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第三章:弟が見た光の風景

 弟が遺してくれた最後のデータ。それはまさに失われたミッシングリンクだった。彼の詳細な体調記録と自己分析は薬の副作用が特定の遺伝子配列を持つ人間に強く現れることを示唆していた。これがあれば薬の欠陥を完全に証明できる。そして会社がそれを知りながら隠蔽したという動かぬ証拠になる。


 陸のデータを詳細に分析すると、驚くべき精度で副作用の発現パターンが記録されていた。医学部3年生とは思えない洞察力だった。


 彼は薬剤投与後の免疫系の変化を時系列で追跡していた。血中のIgE濃度、好酸球数、補体価、炎症マーカーのCRPやESRの変動。さらに皮膚の微細な変化を写真付きで記録し、それらと血液データの相関を分析していた。


 特に重要だったのは、HLA-B*5701保有者において特異的に見られる免疫反応パターンの発見だった。通常のアレルギー反応とは異なり、投与後48-72時間という遅延型の反応で、初期段階では臨床症状がほとんど現れない。しかし血液中では着実に免疫系の暴走が進行していた。


 陸は他の被験者の様子も観察し、同様のパターンを示す患者を特定していた。田中健一(45歳、関節リウマチ)、佐藤美咲(38歳、全身性エリテマトーデス)、そして月読朔(34歳、全身性エリテマトーデス)。全員がHLA-B*5701保有者だった。


 私は朔と共に戦うことを決意した。私は科学者として弟のデータを再検証し完璧な告発レポートを作成する。朔は彼の研究者としての人脈を使いこの問題を公にしてくれる良心的なジャーナリストを探す。


 生と死の境界線を見てきた私たちにとって巨大な製薬会社という組織はもはや恐れる相手ではなかった。


 私たちは夜を徹して作業した。私は弟のデータを基に統計解析を行い、HLA-B*5701保有者における『ルミナス-7』の安全性プロファイルを再評価した。結果は衝撃的だった。


 HLA-B*5701保有者において重篤な副作用(グレード3以上)の発現率は67.8%。一般集団での4.2%と比較して圧倒的に高い。特にホモ接合体では100%の患者で何らかの副作用が認められ、そのうち23.1%でアナフィラキシーショックという致命的な反応が起こっていた。


 この数値は薬事承認の基準を大幅に下回るものだった。通常、重篤な副作用の発現率が10%を超える薬剤は承認されない。67.8%という数値は、特定の遺伝子型を持つ患者群に対する禁忌レベルの危険性を示していた。


 一方、朔は医学ジャーナリズムの世界で活動する友人たちに連絡を取っていた。特に製薬業界の不正を専門に追及している調査報道記者の西村春香との連携が重要だった。


 西村記者は過去に複数の製薬会社の薬事データ改竄事件を告発し、薬事行政の透明性向上に貢献してきた敏腕記者だった。朔の大学の先輩でもあり、彼の臨死体験研究にも理解を示してくれる数少ない人物の一人だった。


 だが会社の妨害は執拗だった。私の研究室へのアクセス権が突然剥奪され、自宅のPCもハッキングされた。さらに私に対する懲戒処分の手続きが水面下で進められているという情報も入ってきた。


 私たちは追われる身となった。


 製薬業界の闇は想像以上に深かった。年間売上数十億円の新薬開発には巨額の投資が必要で、一度開発が進むと後戻りはきかない。『ルミナス-7』の場合、開発費用は既に120億円に達しており、承認取り消しとなれば会社の存続に関わる大損失となる。そのため不都合なデータは組織的に隠蔽される構造になっているのだ。


 さらに問題だったのは、規制当局との癒着構造だった。厚生労働省の薬事審議会委員の多くが製薬会社から研究費や講演料を受け取っており、客観的な審査が困難な状況になっていた。


 その逃避行の中で私と朔の心は急速に近づいていった。私たちは互いの孤独を埋め合うように語り合った。彼の臨死体験の話の続き。私が科学者になった本当の理由。私たちは似た者同士だったのだ。証明できない何かを必死に信じようとしている不器用な求道者。


 ある夜、私たちは山梨県の小さな温泉宿に身を隠していた。追跡を逃れるため、朔の知人が経営する人里離れた宿だった。


「莉子さん」


 朔は温泉から上がった後、浴衣姿で私に語りかけた。


「僕があの光の世界で感じたこと……それは孤独からの解放でした」


 彼の瞳が夜空の星のように輝いていた。


「僕たちは皆、根本的には一人ぼっちです。自分の意識の中に閉じ込められて、他者と完全に理解し合うことはできない。でもあの世界では……意識同士が直接繋がっていました」


 私は黙って聞いていた。


「陸くんと話した時、言葉は必要ありませんでした。思考と感情が直接伝わってくる。それは現世では決して体験できない深いコミュニケーションでした」


 朔は続けた。


「そして僕は理解したんです。愛とは量子もつれのような現象なのかもしれないと。一度繋がった意識は、時間と空間を超えて永遠に繋がり続ける」


 私の心臓が激しく鼓動していた。これは科学的な仮説なのか、それとも恋の告白なのか。


「もし僕たちの意識が量子レベルで繋がっているとしたら……あなたが感じる悲しみも喜びも、僕は同時に感じているはずです」


 朔の言葉は私の心の奥深くに響いた。


 私は朔の研究を手伝う中で、量子物理学と意識の関係について深く学んでいた。特に興味深かったのは、量子もつれ(エンタングlement)という現象だった。


 量子もつれとは、二つの粒子が一度相互作用すると、その後どれだけ距離が離れても瞬時に相関した状態を保つ現象だ。一方の粒子の状態を測定すると、他方の粒子の状態が瞬時に決まる。アインシュタインは「不気味な遠隔作用」と呼んで否定したが、現在では実験的に証明されている。


 もし意識が量子現象だとすれば、人間の心同士にも量子もつれが起こる可能性がある。愛し合う二人の意識が量子レベルで繋がり、相手の感情や思考を直接感じ取れるかもしれない。


 それは科学的な仮説であると同時に、最も美しい愛の定義でもあった。


 決戦の前夜。小さなビジネスホテルの一室で私たちは全ての準備を終えた。明日記者会見が開かれる。それで全てが終わる。あるいは全てが始まる。


 私たちは西村記者と綿密な打ち合わせを行い、告発資料を完璧に整理していた。陸のデータ、HLA遺伝子型と副作用の相関、会社の隠蔽工作の証拠、規制当局への虚偽報告の証拠。全てが揃っていた。


「……怖いですか?」


 朔が尋ねた。


「……いいえ」


 私は答えた。


「……少しも。……だってあなたは一度死んで生き返った男だもの。……それに私は死んだ弟に背中を押されてる女だもの。……私たち最強じゃない?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。そして私は彼にずっと聞きたかった質問をした。


「……ねえ朔さん。……あなたがあの光の中で見たもの……本当にそれだけだったの?……弟のメッセージだけ?」


 朔は少し戸惑ったように視線を逸らした。そして観念したように告白した。


「……いいえ」


「……え?」


「……僕があの光の中で見たものはもう一つあります」


「……」


「……いつか僕があなたのような聡明で……少し意地っ張りで……そして誰よりも優しい心を持った女性と出会うという未来のビジョンでした」


 それは彼の不器用でしかしあまりにもロマンチックな告白だった。私の科学者としての脳はその非論理的な言葉を処理できずに完全にフリーズした。そして私のただの女としての心は生まれて初めて経験する甘い痛みで張り裂けそうになっていた。


 科学では到底証明できない一つの恋の始まりだった。


「でも……そんなの……科学的には……」


「莉子さん」


 朔は私の手を優しく握った。


「全てを科学で証明する必要はないんです。証明できない大切なものもたくさんある。愛もその一つです」


 私の心臓が激しく鼓動していた。1分間に120回以上。通常の安静時心拍数の倍近い。科学者として冷静であろうとする理性と、女性として感情に身を委ねたい衝動が激しく葛藤していた。


「私は……科学者として生きてきたの。感情に惑わされるなんて……」


「でも今、あなたの心は何と言っていますか?」


 私は朔の深い瞳を見つめた。そこには純粋な誠実さと、包み込むような優しさがあった。私の理性の最後の砦が音を立てて崩れていく。


 脳内でドーパミン、セロトニン、オキシトシンが大量分泌されている。恋愛時に特徴的な神経伝達物質のカクテル。PEAフェニルエチルアミンによる興奮状態。エンドルフィンによる至福感。


 でもそんな化学式では表現できない何かがここにはあった。


「……愛してる」


 私は初めて自分の感情に正直になった。


「……私も愛しています」


 朔の声が震えていた。


 私たちは静かに口づけを交わした。その瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。科学と感情、理性と直感、物質と精神??それらは対立するものではなく、互いを補完する存在なのだということを理解した。


 量子もつれが起こった瞬間だった。私たちの意識が量子レベルで繋がり、永遠に共鳴し続ける状態になった。それは科学的な仮説であると同時に、この上なく美しい恋の始まりでもあった。


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