17
逢坂君のお母さんに導かれて、私はあれよあれよと言うまにうがい手洗いまでして、リビングに通されてしまった。
「どうぞ、座ってね」
言われるまま、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。
座面がふかふかで、座り心地の良い椅子だ。
「紅茶を淹れるわね」
逢坂君のお母さんは、エプロンもつけず、すっとキッチンへ向かう所作が綺麗だった。
その姿を目で追いながら、私はそわそわと視線を部屋の中に向ける。
うわぁ……ほんとに、逢坂君の家にいる。
マンションの外観そのままに、モダンでスタイリッシュな空間。
余計なものが一つもない。家具もインテリアも、雑誌の特集に出てきそうなほど洗練されていて、住んでいる人間の格まで違うように思えてしまう。
逢坂君がきちんと制服を畳んだり、食べる姿が綺麗だったりするのは、きっとこの部屋で育ったからだと、勝手に納得してしまった。
リビングの目立つところに、家族写真が飾ってあった。
優しそうなお母さん二人に挟まれているのは小さい頃の逢坂君。ふわふわの髪、ちょっと陰のある目元、まだ背も低くて……なんだこれ、かわいい。
母性が刺激されて、思わず微笑んでしまった。
「だんだん寒くなってきたわよね」
お母さんの声に、慌てて顔を戻す。
その瞬間、視界の端に見覚えのある箱が映った。
あれって……。
キッチンの白い作業台に置かれた、茶色いケーキ箱。取っ手のついた、デザイン。
ここまではまだどこにでもあるものだ。
ただ、箱の横。目立つところに喫茶こもれびの小さな丸いシールが付いている。
間違いない。あれは、私が貼ったシールだ。
そう言い切れるのは、ケーキ箱にお店のシールを貼るのは、私に割り当てられている仕事だから。
やっぱり、幸博パパがこのマンションに来たのは逢坂君の家だったんだ。
だけど、それをここで指摘して、逢坂君と二度とかかわるなと言われても困る。そもそも幸博パパがなんで逢坂君の家にきたのか全く見当もつかないし。
悩んだ末、黙って箱から目をそらし、見なかったことにした。
「お待たせ」
テーブルに置かれたのは、金縁の紅茶カップ。
香り高い紅茶と、宝石みたいな焼き菓子。包装もお皿も、全部おしゃれ。
全部、違う世界からお取り寄せしたみたいだ。
「わ、わぁ……」
感動を抑えきれない声が漏れてしまう。
すごい。タワマンの住人って、こんなお洒落なカップで紅茶を飲んで、こんな映えそうなお菓子を食べて生活してるのか。
セレブだ、セレブの証がここにある!
どうしよう。私なんて、逢坂君に出したのは、魚の名前がずらりと並んだ湯呑みに緑茶。お菓子はふ菓子とか、安い駄菓子とかで、せいぜい達也パパのタルトがご馳走の限界だった。
それだってこんなにちゃんとした可愛い食器で出さなかったし。
そうか、住む世界が違うってこういうことか。それとも、お母さんがいる家は可愛い食器が家に普通に置いてあるものなのかな。
色々気付いて、胸の奥がちくっとした。
黙ってカップを見つめていると、逢坂君のお母さんが静かに口を開く。
「遠慮しないで、どうぞ温かいうちに召し上がってね」
彼女は、優しく微笑んだ。その笑顔は、優しさと気遣いに満ちていた。
「いただきます」
繊細で壊れそうなカップの取っ手を持って、私は緊張しながら紅茶を一口飲んだ。上品なアールグレイの香りが、口の中にふわりと広がる。
私は急須で入れた緑茶を飲むと心がほっこりするけど、逢坂君はお母さんが淹れたこのおしゃれなカップに入った紅茶の方がリラックスできるんだろうか、なんて、また彼と私を比べてしまう。
「陽太は学校でどうかな?」
「え?」
「あまり愛想のいい子じゃないから心配なのに、家でもあんまり学校のことを話してくれないから。でも」
お母さんは、私を見て上品に微笑んだ。
「真鍋さんがこうしてわざわざ陽太の忘れものを届けてくれてちょっと安心した。ありがとね」
彼女の優しい声と表情に、ホッと肩の力を抜く。彼女が、私を「息子の友だち」として、心から歓迎しているのが伝わってきたからだ。
「陽太は、口下手で不器用なの。自分の感情をすぐ飲み込んじゃう。でも、ああ見えて、本当はすごく繊細で、優しい子なのよ」
ちょっぴり困ったような顔で話す彼女から、逢坂君への揺るぎない愛情と、それゆえの心配を感じ取る。
うちのパパと同じだ。
『唯は、感情が先に動くから心配だ。でもそれって言い換えれば、情緒豊かな素直な子ってことだよね』
達也パパがよく言う言葉。
親って、性別なんて関係なく、みんなこうやって子どもを心配するものらしい。
逢坂君のお母さんと私のお父さんの共通点を発見して、だいぶ気が楽になってきた。
「真鍋さんは、陽太と部活が一緒なのかな?」
「いいえ。私は帰宅部です」
「そうなんだ。仲良くしてもらってる、そう思っていいのかしら?」
「はい」
力強く頷く。
だって嘘じゃない。
仲良くしてもらってたと、過去形になってしまうのが、辛いけど。
「真鍋さんは陽太のこと、どう思う?」
突然の質問に、私は戸惑った。
「え、と……」
「ごめんなさいね、変なこと聞いて。でも、母親としては気になっちゃって」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「陽太、あんまり友だちの話をしないから。真鍋さんのことも、全然教えてくれないの」
「そうなんですか」
「ええ。だから、気になっちゃって」
おどけたように肩をすくめる彼女の目は優しかった。
「逢坂君は、優しいです」
正直に答えた。
「お喋りな方ではないですけど、すごく優しくて。私のこと、ちゃんと気にかけてくれて」
言葉にすると、涙が出そうになった。
「そう」彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。陽太、ちゃんとお友だちができてたのね」
紅茶を一口飲んで、噛み締めるように彼女は言った。
お友達ができてたのね、とその言葉を大事な宝物みたいに言う逢坂君のお母さん。
お友達なんて、ほとんどの人が当たり前にいるものだと思うことを、大事そうに受けとめている姿に、胸が苦しくなる。
だってそれって、逢坂君が今まで、心から通じ合える「お友達」と呼べる存在をお母さんに紹介してないってことだから。
そういう存在がいなかったのか、作らなかったのか。それともただ紹介しなかっただけなのか。
どれが正解かわからないけど、お母さんが心配していたことは間違いない。
「逢坂君と私は、ちゃんとお友達です」
目の前の繊細なカップを握りしめ、力強く宣言した。
今はちょっとその関係が危ういけど、でもちゃんと謝ってやり直す。
絶対そうすると、強く決意した。
「ありがとう。真鍋さんみたいな優しい子が、陽太のお友達でいてくれて良かった」
彼女は、本当に心の底から安堵したような顔をした。
「いえ、ありがとうと言いたいのは、むしろ私の方なので……」
言い切ったわりに、逢坂君と絶賛喧嘩中な私は、急に居心地が悪くなる。
「真鍋さん」
お母さんは少し真剣な表情になった。
今度はなに?と、自然と背筋が伸びる。
「陽太から聞いてるかもしれないけど」
「はい」
「私たち、ちょっと変わった家族なの」
「知ってます」
なんだそのことかと、拍子抜けした。
「私も、逢坂君と似たような家族で育ったので、そのことについては特に問題ありません」
はっきりと伝えたくて、お母さんの顔を見つめる。
「私の家にはパ……父が二人います。どっちも男性ですが、でも、私は幸せです」
彼女は、視線を逸らさず、私をじっと見つめた。
探るような視線とは違う。なぜか不思議なほど温かい眼差しだった。
「そっか、幸せ、なのね」
何か言いたそうに、一度口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
今の感じは、逢坂君に似ているな、と感じた。
「真鍋さん、お母さんのことは」
「はい」
「気になったりしない?」
「え、と」
突如、斜め上からの質問が飛んできて戸惑う。
でもすぐに、彼女の真意に気づいた。
きっと逢坂君のお母さんは、彼に「お父さんのこと気になる?」と聞きたいに違いない。息子が自分の家庭のことをどう思っているか、それを知りたいのだろう。
でも、逢坂君はお母さんに、自分のことを話さない。だから、同じような境遇の私を介して、色々と探りを入れて、間接的に息子の本心が知りたいと……。
無口な息子を持つと、なかなか苦労するようだ。
でもそっか、「お母さんが気になるかどうか」、かぁ……。
「昔は、気になりました」
深く考えず、思ったことをそのまま口にする。
「みんなの家には、お父さんとお母さんがいるのに、私にはどうしてお母さんがいないんだろうって、当然のように不思議に思ったし、私もお母さんが欲しいって、小学生の時は思っていました」
「……そうなのね」
「でも、今は」
「今は?」
「二人の父が、私を愛してくれてるってよくわかります。だから、昔ほどお母さんについて考えないようになりました」
正直に明かすと、彼女は優しく微笑んだ。
「でも」と、私は続ける。
「たまに、思うんです。お母さんって、どんな人なんだろうって。その気持ちは、父たちを愛している気持ちとは別に湧いてしまうものなので、多分一生消えないと思います」
なんだろう、言わなくてもいいと思うのに、さらに本音を口にしてしまった。
お母さんという存在が、醸し出す圧倒的な親しみやすさみたいなものが、私の心を丸裸にしてしまったようだ。
「きっと」
彼女は静かに言った。
「素敵な人よ」
「そうですか?」
「ええ。真鍋さんみたいに、優しくて、強い子に育ってほしいって願いながら、あなたを託したんだと思うから」
彼女の声が、少し震えている気がした。
「お母さんに、会いたいって思ったことは?」
「……あります」と答えて、紅茶カップの金色の縁を見つめる。
「でも、会えないんですよね」
「どうして?」
「パパたちが、教えてくれないから」と顔をあげて、思い切って伝えると、「そう、なのね」と、逢坂君のお母さんは、少し悲しそうな顔をした。
沈黙が降りる。
「真鍋さん」
明るい声で呼ばれたので、「はい!」と元気に答えた。
「陽太のこと、これからもよろしくね」
「あ、えっと。もちろんです!」
ニコリと笑いながら、心の中で「逢坂君が許してくれたらですけど」と、付け加えておく。
「陽太は、きっと真鍋さんのことを大切に思ってると思うの」
「え?」
「母親の勘よ」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しそうで。
でも、とても優しかった。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」と、逢坂君の声。
私は反射的に立ち上がる。
「帰ってきたみたい」と、何も知らないお母さんが嬉しそうに微笑む。
そしてすぐ、リビングのドアがガチャリと開いた。
「おかえり。真鍋さんが忘れ物を届けに来てくれたわよ」
リビングに入ってきた逢坂君は、私を見て、驚いたような顔をした。
普段無表情な彼からしたら、かなりレアなびっくり顔だ。
「真鍋さん……」
「あの、これ」
私はクロッキー帳を彼に差し出す。
「忘れ物」
彼はクロッキー帳を見て、さっと顔色を変えた。そしてひったくるように私の手からクロッキー帳を奪い取る。
「……開けた?」
「ごめん」と、正直に謝った。
「許さないって言ってたのに」
「……ごめんなさい」
逢坂君は、受け取ったクロッキー帳を大事そうに胸にギュッと握りしめて、それ以上なにも言わなかった。
逢坂君のお母さんもいるし、今日のところは、これで良しとしよう。
逢坂君のお母さんに体を向ける。
「じゃあ、私、帰ります」
「あら、もう?」と、名残惜しそうな声。
「はい。ご馳走さまでした」
「じゃ、これ持って帰って」
逢坂君のお母さんは、綺麗なお皿の上に乗った、花がらの小袋に入ったマカロンを、そっと手渡してくれた。
「また来てね」
「ありがとうございます」
「陽太、駅まで送ってあげなさい」
「え」と、固まる逢坂君。
「わざわざ忘れ物を届けて来てくれたんだから、送ってあげるのは、当たり前でしょ」
「…………」
私をジッと見つめ、黙り込む逢坂君。
自分で帰れよ、という圧を感じるような。
「私は平気です。この後寄るところもあるし」
空気を読んで、咄嗟に嘘をつく。
「ほんとに、大丈夫?」
「はい」
「ごめんなさいね、気が利かなくて」
「いえ」
「また遊びにきてね」
「ありがとうございます」
彼のお母さんと話しながら、玄関にたどり着く。
靴を履いて、もう一度「お邪魔しました」と頭を下げた。
一応玄関までお見送りに来てくれた逢坂君は、何も言わずに、ただそこに立っている。
「逢坂君」
「……なに?」
「学校、来てね」
それだけ言って、私は彼の家を出た。
外に出ると、すっかり空気が入れ替わったような感覚に包まれた。
来るときとは違い、街はすでに夕方の光を帯びていた。木々は黄色や赤に色づき、西日から浴びる最後の光に透けている。
十一月特有の、冷たく澄んだ空気が肺を満たし、まるで重い荷物を下ろした後のように、私の心は清々しく軽かった。
逢坂君のお母さんに家族のことを正直に話せたこと、そして彼女に受け入れてもらえたことが、嬉しかった。
もちろん逢坂君に会えたことも。
「クロッキー帳のことは怒られたけど、自業自得だし、まあ、また今度謝ろっと」
心の中で、今日の成果を噛み締める。
彼のお母さんに会って、少しだけ、逢坂君との距離が縮まったような気がしていた。




