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謹慎が明けて学校に行った朝。
下駄箱を開けた瞬間、紙がひらりと落ちた。
「あー、今度はこのパターンか」
拾い上げると、ルーズリーフに赤いペンでべっとりと書かれた言葉が目に飛び込む。
LGBTを中傷するような、どこかで聞いた幼稚で残酷な文面。
「はぁ……」
ため息しか出なかった。
怒りよりも、もう、ただただ疲れるだけ。
紙をぐしゃっと丸めてジャケットのポケットに突っ込む。
「ゆいぃぃぃー!!」
振り向く間を与えぬ勢いで、美波がボールを追いかける犬さながら、飛びついてきた。
「うわっ、美波! 重いって!」
美波は私を抱きしめたまま、ぐりぐりと頭を私の肩に擦り付けてくる。
「もう、 三日間辛かったぁ。 私の話し相手と、ボケ役がいないんだもん。学校生活が砂漠だったんだから」
私の存在をたっぷり吸い込んだみたいな美波は、「よし、チャージ完了!」と私から離れ、すっきりと満足げな顔をした。
「ごめん」
「許す」と言った彼女の顔には、屈託のない明るい笑顔が満ちている。
「 ね、昨日たっちゃんパパが作ってくれたっていうタルトは?」
「はいはい、これ」
彼女のために達也パパに小分けにしてもらった美波の好物「チーズタルト」の包みをカバンから取り出す。
「やったー! 愛してる!」
美波はタルトを抱きしめ、幸せそうに目を細めた。その顔は、まるで宝くじに当たった小学生みたいだ。
「現金なんだから」
「だってたっちゃんパパのパイ、世界一美味しいんだもん。私を太らせる悪魔のタルトだけどね」
「じゃ、返して」
「無理」
美波が全力でタルトを私の手から離す。
朝からハイテンションな彼女といると、先程までの嫌な気持ちなんて簡単に吹き飛んでしまう。
美波と一緒に教室へ向かう廊下は、いつも通り明るく見えた。
✳︎
昼休みが終わって、五時間目の前。
洗面所から教室に戻ろうと歩いていたら、理科の先生に呼び止められた。
「真鍋、悪いんだけど、実験の資料を理科室に運んでくれないか?」
えー、また私なの?と内心思いつつ、「はい、わかりました」と、段ボール箱を受け取ってしまったので、渋々理科室へ向かう。
箱はそこそこ重くて、視界が少し遮られる。
廊下を歩いていると、前から数人の生徒が歩いてきた。
邪魔にならないよう、少し壁寄りに方向を変えてすれ違おうとした瞬間。
「あっ」
何かが足に引っかかって、体のバランスが崩れた。
段ボール箱が手から離れ、中身の白い紙の束が床に散乱する。
「痛っ……」
前のめりに転んだ衝撃で、膝に鈍い痛みが走った。
「あ、ごめーん。気づかなかった」
わざとらしい謝罪の声。
顔を上げると、知らない女子が数人、私を見下ろしていた。
でも、私と同じ学年を示す、上履きに入ったブルーの線。
足をかけたのは、この中の一人だろう。
「大丈夫?」
口では心配するような言葉を言いながら、その目は笑っていない。
「拾うの手伝おっか?」
そんな気もないくせに、わざとらしく親切ぶってきた。
「……平気です」
四つん這いになって、散らばった資料を拾い集める。
私が断ったとは言え、やっぱり誰も手伝ってくれない。
彼女たちは、くすくすと笑いながら去っていった。
ジンジン痛むところを確認すると、膝が少し擦りむけていた。
地面を這いつくばる制服のスカートには、うっすらと埃がついている。
*
六時間目の体育の着替えの時。
私のジャージがなくなっていた。
ロッカーを何度も確認したけど、見つからない。
結局、保健室で予備のものを借りることになった。
体育が終わって戻ってくると、ジャージは元の場所に戻っていた。
でも、明らかに誰かが触った形跡がある。
タグの部分に、赤いマジックで小さく「菌」と書かれていた。
*
放課後。
「じゃあね、唯! 今日はスーパーの特売日だから!」
美波はバイトがあるからと、まるで追い風に押されるように先に帰ってしまった。
「スーパーの特売日って、主婦みたいでうけるんだけど」
朝一番、下駄箱の前で私を抱きしめた時の名残惜しさなど微塵も残っていない、彼女の変わり身の速さに笑いながら、カバンを肩に引っかけて教室の出口に向かう。
「あ」
逢坂君が謹慎前と変わらず私を教室の入口で待っていた。
「帰ろ」
「うん」
今日は色々あったから、少しだけ彼の顔を見るとホッとする。
「ねえ、逢坂君。今日の古典の先生、また途中で脱線して、戦国武将の話始めちゃったんだけど、あれって授業としてアリなのかな?」
私が軽口を叩くと、彼は少しだけ笑ってくれた。その表情は、美波みたいに華やかではないけれど、静かで優しい。
「今日、平気だった?」
「うん、大丈夫。いつも通り」
咄嗟に笑顔をつくる。
ほんとは、嘘だ。
全然大丈夫じゃない。
でも逢坂君を巻き込みたくないから、言えなかった。
「そっか」
逢坂君が歩き出す。今日はちょっと落ち込む顔を見られたくなくて、私は斜め後ろに陣取って、彼のお供みたいについていく。
*
逢坂君と一緒に校門を出ようとしたとき。
「うわ、オカマ野郎が来たぞ」
後ろから聞こえてきた声。
振り返ると、体育会系所属を意味する大きなエナメルバックを肩にかけた男子が数人、こちらを見て笑っていた。
「あいつら、やっぱ付き合ってるんだ」
「親がアレ同士だから、気があうんじゃね?」
「キモイこと思い出させるなよ」
馬鹿にした笑い声。
スポーツマンシップはどこいった?と、私の中で何かが切れた。
「ちょっと、あんたたち――」
言い返そうとして一歩踏み出した瞬間、逢坂君に手首を掴まれた。
「真鍋さん、帰ろ」
「でも」
「いいから」
彼の声は、いつもより低かったから、喉まででかかった「でも」に続く言葉を飲み込む。
逢坂君は、私の手を引いて、そのまま歩き出す。
グイグイといつより強い力で、まるで、私を引きずるみたいに大股で歩く。
身長さを考慮してくれない傍若無人な彼の隣で、私は競歩している気分になった。
校門を出て、いつも通り大通りを避けて裏道に入る。
繋がれた手は、まだほどかれない。
まるで、少しでも手を離したら、私がまた誰かに傷つけられるのを恐れているかのように、彼の細くて長い指は、私の手をしっかりと包み込んでいた。
「なんで、逢坂君は言い返さないの」
「言い返したって、何も変わらないから」
逢坂君の表情は、いつもより硬かった。
「でも」
「挑発に乗るなんて、子どもっぽいよ」
逢坂君の言葉は、私の胸にグサリと刺さる。
まるで、彼の持つ無機質なナイフで、心をえぐられたみたいな気分になった。
「子どもっぽい、か……」
力なく呟く。
彼の言う通りかもしれない。
私はすぐカッとなるし、手が出てしまうから、子どもっぽい。
でも、黙って耐えるのも、辛い。
転んでぶつけた膝の痛みに加え、心にも新しい痛みがじんわりと広がっていった。




