18
逢坂君の家に行った次の日、私は正直ドキドキしながら登校した。
逢坂君の家を出た時は、やり切った達成感でハイになっていたものの、よくよく考えてみたら彼は私を許すと言ってなかったからだ。
むしろクロッキー帳を見たことに、あからさまに不機嫌だった。
「逢坂君……学校、来てくれるかな」
来てくれたら嬉しい。でも、もし来てくれなかったら、私がちゃんと謝る機会がまた遠のいてしまう。
できれば、早く仲直りしたい。
「あと、連絡先の交換」
今までは不便に思わなかった。けれど今回みたいなことが起きた時、連絡できたらすぐに謝罪ができるので、やっぱり必要だと思った。
昇降口で靴を履き替えながら、そんなことをグルグル考えていた。
そして今日もまた、心の準備をして下駄箱をエイッと開ける。
「あ」
今日は入っていなかった。
「なるほど、粘り勝ちか」
美波や逢坂君の言う通り、過剰に反応しなければ相手はやり甲斐を感じず、次の標的にあっさり鞍替えするのかも知れない。
「やっぱ、無反応は最大の武器なんだな」
逢坂君の無表情を思い出しながら呟いたその時。
「真鍋さん」
びくっと肩が跳ねる。
横を向くと、逢坂君がいつものそっけない顔で立っていた。
「お、おはよう」
「……おはよう」
相変わらず感情がわかりづらい声と顔なのに、彼が来てくれたというだけで心がふわっと軽くなる。
「あ、そうだ」
ハッとして彼の足元を見ると、すでに上履きに履き替えられていた。
「下駄箱の中、平気だった?」
「うん。じゃ、また放課後」
それだけ言うと、彼はスタスタと歩いて行ってしまった。
「あ、また謝れなかった」
反省しつつ、彼が登校してくれたことの方が今は嬉しくて、思わず頬が緩んでしまった。
*
「師走はスーパーのかき入れ時なんだよね。ってことで、お先!」
放課後の充実が人生のすべてと言い切る美波は、今日もまた颯爽とスーパーのバイトに向かうため、教室を出て行った。
まるで戦闘機のようだと思いながら、そわそわし始める。
もしかしたら、逢坂君は、帰っちゃうかもしれない。
でも今朝、「また放課後」と言っていた。
あれは空耳じゃなかったはずだ。
でも怖くて教室の出入り口を見れないでいる。
「くっ、連絡先さえ知っていれば!」
確認できたのにと、悔し紛れに呟く。
「真鍋、サンキューな。形の残らないお返しはベストだったぜ?」
ノイキャン男こと、山田君さまが帰る準備をしながら話しかけてきた。
たぶん、逢坂君の住所を教えてもらったお礼に今日のお昼に渡した、達也パパが焼いたマドレーヌのことだろう。
なんだかんだ、律儀でいい奴じゃんかと、私は素直に嬉しくなる。
「どういたしまして。こちらこそ地図のお陰で迷わなかったし、ありがとね」
「でも、貸しイチはなくならないからな」
彼はヘッドフォンを耳に装着しながらしっかり付け加えた。
「わかってるって」と、苦笑いで返す。
「じゃ、お先」
「うん、バイバイ」
彼が教室を出て行くのを見届け、意を決し、帰り支度を始める。といっても机の中のものを鞄に詰め込むだけなので、あっという間に終了した。
鞄を肩にかけ、ゆっくりと立ち上がる。
廊下に出ると、すぐそこに逢坂君が立っていた。
クラスの引き戸になったドアの横の壁に、彼は静かに寄りかかっている。
予想通り、いつものそっけない顔で、周囲の女子が色めきだっているのに無関心。
もちろん、私を見てもいない。けれど、確かに私を待っている。
「来てくれたんだ」
小声で呟き、張り詰めていた緊張が一気に緩み、ほっとして嬉しさが込み上げてきた。
私は彼の隣まで歩み寄り、立ち止まる。
いつも通り「帰ろ」とぽつりと話しかけられた。
心にパァーッと光が差した気分で私は頷く。
「うん、帰る」
その後は、いつもみたいに駅まで歩いて、一緒に電車に乗って、私の家の最寄りまで移動した。
会話はほとんどなかったけど、それでも隣にいてくれるだけで心がぽかぽかした。
*
逢坂君は「お邪魔します」と言い、いつものように靴をそろえて家にあがった。
それから洗面所で手洗いうがいをして、二階にある私の部屋へ向かう。
私は彼を待たせて、急いで急須で緑茶を淹れた。
今日選んだ湯呑は、白磁に藍色の蔦が絡まり広がる唐草模様。お客様用のものだ。
揃いの蓋を乗せ、漆塗りの茶托にそっと置く。お茶請けは、パパ達が酒のつまみにとストックしている少し高めのお煎餅と、達也パパが焼いたマドレーヌ。
それらを乗せるのは、骨董好きなパパ達のコレクションのひとつ、江戸後期の伊万里焼。
渋いお皿に、お煎餅の茶色とマドレーヌの黄金色がよく映えている。
「ふぅ、うちだってわりとお洒落じゃん」
ちょっと張り切ったけど、その甲斐はあった。満足しながら二階へ運ぶ。
「お待たせ」
座卓の上に、テキパキとお客様セットを並べる。
「粗茶ですが」と湯呑を差し出すと、逢坂君の眉がピクリと上がった。
「え、お気に召さない感じ?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ?」
「こんなにちゃんとしたお茶を出すなんて……何か企んでる?」
思わぬ直球に、思わず噴き出しそうになる。
「企んでないよ。昨日、逢坂君のお母さんに素敵なカップで出してもらったから、私もちゃんとした食器でおもてなしをしなくちゃと思っただけ」
私が返すと、彼は「ふうん」と呟いて納得したようだった。
「いただきます」
逢坂君は湯呑の蓋を丁寧に外し、茶托の横に置く。
その仕草は、湯呑をさらに品よく見せるなぁと思った。
彼は湯呑をじっと見つめている。長い睫毛に縁取られた瞳は、いつも遠くを見ているようで、湯呑に映る自分の姿にさえ無関心に見える。
それから二人で黙々とお茶を啜り、マドレーヌとお煎餅を食べた。
「ご馳走さま」
静かな礼のあと、彼は湯呑を茶托に戻す。
「お茶、新しくしてこようか?」
尋ねると、彼は首を横に振った。
「大丈夫」
そして──。
「……クロッキー帳のこと」
逢坂君が、ついに核心を切り出した。
「見ないでって、言ったよね」
「……ごめんなさい」
正直に謝ると、彼は少し眉を動かした。
怒っているというより、悲しそうで、胸が痛む。
「ほんとにごめんなさい。でも、他の人には見せてないし、内容についても誰にも言ってないから」
美波にもさすがに言えなかった。
逢坂君は黙って湯呑の模様を見つめている。
「あのね」と、私は続けた。
「勝手に見て、本当にごめん。でも……」
「でも?」
「見て、良かったって思ってる」
彼の顔が上がった。
「良かったって……?」
「だって、逢坂君の気持ちがわかったから」
私は彼の目をしっかり見る。
「私、ずっと恋愛的な好きっていう気持ちがよくわからなくて。男の人が好きなのか、女の人が好きなのか、それすら曖昧で」
喉がぎゅっと詰まる。
「でも、クロッキー帳を見て気づいたの。私、逢坂陽太君っていう人が……恋愛的に好きなんだなって」
言った瞬間、恥ずかしさで消えそうになった。
でも、今が一番頑張らないといけない瞬間だと思い直す。
「男とか女とか関係なく、逢坂君といると楽しくて、安心して、でも心がギュッとなってドキドキする」
私はスカートをぎゅっと握る。
「ここまで時間がかかったのは、私達が似た境遇で育って、同情し合ってるだけかもしれないって……思ってた部分もあって」
苦笑した瞬間、逢坂君はゆっくり立ち上がった。
え、どこ行くの?トイレ?と思ったら、彼は座卓を回り込んで、私の隣に座った。
ち、近い。
肩が触れそうな距離で、心臓が跳ねる。
「俺、真鍋さんには……」
逢坂君は言い淀んだ。
悪い言葉が来るかもしれない。そんな不安ばかりが頭をよぎる。
「クロッキー帳を見られるの、絶対に嫌だった」
「えっ」
思わず隣を見ると、ばっちり目が合った。
「ほんとに、勝手に開けてごめん。気になって……でも、訊けばよかったよね」
私がそう言うと、彼はぽつりと呟いた。
「……すごく恥ずかしいんだ、ああいうの」
「うん……ごめん」
怒っていないのはわかる。でも、私が勇気を出して告白したのに、彼の最優先がクロッキー帳なのが、正直少し切ない。
もしかして、もう許してもらえないのかな。
そんな重い気持ちが胸にのしかかる。
「真鍋さん」
静かに、名前を呼ばれる。
「俺は、謝罪を聞きに来たんじゃない」
肩がびくっと震える。
「気持ち悪いと思われるのが、嫌だったから」
その声は儚くて、逢坂君の弱さが全部滲んでいた。
「……そっか」
逢坂君は、ただ嫌われるのが怖かったんだ。
「気持ち悪いなんて思わないよ」
私は向き直る。
「むしろ嬉しかった。私のこと、描いてくれてたの」
沈黙が部屋を満たす。そして彼はゆっくり顔を上げた。
「俺、こんな感情は初めてで……よくわからないけど」
彼は目をそらさず、言葉を選びながら続けた。
「真鍋さんがいると、心臓がうるさい。でもずっと見ていたい。だから、気持ち悪いって思われるのは嫌、だ」
逢坂君は一度、深く息を吸った。
「真鍋さんといるの、好きだから」
小さくても、はっきりした声。
「離れろって言われたとき、本気で無理だった。守ろうとしてくれたのはわかるけど、それでも嫌だった」
胸の奥がじんわり熱くなる。
「……ごめんね」
素直に謝ると、彼も「俺も、ごめん」と小さく返した。
そっと手が触れた。
それだけで泣きそうなほど安心する。
「もう、来ないでなんて言わない。だから……逢坂君も、私から逃げないでほしい」
震えた声に、自分で驚いた。
逢坂君は少し笑って言う。
「うん、また来るよ」
それから、私の頬に手を添えて、「いい?」と目で尋ねてくる。
私はYESの代わりに、ゆっくり目を閉じた。
次の瞬間、いつもより少し長い、優しいキスが触れた。
胸のつかえが、全部溶けていく。
ああ……帰ってきたんだ。
逢坂君が、私のところに。
唇が離れると、彼は私の額に手を置き、照れたように笑った。
「……ただいま」
「……おかえり」
それだけで、もう十分だった。




