09
結局、暴力を振るった私が悪いのは当然で、三日間ほど自宅謹慎になった。
幸いなことに、相手の親御さんが「うちの息子が悪いです」と言ってくれたらしく、大ごとにならずに済んだのは、本当に運がよかった。
正直、「素晴らしい両親がいる家庭で育った癖に、あんなことを言うなんて」と、また怒りが沸きそうになった。
そんな私に仏の顔を貼り付けた幸博パパが、「唯、怒りからは憎しみしか生まれない」と、当たり前のことを言ってきた上に、「人相も悪くなる」と言ってきたので、今回のことはもう考えないことにした。
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その日の夜、私はリビングのソファでブランケットにくるまりながら、パパたちと向かい合っていた。
達也パパは、二人で経営する喫茶店「ひだまり」の閉店後の事務作業を終え、淹れたてのコーヒーと、新作のリンゴと紅茶のタルトをテーブルに並べている。
「いいかい? 唯」
幸博パパが、優しく、だけど真剣な眼差しで私を見つめた。
「パパはね、唯が家族の存在を否定されて怒ったのは、理解できる」
「だよね。普通の恋愛しろって押し付けてくるから、カッとなっちゃった」
調子良く答えると、幸博パパはわかりやすく苦笑いになる。
「でも、その子たちを憎んでも、唯の心が晴れるわけじゃないんだよ。憎しみは、自分の心の中に毒を撒くようなものだからさ」
「わかってるけど、パパたちを馬鹿にされて、私自身も汚いものみたいに言われて、どうすればいいの?」
私は達也パパが並べてくれたタルトをフォークで突きながら、不貞腐れる。
達也パパは、静かに私の隣に座り、そっと私の頭を撫でた。
「唯。俺たちが、君をどういう気持ちで育ててきたか、知ってるだろ?」
「知ってるよ。一番大事にしてくれた」
「そう。そして、君は、その愛情の中で、誰にも真似できない素敵な感受性と、正しく怒る心を持った子に育った」
達也パパは、私に一切のプレッシャーをかけない、柔らかい声で続けた。
「だからね、唯。その『正しく怒る心』を、どうか自分を傷つけるためには使わないでほしいんだ」
達也パパの手のひらは温かく、少しだけコーヒーの香りがした。
「パパたちが一番悲しいのは、誰かに何を言われることじゃない。君が、誰かを傷つけた自分を責めて、暗い場所に閉じこもってしまうことなんだよ」
私はフォークを突き刺していたタルトを、ゆっくりと口に運んだ。
リンゴの甘酸っぱさと紅茶の芳醇な香りが、ささくれ立っていた心の棘を一本ずつ抜いていくような気がした。
「……ごめんね。家族のこと、守りたかっただけだけど、手を出したのは、良くなかったと思う」
「ありがとう。その気持ちだけで、僕たちは十分幸せだよ」
幸博パパが微笑みながら、私の分のコーヒーをカップに注いでくれる。
「そもそも『幸せ』とか、『普通』の基準なんて人それぞれだろ?」
幸博パパが、目を細めて微笑む。
「そうそう。因みに僕の幸せは、唯の笑い声と、幸の淹れたうまいコーヒーを飲みながら三人でやるボードゲームの時間。これは、誰にも文句は言わせない」
達也パパが、笑顔で言い切ったあと、私のフォークを自分のタルトにそっと伸ばし、一口分乗せてくれた。
「唯、怒りは、誰かや何かを変える力じゃなくて、自分を守る力にしなさい。そして、守るためのエネルギーは、こういう甘くて美味しいものから補給しないと」
「たっちゃんの言う通り」
達也パパが私に分けてくれたタルトを、幸博パパが横取りした。
「あ、それ私の!」
「うん、うまい」
目尻をさげた幸博パパを見ていたら、もう色々と深く考えるのが馬鹿らしくなってきた。
温かいコーヒーの湯気と、甘いタルトの香りがリビングに満ちている。
大好きな家族との団欒の中で、私の中の張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいく。
私は、タルトを口に入れた。それからコーヒーを口に含む。リンゴの甘酸っぱさとコーヒーの渋みが、絶妙に合わさって、泣きたくなるほど美味しかった。
「……これ、新作? 美味しいね」
「気に入った?」
達也パパが嬉しそうに笑う。
「明日、美波ちゃんにも持って行ってあげなさい。きっと、あの子も疲れてるだろうからさ」
幸博パパが提案した。
私は頷きながら、ふと思った。
そうだ。怒りじゃなくて、優しさを分け与える方が、よっぽど普通なことを証明するより、私の心を豊かにする。
二人のパパの愛情に包まれ、私は初めて、今回の騒動のせいで傷ついた心が癒されていくのを感じた。
*
三日も家にこもってるのは性に合わなくて、昼間はふたりの店を手伝うことにした。
「喫茶 ひだまり」は、地元の駅近くの喧騒から一歩入った場所にある、温かく、どこか懐かしい喫茶店だ。
店内に入る木製のドアを開けると、まず肌に触れるのは、外の乾いた十月の空気とはまるで違う、熱を帯びた、ふわりとした空気。
すぐに鼻腔をくすぐるのは、幸博パパが丁寧に深煎りした珈琲の芳醇な苦みと、オーブンで焼かれているリンゴとシナモンの甘い香り。
この二つの香りが混ざり合い、店全体を分厚く、安心感のある膜で包んでいる。
店内は、壁も床も濃い茶色の木目調で統一されており、大きな窓から差し込む午後の光が、その木肌を滑るように反射し、店全体を琥珀色に染め上げている。
天井の照明は控えめで、それぞれのテーブルの上に吊るされたランプだけが、小さな暖かな光の島を作っている。
聞こえてくるのは、決して主張しすぎない、古いジャズの柔らかな音色。そして、幸博パパがカップをソーサーに置く「カチャリ」という控えめな音、常連客が静かにページをめくる紙の擦れる音だけ……なんてことはなく、わりと常連さんたちの賑やかな声が響いている。
「唯ちゃん、そこはもうちょい泡立てて!」
「はいはい、わかってる!」
本気モードの達也パパに励まされ、私はカウンターでホイップクリームを泡立て中。
バリスタを気取ったおしゃれなエプロンをした幸博パパは、カウンターで常連さん相手に笑顔を振りまいている。
「唯ちゃん、喧嘩したんだって? 強いねぇ」
「相手の子、気の毒にねぇ〜」
「いや、笑い事じゃないんだけどなあ……」
「ほんと。暴力的な娘とか笑えないから」
常連さんたちはケラケラ笑って、ふたりのパパは苦笑い。
怒られてるはずなのに、あったかい空気に包まれて胸の奥がじんわりする。
こんな家で育った私は、誰が何と言おうと幸せ者だ。
「逢坂君、大丈夫かな……」
ぽつりと呟くと、達也パパが眉を上げた。
「あー、唯と名前が横並びにされてた子か」
「うん……なんか、逢坂君も巻き込まれちゃったから、悪いなって思って」
私は手に持った布巾をいじりながら、そっと声を落とした。
「逢坂君ね、ご両親が、その……レズビアンでお母さんが二人いる家庭で育ったんだって。だから、私のこと……ちょっと気にしてくれてるみたい」
口に出すと、胸の奥がじくんと痛む。
あの張り紙を見たあとの、彼の顔。
無表情なのに、動揺してたのがわかった。
しかも私が怒って、傷ついて、乱れていることに対して、動揺していた。
私なんかのことで、あんなふうになってくれたんだと思うと、息が詰まりそうになる。
達也パパは「ふーん」と相槌を打ったけど、その目はどこか探るようだった。
「唯は、その子と付き合ってるの?」
幸博パパは、コーヒー豆の袋から手を離し、探るように私を見た。
「付き合ってないし」
小声で呟くと、常連の小説家だという青柳さんに拾われる。
「唯ちゃんについに彼氏ができたぞ!!」
店内に響き渡る大声で青柳さんが叫んだ。
「ちょっと! 青柳さん!」
「やめてー!!」と、必死に声を飛ばす。
「パパたち! 唯ちゃんが彼氏のこと考えてるぞ! 彼氏!」
「だから、うるさい!」
「はい、自粛します」
「よろしい」
青柳さんとコントみたいな会話を交わす。
小さい頃から私を知っているせいで、みんながお父さんみたいだと薄目になる。
うざいけど、でもなんか憎めない。
この店の常連さんたちは、パパが二人いることについて、偏見を持つどころか、当たり前のこととして受け入れてくれている。
それは二人のパパの人柄を、我が家のことを知っているからで、きっと一般的……普通のことじゃない。
でも、当たり前に我が家の関係を受け入れてくれるから、居心地がいい。
「その逢坂くんって子、どんな子?」
達也パパが探りを入れてきた。
「あだ名は、翳りの貴公子。でも私は密かに無口な彫刻って思ってる。あんま喋んないし、なんか向こうが透けそうなくらい透き通った不思議な人だから。あ、でも毎日教室に迎えにくるようになってから、ちょっとお喋りになってきたかも。あと、笑うと可愛い」
私は布巾を握りしめ、カウンターに背を向けた。
「唯にとって、大事な子なんだね」
達也パパの言葉に、思わず息が詰まった。
「だ、だいじ……っていうほどじゃ……」
「毎日迎えに来るような子なんだろ?」と、幸博パパ。
「そ、それは、その……」
やばい、墓穴を掘ったかも。
たしかに毎日来てるのは事実で、でも、それを言葉にされると、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
「唯、態度にですぎ」
達也パパは苦笑している。
「唯が誰かを大事に思うのは、別に悪いことじゃないよ。唯のことを大事に思ってくれるなら、なおさらね」
その言葉が嬉しくて、胸がきゅっとなった瞬間、カラン、とドアのベルが鳴った。
午後の中途半端な時間。お客さんの少ないタイミングにやってくる人なんて、めずらしい。
そう思ってドアに顔を向ける。
「……あ」
布巾を握ったまま固まる。
制服姿の逢坂君が、うちの店のドアを開けて立っていたからだ。
*
突如現れた逢坂君は相変わらずの無表情。
でも、私にはわかる。
いつもより、ほんの少しだけ眉が寄ってる。
「いらっしゃいませ、って……あれ、唯と同じ学校の子かな?」
幸博パパが驚き気味に問いかけると、逢坂君は軽く会釈した。
「あ、西葉月高校一年E組の逢坂陽太です。真鍋さん、いますか」
「あ、はい……います」
おずおずと手を挙げると、逢坂君の黒い目がまっすぐこっちを向く。
心臓がドクン、と跳ねた。
あれ、なんかでもいつものドクンと違うような。
店の中が一瞬だけ静かになる。
常連さんたちが面白がって目を向けている気配。
達也と幸博が「おお、来たぞ」という顔で目を合わせている。
やめてよもう……恥ずかしいし。
「……逢坂君、どうしたの?」
言った瞬間、声がわずかに震えていることに自分で気づいて、余計に恥ずかしくなる。
彼は相変わらずの無表情で、「帰り、寄ってみた」と、告げた。
その一言が、どうしようもなく嬉しく感じて口角が自然に上がってしまった。




