこかで上演されている芝居です。ただ、この芝居を笑った国のほとんどが、そのあと同じことをしました」
笑いが引いた。
「結局、この国は、二人はいないと認めました。認めて、城壁を直し、兵を増やし、英雄が一人しかいない前提で国防を組み直した。国は、滅びませんでした」
モースはチョークで、二座制の三文字を丸で囲んだ。
「二人いることが、目的になっていたのです」
モースは教室を見回した。
「当時の人は、この失敗から何を学んだと思いますか」
アルトは、さっきの芝居を思い出していた。空いた座。来ない英雄。
「英雄が出ないのが問題だ、と」アルトは言った。「……だったら、出るようにすればいい」
「当時の人も、そう考えました」とモースは言った。「どうやって」
「英雄の血を残す。英雄同士を結婚させるとか。英雄の家に、子供をたくさん持たせるとか」
「部分点」
アルトは瞬きをした。
「やった国はあります」とモースは言った。「それも、たくさん」
英雄の血は子に伝わる。人々はずっとそう信じてきた、とモースは言った。親に似た子が生まれるのだから、英雄の子は英雄に近いはずだ。それはごく自然な考えで、愚かな考えではなかった。
だから多くの国が、英雄を結婚させた。英雄の家には土地を与え、子の数に応じて税を免じた。英雄の子同士を娶せ、その子をまた娶せた。系図は何百年分も書き継がれた。
「最も有名なのは、これでしょう」
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帝、英雄の血を国に満たさんとて、一英雄に妻を賜うこと千に及ぶ。子、三千余。うち英雄、なし。
――『南方年代記』千母帝の条
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また笑いが起きた。
「一人も?」と後ろの誰かが言った。
「一人も」とモースは言った。「同じころ、帝都の粉挽きの家からは、一人出ています」
笑いが大きくなった。モースは笑わなかった。
「部分点の理由は、ここからです」
英雄の血を増やそうとした国々は、どこも几帳面だった。誰が誰と結婚し、何人の子が生まれ、その子が英雄だったかどうか。何世代にもわたって、一人も漏らさずに書き留めた。英雄の家の子だけでなく、山村の農民の子の記録まで取った。
その膨大な帳簿が、のちに一か所に集められた。
「そして分かったのです。英雄の血筋だからといって、英雄にはならない」
モースは黒板に書いた。
『英雄は、血では増えない。』
「血で増やそうとした記録が、それを証明したのです」
鐘が鳴った。
「続きは休憩のあとで」とモースは言った。
♢
休憩は二十分だった。
アルトは廊下に出た。隣の席の学生がついてきた。ベルンという名の、よく喋る男だった。
「千母帝、試験に出ると思うか」
「『うち英雄、なし』は出るだろうな」
「嫁が千人ってのも出るかな」
「出たら書けばいい」
「千人の名前を?」
アルトは笑った。
鐘が鳴った。
♢
モースは黒板の端に、小さく三つの言葉を書いた。
『一人に頼るな。』
『来ない年があると思え。』
『血は役に立たない。』
「前半のおさらいです。当時の統治者も、ここまでは知っていました」
「では、問題です」とモースは言った。
「あなたは、ある国の統治者です。隣の国には英雄が三人いる。あなたの国には一人しかいない。その一人も、あと何年もつか。二十年か、十年か。そのあと、英雄が一人もいない年が来るかもしれない。さて、あなたならどうしますか」
窓際の学生が言った。
「よその国の英雄を、金で雇う」
「部分点。やった国があります。英雄は、とても高くつきました。そして、もっと高く払う国が現れた日に、いなくなりました」
別の学生が言った。
「隣の国の英雄を……」そこで言葉を切った。
「零点。相手も同じことをします。そして相手には、三人いる」
誰も手を挙げなくなった。
アルトは黒板を見ていた。
血は役に立たない。家は関係ない。どの家にも、等しく生まれる。なら、関係があるのは――
答えは、もう出ていた。
「人を、増やせばいい」
言ってから、自分の声が少し弾んでいたことに気づいた。問題が解けたときの声だった。
「その通りです」
「では、英雄を一人増やすには、何人増やせばいいと思いますか」
前の列の学生が言った。「千人、とか」
「もっと」
後ろの誰かが言った。「一万人」
「もっと」
モースは黒板に向き直り、その下に、さらに一行書き足した。
『およそ百万人に一人。』
「百万人です。百万人で、一人」
誰も何も言わなかった。
アルトは黒板の数字を見ていた。百万人。英雄一人に、国がひとつ要る。
それでも、頭の中で、次の一手が勝手に組み上がっていった。止めようとは思わなかった。
「……大きくなるまで生きないと、英雄かどうか分からない」とアルトは言った。「なら、子供が死ななければ、それだけ増える」
「そうです」
ベルンが、ほとんど独り言のように言った。
「……それは、いいことだろ」
誰も応えなかった。
「子供を、たくさん産んでもらえば」とアルトは続けた。
「そうです」
「隣の国を取れば、その国の子供の分も」
「そうです」
アルトはそこで止まった。
教室は静かだった。さっきまで笑っていた者も、誰も笑っていなかった。ベルンが、机の上で指を組んでいた。
「満点です」とモースは言った。「一人に頼らず、来ない年を作らず、血にも頼らない。これまでの教訓を、全部守っています。どこにも誤りはない」
「この答えに、最初にたどり着いた人がいました。ある国の記録院の書庫で、何十年分もの子供の帳簿を一冊ずつ繰って。その人は、集計簿の余白に一行だけ書き残しています」
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およそ百万につき一。二百万なら、二。
――ある記録院の集計簿、百十七頁の余白
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「この一行から始まり、百五十年続いたものがあります」とモースは言った。
「それが、揺籃戦争です」
誰も何も言わなかった。
モースは、少しのあいだ天井を見上げていた。梁に端から端まで並ぶ、古い鉄の鉤を。
「この部屋には、かつて四百のゆりかごが並んでいました」




