02
「……はぁぁぁぁ」
教室に入る前に、外の乾いた空気を遮断するように、大きく息を吐いた。
今日から十月。夏の残照と秋の深まりが交錯する朝特有の、清涼で乾いた空気。
地球温暖化のせいか、本格的な冷たさはないけれど、湿度の低いその感触は、確実に季節が変わったことを告げていた。
ガラリ、と勢いをつけすぎないように教室の扉を開ける。
瞬間、ふわり、と室内の空気が肌を包む。熱源はストーブではなく、数十人の人間が発する微細な体温と、昨日からこもっていた無数の感情の残り香だ。
窓からは、夏の猛烈な日差しが影を潜めた、だけど十分に明るい秋の光が差し込んでいる。
早めに登校した当番の生徒が開けた窓から、涼しい微風が入り込み、カーテンを緩やかに揺らしていた。
私は黒板の前を横断して、窓際の前から四番目の席へと向かう。
ふうと、一息。
自宅から学校までの旅路を終えた達成感と共に、通学カバンを机の上に置く。
「おはよ、唯」
斜め後ろの席から、低いトーンなのに、花の蜜のように甘く澄んだ声がかけられた。
反射的に「おはよ、美波」と返す。
親友の美波はすでに席についていて、肩下まで伸びた長い髪を一つにまとめながら、何か言いたげな視線を送ってきた。
「ごめん、既読無視の件だよね」
言われる前に、自ら切り出した。
先に謝罪の言葉を投げれば、美波の追及も少しは和らぐだろうという、姑息な計算込みで。
一瞬の静寂の後、美波は、ほんの少しだけトーンダウンさせた。
「先手必勝ってやつ?」
彼女は、悪戯っぽく笑った。その笑顔から察するに、責めているわけではなさそうだ。
「違うよ……って言うか、半分はそう。ごめん」
私は椅子に浅く腰掛けて、美波の方に体を向けた。
「で、どうだったの?既読無視しちゃうくらい、逢坂君と燃え上がっちゃった的な?」
爛々と目を輝かす美波。
昨日あった色々を説明すると思うと、悪霊を肩に乗せたくらい気が重い。
でも、芸能リポーターばりに興味津々な美波からは逃げられそうもない。
どっちにしろ地獄だ。
グッと拳を握る。
「結論から言うと」
私は声を落として言った。
「何もできなかった」
美波の輝いていた目が、一瞬で点滅した。
「は?」
「だから、何も」
「ちょっと待って」
美波は手のひらを私に向けて制止のポーズをとった。
「マジで言ってる?」
「マジで」
「キスは?」
「……できなかった」
「じゃあ、その先は?」
「もちろん無理」
美波は呆れたように、大きく息を吐いた。それから周囲を見回して、まだ教室に生徒がまばらなのを確認すると、机を少し私の方に寄せてきた。
「唯、あんた昨日まであんなにやる気満々だったじゃん」
「やる気はあったんだよ、私のやる気は」
自分に否がないことを、一応報告しておく。
「私のやる気って、あいつにはやる気がなかったってこと?」
「そ」
「でも唯の家まで来たんだよね?」
「うん」
「じゃ、なんで?」
「なんかまぁ、色々と」
「気になる。何がどうしてできなかったのよ」
美波の容赦ない追求に、私は彼女の腕を掴んで引き寄せる。
「あいつ、たたなかったの。ねぇ、どういうことだと思う?」
「え、ええーーっ」
美波は珍しく慌てた様子で、自分の口を両手で押さえた。
「正しくは、途中まではいい感じだったけど、いざって時に、萎えてた」
「唯、彼の名誉のためにもオブラートに包もっか」
「包むも何も、事実を言ってるだけ。 私はちゃんと誘ったし、服も脱いだのに。こんなの裸の安売りしちゃっただけじゃん」
損するばかりで得るものがなかった私は、唇を噛みしめる。
昨日の出来事を思い出すたびに、悔しさと情けなさが混ざった感情が胃のあたりでとぐろを巻く。
確かに途中まではいい感じだったことは確かだ。でも、いざって時に彼のアイデンティティたるモノが使い物にならなくなってしまった。
「意味わかんないんだけど」
こちとら大金を叩いてでも、欲しいと願う人が星の数ほどいる新品のJKなんですけど。
「あ、もしかして未遂とは言え、あいつにベタベタ触られた私って、もう中古品になるってこと?」
「新古品くらいじゃない?」と、冷静に返された。
「で、どうだったの? 男子にときめいた?」
「緊張で頭が真っ白になっちゃって、それどころじゃなかった」
素直に報告すると、美波は憐れんだような、呆れたような、複雑な表情を浮かべた。




