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放課後、彼と私は「普通」を検証する  作者: 月食ぱんな
第三章:水面で魚が跳ねる
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 逢坂君は、今日もまた私の家に来た。


 彼は、ベッドに背をつけてB5サイズのクロッキー帳に、鉛筆をサラサラと走らせている。


 時折、テーブルを挟んで向かい側に座る私の顔をジッと見つめては、またすぐにクロッキー帳に戻る。彼の視線は、まるで私の感情の揺れすらも見透かそうとする計測器のようで、若干居心地が悪い。


「ねえ、何描いてるの?」


 思わず尋ねると、彼は鉛筆を止めずに、淡々と答えた。


「ひみつ」


「そう言われたら、見たくなる」


「みたら許さない」


 氷のように冷たい声が返ってきた。


 それでもめげずにちらりとクロッキー帳を盗み見ようとしたけれど、彼はすぐにクロッキー帳をひっくり返して、私に見せないように隠した。


 仕方がないので、数学の宿題をやることにする。


 ノートを開き、微分係数の定義を見つめる。


 関数 y=f(x) の x=a における微分係数は――。


 覚えようと眺めている微分記号の形が、下駄箱で見たカメムシの干からびて丸まった甲羅や取れた足の残像に重なって見えてきた。


 どうかしてる。


「逢坂君」と意を決して声をかけた。


「なに?」


「今日、逢坂君の下駄箱、見ちゃった」


 逢坂君は、鉛筆の動きをピタリと止めた。


「で?」


 クロッキー帳に視線を落としたまま、彼は短く問いかけてきた。


「いつからああいう酷いこと、されてるの?」


「真鍋さんって、ストーカーなの?」


 逢坂君は、いつもの口調に戻ってはぐらかそうとする。


 いつもならそれに乗ってしまうけれど、今日の私は流せなかった。


「ずっとされてるの?」


「……そういうわけじゃない」


「なんで、何も言わなかったの」


「言ってどうかなる?」


 彼の声は、いつもより低い。


「でも、あんな酷いこと」


「真鍋さんだって、されてるんでしょ」


「……うん」


「だったら、お互い様じゃん」


 逢坂君はクロッキー帳を見つめたまま肩を落とす。


 なんかその態度が、イライラした。


「お互い様って、そういう問題じゃないでしょ」


「じゃあ、どういう問題?」


 逢坂君が顔を上げた。


 その目は、いつもより鋭かった。


「真鍋さんは、俺が可哀想だと思ってるの?」


「そうじゃないけど」


「じゃあ、何? 同情?」


「違うよ!」と、強い声になってしまう。


「私は、ただ心配してるだけ」


「傷舐め合うとかキモい」


 逢坂君は吐き捨てるように言った。


「真鍋さんだって、毎日下駄箱に紙を入れられて、嫌な思いしてる。でも、何もできない。俺もそう」


「だからって、諦めるの?」


「諦めてるわけじゃない。ただ、現実を受け入れてるだけ」


 逢坂君の声は冷たかった。


「真鍋さんが俺の下駄箱を勝手に開けて、勝手に心配してるだけ」


「勝手にって……」


「俺、頼んでないよね?」


 その言葉が、胸に刺さった。


 確かに、頼まれてない。


 勝手に心配して、勝手に傷ついて。


「……じゃあ、もういい」


 私はノートを閉じた。


「私が余計なことしたんだね」


「そう」


 部屋の中に、重い沈黙が降りる。


 私は立ち上がった。


「今日は、もう帰ってくれる?」


「なにそれ」


「二人でいると目立つから、永遠に嫌がらせされるんでしょ? だからもう……」


 絶交しようとは言えなかった。


 でも私が喉まででかけた言葉を察知したのか、逢坂君の表情が、一瞬だけ揺れた。


「……真鍋さん、本気で言ってる?」


「もう来ないで」


 そっぽを向いて小声で告げる。


「……わかった」


 彼はクロッキー帳を閉じて、立ち上がった。


 乱暴にジャケットを掴み、ネクタイを手に取る。


「じゃあ」


 それだけ言って、彼は部屋を出た。


 階段を降りる足音。


 玄関のドアが開く音。


 そして、閉まる音。


「鍵、しめなきゃ」


 急いで部屋から飛び出して、玄関に向かう。


 玄関のドアを見つめた。


 もしかしたら、戻ってくるかもしれない。前みたいに「忘れてた」と言って、また玄関を開けるかもしれない。


 だって、今日はバイバイのキスをしてないから。


 もし彼が戻ってきたら、私は何て言おう。


「ごめんね」って言った方がいいのかな。


 それとも、もう一度「来ないで」と言うべきなのかな。


 玄関に座って、五分待った。十分待ってみたけれど、逢坂君は戻ってこなかった。


「馬鹿みたい」


 鍵をかけながら呟いた。




 *



 二階の部屋に戻った私は、さっきまで逢坂君が座っていた場所に座り込んだ。


 もう冷たくて、心がキュッとする。


「あ」


 床に、逢坂君のクロッキー帳が落ちていた。


「忘れ物してるし」


 ちょっとおかしくなって笑ってしまう。


 拾い上げようとして、手が止まった。


 開けちゃダメだ。


 だって、「みたら許さない」って言ってたし。


 でも、気になる。


 好奇心が勝った私は、悪魔に魂を売る覚悟でクロッキー帳を手に取った。


「ごめん。でも忘れていった逢坂君も悪いから」


 言い訳を言いつつ、色褪せてくたっとしている表紙を眺める。


 角は丸く擦り切れており、何度もめくられた痕跡が残っていて、表紙の右下に『Yota』と彼の名前が小さく綴ってあった。


 そっと、表紙を開く。


 そこには、学校に植えてある桜の木が描かれていた。位置的にきっと教室の窓から見て描いたのだろう。


 写実的に描かれた桜の木を見ていると、中学時代をリセットしてアオハルするぞと、美波と意気込んで校舎の門を通り抜けたことを思い出す。


 次のページをめくると、いっぽの顔が描いてあって、それがやたら特徴をばっちり捉えたものだったから思わず吹き出した。


 逢坂君は一年生の時、いっぽが担任だったのかも知れない。


 さらに次のページをめくると、彼が飲んだであろういちご牛乳のスケッチやら、パンの包装ビニールの質感をひたすら追求したような絵が続いた。


「アルバムみたい」


 年季の入ったクロッキー帳は、私の知らない彼の情報が沢山詰まっている。


 彼が目を留めて、書きたいと思ったものが連なるページを楽しい気分でめくっていく。


「ふーん、猫より犬派なんだ」


 五ページ連続で犬のスケッチが出てきた。

 柴犬だったり、プードルだったり。


 どれも生き生きとしていて、今にも動き出しそうだ。


 次のページには、カフェの風景。テーブルの上のコーヒーカップは、細かいところまで丁寧に描かれている。


「絵、上手いんだな」


 私は思わず呟いた。


 知らなかった。

 逢坂君が、こんなに絵が上手いなんて。


「さすが美術部」


 ページをめくる手が止まらない。


 次は、体育館。

 バスケットボールのゴール下で談笑する生徒たち。


 さらに次は、教室の窓から見える夕焼け。

 グラデーションが、鉛筆だけで表現されている。


「すごい……」


 そして、次のページを開いた瞬間、息が止まった。


 そこには、私の顔が描かれていた。


 横顔。髪を耳にかけて、何かを見つめている表情。


 いつ描いたんだろう。


 私が気づかないうちに?


 心臓が、ドクンと跳ねた。


 次のページも、私だった。


 今度は笑っている顔。


 次も、次も、何枚も、何枚も。


 困っている私。

 考え込んでいる私。

 ノートを見つめている私。

 湯呑みを両手で包む私。


 どれも、すごく丁寧に描かれていた。


「私のことを、こんなに見てたんだ」


 こんなに、細かいところまで。


 ページをめくる手が震えた。


 次のページには、眠っている私の横顔。


 ベッドで横になっている時の私っぽい。

 髪が少し乱れていて、唇が少し開いている。


 彼から見た私はこんな風に見えてるんだと、リアルすぎて、恥ずかしくなった。


 その絵の下に鉛筆で、小さく文字が書かれていた。


 《真鍋唯》


 ただ私の名前が書いてあるだけなのに、そこに込められた思いが伝わってきて、私の目から、涙が溢れた。


 逢坂君はヤリチンじゃないって言ってた。


 でも私の家に来て、毎回必ずキスをして帰る。


 それって、私が好きだから。


 一粒、二粒と、クロッキー帳の上に落ちて、紙に染み込んでいく。


「……ばか」


 誰に向けた言葉なのか、わかっている。


 自分に、そして逢坂君に。


 なんで、もっと早く気づかなかったんだろう。

 なんで「来ないで」なんて言っちゃったんだろう。


 私は立ち上がった。


 クロッキー帳を胸に抱きしめて、部屋を飛び出す。


 階段を駆け下りて、玄関のドアを開けた。


「逢坂君!」


 外に向かって叫ぶ。


 でも、当たり前のように返事はない。


 それでもどこかにいるんじゃないかと、夕暮れの道を見渡す。だけど、彼の姿はなかった。


「逢坂君……」


 私は、その場に立ち尽くす。


 冷たい風が、頬を撫でていく。


 涙が、止まらない。


「ばか、ばか、ばか」


 何度も繰り返す。


 私は、大切なものを失ってしまった。自分から、手放してしまった。


 クロッキー帳の中の私は、こんなに優しい目で見られていたのに。

 こんなに大切に描かれていたのに。


 私は、気づかなかった。いや、後回しにしてた。


 だって、色々と複雑に考えすぎてたから。


「男子だからとか、女子だからとか、恋愛にはそんなの関係ないじゃん」


 私が一番良く、知ってるはずなのに。


「私は、逢坂陽太君だから好き」


 小さく呟いた。


 でも、いまさらすぎる告白は、届けたい人に届かない。


 冷たい風が、愚かな私を嘲笑うように通りを吹き抜けていった。


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