表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/25

09

 結局、暴力を振るった私が悪いのは当然で、三日間ほど自宅謹慎になった。


 幸いなことに、相手の親御さんが「うちの息子が悪いです」と言ってくれたらしく、大ごとにならずに済んだのは、本当に運がよかった。


 正直、「素晴らしい両親がいる家庭で育った癖に、あんなことを言うなんて」と、また怒りが沸きそうになった。


 そんな私に仏の顔を貼り付けた幸博パパが、「唯、怒りからは憎しみしか生まれない」と、当たり前のことを言ってきた上に、「人相も悪くなる」と言ってきたので、今回のことはもう考えないことにした。




 ✳︎




 その日の夜、私はリビングのソファでブランケットにくるまりながら、パパたちと向かい合っていた。


 達也パパは、二人で経営する喫茶店「ひだまり」の閉店後の事務作業を終え、淹れたてのコーヒーと、新作のリンゴと紅茶のタルトをテーブルに並べている。


「いいかい? 唯」


 幸博パパが、優しく、だけど真剣な眼差しで私を見つめた。


「パパはね、唯が家族の存在を否定されて怒ったのは、理解できる」


「だよね。普通の恋愛しろって押し付けてくるから、カッとなっちゃった」


 調子良く答えると、幸博パパはわかりやすく苦笑いになる。


「でも、その子たちを憎んでも、唯の心が晴れるわけじゃないんだよ。憎しみは、自分の心の中に毒を撒くようなものだからさ」


「わかってるけど、パパたちを馬鹿にされて、私自身も汚いものみたいに言われて、どうすればいいの?」


 私は達也パパが並べてくれたタルトをフォークで突きながら、不貞腐れる。


 達也パパは、静かに私の隣に座り、そっと私の頭を撫でた。


「唯。俺たちが、君をどういう気持ちで育ててきたか、知ってるだろ?」


「知ってるよ。一番大事にしてくれた」


「そう。そして、君は、その愛情の中で、誰にも真似できない素敵な感受性と、正しく怒る心を持った子に育った」


 達也パパは、私に一切のプレッシャーをかけない、柔らかい声で続けた。


「だからね、唯。その『正しく怒る心』を、どうか自分を傷つけるためには使わないでほしいんだ」


 達也パパの手のひらは温かく、少しだけコーヒーの香りがした。


「パパたちが一番悲しいのは、誰かに何を言われることじゃない。君が、誰かを傷つけた自分を責めて、暗い場所に閉じこもってしまうことなんだよ」


 私はフォークを突き刺していたタルトを、ゆっくりと口に運んだ。


 リンゴの甘酸っぱさと紅茶の芳醇な香りが、ささくれ立っていた心の棘を一本ずつ抜いていくような気がした。


「……ごめんね。家族のこと、守りたかっただけだけど、手を出したのは、良くなかったと思う」


「ありがとう。その気持ちだけで、僕たちは十分幸せだよ」


 幸博パパが微笑みながら、私の分のコーヒーをカップに注いでくれる。


「そもそも『幸せ』とか、『普通』の基準なんて人それぞれだろ?」


 幸博パパが、目を細めて微笑む。


「そうそう。因みに僕の幸せは、唯の笑い声と、幸の淹れたうまいコーヒーを飲みながら三人でやるボードゲームの時間。これは、誰にも文句は言わせない」


 達也パパが、笑顔で言い切ったあと、私のフォークを自分のタルトにそっと伸ばし、一口分乗せてくれた。


「唯、怒りは、誰かや何かを変える力じゃなくて、自分を守る力にしなさい。そして、守るためのエネルギーは、こういう甘くて美味しいものから補給しないと」


「たっちゃんの言う通り」


 達也パパが私に分けてくれたタルトを、幸博パパが横取りした。


「あ、それ私の!」


「うん、うまい」


 目尻をさげた幸博パパを見ていたら、もう色々と深く考えるのが馬鹿らしくなってきた。


 温かいコーヒーの湯気と、甘いタルトの香りがリビングに満ちている。


 大好きな家族との団欒の中で、私の中の張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいく。


 私は、タルトを口に入れた。それからコーヒーを口に含む。リンゴの甘酸っぱさとコーヒーの渋みが、絶妙に合わさって、泣きたくなるほど美味しかった。


「……これ、新作? 美味しいね」


「気に入った?」


 達也パパが嬉しそうに笑う。


「明日、美波ちゃんにも持って行ってあげなさい。きっと、あの子も疲れてるだろうからさ」


 幸博パパが提案した。


 私は頷きながら、ふと思った。


 そうだ。怒りじゃなくて、優しさを分け与える方が、よっぽど普通なことを証明するより、私の心を豊かにする。


 二人のパパの愛情に包まれ、私は初めて、今回の騒動のせいで傷ついた心が癒されていくのを感じた。



 *



 三日も家にこもってるのは性に合わなくて、昼間はふたりの店を手伝うことにした。


「喫茶 ひだまり」は、地元の駅近くの喧騒から一歩入った場所にある、温かく、どこか懐かしい喫茶店だ。


 店内に入る木製のドアを開けると、まず肌に触れるのは、外の乾いた十月の空気とはまるで違う、熱を帯びた、ふわりとした空気。


 すぐに鼻腔をくすぐるのは、幸博パパが丁寧に深煎りした珈琲の芳醇な苦みと、オーブンで焼かれているリンゴとシナモンの甘い香り。


 この二つの香りが混ざり合い、店全体を分厚く、安心感のある膜で包んでいる。


 店内は、壁も床も濃い茶色の木目調で統一されており、大きな窓から差し込む午後の光が、その木肌を滑るように反射し、店全体を琥珀色に染め上げている。


 天井の照明は控えめで、それぞれのテーブルの上に吊るされたランプだけが、小さな暖かな光の島を作っている。


 聞こえてくるのは、決して主張しすぎない、古いジャズの柔らかな音色。そして、幸博パパがカップをソーサーに置く「カチャリ」という控えめな音、常連客が静かにページをめくる紙の擦れる音だけ……なんてことはなく、わりと常連さんたちの賑やかな声が響いている。


「唯ちゃん、そこはもうちょい泡立てて!」


「はいはい、わかってる!」


 本気モードの達也パパに励まされ、私はカウンターでホイップクリームを泡立て中。


 バリスタを気取ったおしゃれなエプロンをした幸博パパは、カウンターで常連さん相手に笑顔を振りまいている。


「唯ちゃん、喧嘩したんだって? 強いねぇ」


「相手の子、気の毒にねぇ〜」


「いや、笑い事じゃないんだけどなあ……」


「ほんと。暴力的な娘とか笑えないから」


 常連さんたちはケラケラ笑って、ふたりのパパは苦笑い。


 怒られてるはずなのに、あったかい空気に包まれて胸の奥がじんわりする。


 こんな家で育った私は、誰が何と言おうと幸せ者だ。


「逢坂君、大丈夫かな……」


 ぽつりと呟くと、達也パパが眉を上げた。


「あー、唯と名前が横並びにされてた子か」


「うん……なんか、逢坂君も巻き込まれちゃったから、悪いなって思って」


 私は手に持った布巾をいじりながら、そっと声を落とした。


「逢坂君ね、ご両親が、その……レズビアンでお母さんが二人いる家庭で育ったんだって。だから、私のこと……ちょっと気にしてくれてるみたい」


 口に出すと、胸の奥がじくんと痛む。


 あの張り紙を見たあとの、彼の顔。


 無表情なのに、動揺してたのがわかった。


 しかも私が怒って、傷ついて、乱れていることに対して、動揺していた。


 私なんかのことで、あんなふうになってくれたんだと思うと、息が詰まりそうになる。


 達也パパは「ふーん」と相槌を打ったけど、その目はどこか探るようだった。


「唯は、その子と付き合ってるの?」


 幸博パパは、コーヒー豆の袋から手を離し、探るように私を見た。


「付き合ってないし」


 小声で呟くと、常連の小説家だという青柳さんに拾われる。


「唯ちゃんについに彼氏ができたぞ!!」


 店内に響き渡る大声で青柳さんが叫んだ。


「ちょっと! 青柳さん!」


「やめてー!!」と、必死に声を飛ばす。


「パパたち! 唯ちゃんが彼氏のこと考えてるぞ! 彼氏!」


「だから、うるさい!」


「はい、自粛します」


「よろしい」


 青柳さんとコントみたいな会話を交わす。


 小さい頃から私を知っているせいで、みんながお父さんみたいだと薄目になる。


 うざいけど、でもなんか憎めない。


 この店の常連さんたちは、パパが二人いることについて、偏見を持つどころか、当たり前のこととして受け入れてくれている。


 それは二人のパパの人柄を、我が家のことを知っているからで、きっと一般的……普通のことじゃない。


 でも、当たり前に我が家の関係を受け入れてくれるから、居心地がいい。


「その逢坂くんって子、どんな子?」


 達也パパが探りを入れてきた。


「あだ名は、翳りの貴公子。でも私は密かに無口な彫刻って思ってる。あんま喋んないし、なんか向こうが透けそうなくらい透き通った不思議な人だから。あ、でも毎日教室に迎えにくるようになってから、ちょっとお喋りになってきたかも。あと、笑うと可愛い」


 私は布巾を握りしめ、カウンターに背を向けた。


「唯にとって、大事な子なんだね」


 達也パパの言葉に、思わず息が詰まった。


「だ、だいじ……っていうほどじゃ……」


「毎日迎えに来るような子なんだろ?」と、幸博パパ。


「そ、それは、その……」


 やばい、墓穴を掘ったかも。


 たしかに毎日来てるのは事実で、でも、それを言葉にされると、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。


「唯、態度にですぎ」


 達也パパは苦笑している。


「唯が誰かを大事に思うのは、別に悪いことじゃないよ。唯のことを大事に思ってくれるなら、なおさらね」


 その言葉が嬉しくて、胸がきゅっとなった瞬間、カラン、とドアのベルが鳴った。


 午後の中途半端な時間。お客さんの少ないタイミングにやってくる人なんて、めずらしい。


 そう思ってドアに顔を向ける。


「……あ」


 布巾を握ったまま固まる。


 制服姿の逢坂君が、うちの店のドアを開けて立っていたからだ。




 *



 突如現れた逢坂君は相変わらずの無表情。


 でも、私にはわかる。


 いつもより、ほんの少しだけ眉が寄ってる。


「いらっしゃいませ、って……あれ、唯と同じ学校の子かな?」


 幸博パパが驚き気味に問いかけると、逢坂君は軽く会釈した。


「あ、西葉月高校にしはずきこうこう一年E組の逢坂陽太です。真鍋さん、いますか」


「あ、はい……います」


 おずおずと手を挙げると、逢坂君の黒い目がまっすぐこっちを向く。


 心臓がドクン、と跳ねた。


 あれ、なんかでもいつものドクンと違うような。


 店の中が一瞬だけ静かになる。


 常連さんたちが面白がって目を向けている気配。


 達也と幸博が「おお、来たぞ」という顔で目を合わせている。


 やめてよもう……恥ずかしいし。


「……逢坂君、どうしたの?」


 言った瞬間、声がわずかに震えていることに自分で気づいて、余計に恥ずかしくなる。


 彼は相変わらずの無表情で、「帰り、寄ってみた」と、告げた。


 その一言が、どうしようもなく嬉しく感じて口角が自然に上がってしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ