第二章:クロス・モダリティの邂逅
クロス・モダリティ。それは脳科学の用語で、視覚、聴覚、触覚といった異なる感覚情報が脳内で統合される現象を指す。例えば、私たちが「赤い薔薇」を認識する時、視覚的な赤色の情報、嗅覚的な薔薇の香り、触覚的な花弁の柔らかさが統合されて一つの「薔薇」という概念を形成する。
私と朔の関係はまさにそれだった。科学という視覚情報に頼る私と、神秘という聴覚情報に耳を澄ます朔。私たちは互いの欠けた感覚を補い合うようにして三年前のあの日の真実に少しずつ近づいていった。
研究室で過ごす時間が増えるにつれ、私は朔の研究手法の科学性に驚かされた。彼は決して感情論や神秘主義に逃げることなく、厳密な統計分析、心理学的検証、神経科学的考察を重ねていた。
特に印象的だったのは、彼が開発した「臨死体験真正性評価スケール(NDES-Authenticity Scale)」だった。これは臨死体験の証言を16の客観的指標で評価するシステムで、体験の詳細度、時系列の整合性、検証可能な事実の含有度、証言の安定性などを数値化していた。
「科学的に扱えないものは存在しないのと同じだ、というのが従来の科学界の姿勢でした」
朔は説明した。
「でも僕は逆に考えたんです。科学的に扱えるように手法を開発すれば、神秘的な現象も研究対象になる、と」
私は製薬会社の内部調査を秘密裏に進めた。『ルミナス-7』の開発過程を詳細に検証していくうちに、一つの疑惑にたどり着いた。治験データに不自然な改竄の痕跡があったのだ。
現代の新薬開発は三段階の臨床試験を経る。第I相では健康成人または軽症患者を対象とした安全性の確認、第II相では特定の疾患患者での有効性の検証、第III相では大規模な比較試験による有効性と安全性の最終確認が行われる。通常、第I相から承認まで10-15年、総費用は数百億円に達する。
『ルミナス-7』は第II相試験で劇的な効果を示し、承認審査の迅速化措置の適用を受けて第III相試験へと進んだ。しかしそこで問題が発生していた。
弟が死亡する数週間前から複数の被験者に原因不明のアレルギー反応が出ていた。具体的にはHLA-B*5701という特定のヒト白血球抗原を持つ患者群で重篤な副作用が集中していたのだ。だがその不都合なデータは当時の開発責任者??研究開発担当の副社長である黒田によって隠蔽され、治験は強行されていたのだ。
HLA(ヒト白血球抗原)は第6染色体上に位置する遺伝子群で、免疫系の自己・非自己認識の要となる分子だ。個人差が極めて大きく、薬物代謝や免疫反応に深く関与している。近年、特定のHLA型と薬物過敏症の関連が次々と明らかになっており、例えばHLA-B*5701保有者ではアバカビルという抗HIV薬で致命的な過敏症が起こることが知られ、現在では投与前の遺伝子検査が義務化されている。
私は社内の機密データベースにアクセスし、『ルミナス-7』の前臨床試験データを詳細に調べた。すると驚愕の事実が明らかになった。
動物実験の段階で、特定の遺伝的背景を持つマウス系統において重篤なアレルギー反応が確認されていたのだ。具体的にはH-2b型の遺伝的背景を持つC57BL/6マウスで、人間のHLA-B*5701に相当する免疫応答パターンを示すマウスだった。
この重要な安全性情報は研究開発部門内で共有されていた。しかし承認申請書類にはこのデータは記載されておらず、規制当局にも報告されていなかった。明らかな隠蔽工作だった。
弟のカルテを調べ直すと、彼もまたHLA-B*5701のホモ接合体だった。遺伝的にこの薬剤に過敏反応を示す体質だったのだ。事前に検査していれば、この悲劇は防げたはずだった。
さらに恐ろしいことに、黒田は弟がHLA-B*5701保有者であることを治験開始前から知っていた。それでも利益を優先し、危険を承知で治験を続行したのだ。
弟は殺されたのかもしれない。会社の利益のために。
私は震える手で証拠資料をプリントアウトした。これだけの証拠があれば、会社の犯罪行為を告発できる。しかし同時に、私自身も開発チームの一員として責任を問われることになるだろう。
その夜、私はその事実を朔に打ち明けた。彼は私の怒りと悲しみを黙って受け止めてくれた。そして彼は初めて私にあの日彼が体験した臨死体験の全てを語ることを決意した。
「……僕が意識を失った時」
彼は目を閉じ、あの日の記憶を辿るように話し始めた。私たちは研究室の奥の瞑想スペースに座っていた。キャンドルの柔らかい光が私たちを包んでいる。
「……最初は暗闇でした。でも怖くない暗闇。母のお腹の中にいるような、安心できる暗闇でした」
彼の声が震えていた。
「……そして光が見えてきました。最初は遠い星のような小さな光点でしたが、次第に大きくなり、やがて私を包み込むような温かい光になりました」
朔は続けた。
「……その光の中で、僕は時間と空間の概念を失いました。過去も未来もない、ただ永遠の『今』だけがある世界。そこでは言葉ではなく、直接的な意識の交流が可能でした」
私は科学者として冷静に分析しようとした。これは典型的な臨死体験のパターンだ。脳の酸素欠乏状態で起こる幻覚現象の可能性が高い。
しかし朔の静かな語り口には、単なる幻覚とは思えない深い実在感があった。
「……そこで僕は一人の青年に出会ったんです」
私の心臓が激しく鼓動し始めた。
「……それが陸くんでした。……彼は少しも苦しんでいなかった。……むしろとても穏やかで幸せそうな顔をしていました」
私の目から涙が溢れ出した。弟の名前を聞いた瞬間、三年間堪えていた感情の堤防が決壊した。
朔の臨死体験の中で陸は彼に語りかけたのだという。自分はもうすぐこの世界から旅立つこと。そして姉の莉子への感謝の気持ち。
「……『姉さんに伝えてください』と彼は言いました。『ありがとう。僕のせいで自分を責めないで』と」
私は声を上げて泣いた。三年間、私は自分を責め続けていた。私の作った薬が弟を殺したのだと。私の科学への盲信が悲劇を招いたのだと。
「……陸くんは続けました。『姉さんは何も悪くない。僕は姉さんの夢の一部になれて幸せだった。でもまだ終わりじゃない』と」
朔は続けた。
「……そして彼はこうも言いました。『姉さんの作る未来の薬はたくさんの人を救うことになる。……でもその光にはまだほんの少しだけ影が残っている。……その影を見つけ出して光を完成させてほしい』と」
影。それは会社が隠蔽した薬の欠陥のことだ。弟は全て知っていたのだ。
「……そして陸くんは僕にこれを託しました」
朔は私に一つのURLとパスワードが書かれたメモを差し出した。
「……彼の秘密のブログです。……そこに彼が遺した最後の体調記録があるはずだと」
私は震える手でそのメモを受け取った。弟は死の淵で私に最後のバトンを託してくれていたのだ。朔という奇跡の郵便配達人を通して。
私たちはその夜、二人でそのブログにアクセスした。URLは複雑な英数字の組み合わせで、一般には公開されていない秘密のサイトだった。パスワードは「LUMINOUS-7-HOPE」。弟が新薬に託した希望を表す言葉だった。
そこには難病を抱えながらも懸命に生き、そして科学を愛していた私の知らない弟の姿があった。
ブログのタイトルは「陸の臨床記録?僕が姉さんの光になるまで?」だった。開設日は治験参加が決まった日。最後の更新は亡くなる前日だった。
陸は自分の病状を詳細に記録していた。体温、血圧、心拍数、血液検査データ、各種バイタルサイン。そして薬剤投与後の身体反応を時系列で克明に記録している。彼は自分の身体で起こっている現象を科学的に分析し続けていたのだ。
特に注目すべきは、彼が独自に気づいていた皮膚反応のパターンだった。薬剤投与後72時間以内に現れる微細な紅斑??発疹の前段階とも言える軽度の皮膚変化??は、後に重篤なアレルギー反応の前兆であることが判明していた。彼はそのことを正確に記録し、さらには他の被験者にも同様の症状が出ていることまで把握していた。
陸は医学部の学生だった。彼の観察眼は素人のものではなく、将来の医師としての冷静で科学的な視点に基づいていた。
そして最後のエントリー。そこには彼が自らの身体を使って行った緻密な体調記録データと、そして姉である私への最後の手紙が遺されていた。
陸は実際、3回目の投与前夜、血液データを見つめながら迷っていた。このまま続ければ重篤な副作用が起こる可能性が70%以上。でも今やめれば、この危険な薬は何の修正もされずに承認され、未来の患者が同じ目に遭う。『適切な処置があれば乗り切れるはず。そして僕のデータが姉さんの目を覚まさせる』?そう信じて、彼は最後の賭けに出ることを決めた。
『――姉さんへ。
もしこれを読んでいるということは僕はもうここにはいないんだろうね。
ごめん。心配かけて。
でも後悔はしていない。
僕は姉さんの夢の一部になりたかったんだ。
姉さんの作る薬が未来の誰かを救う、その最初の光になりたかったんだ。
このブログに記録した僕の体調データを見てほしい。
特に投与後72時間の皮膚反応と、血中好酸球数の変化パターン。
これは僕だけじゃない。同じ治験グループの田中さん、佐藤さんにも同じ症状が出てる。
でも誰も気づいていない。医師たちは別の検査に集中していて、この微細な変化を見落としてる。
僕はHLA-B*5701のホモ接合体だ。遺伝子検査で分かってた。
でも治験には参加したかった。姉さんの研究の一部になりたかったから。
もし僕に何かあったら、それは薬が悪いんじゃない。
僕の遺伝子の問題だ。
だから自分を責めないで。
そして僕のこの最後のデータを使って光を完成させて。
未来の患者さんが僕と同じ目に遭わないように。
事前に遺伝子検査をして、リスクの高い人は別の治療法を選べるように。
姉さんの科学は間違ってない。
ただちょっとだけ、影の部分が残ってるだけ。
その影を取り除けば、完璧な光になる。
僕は向こう側でずっとずっと姉さんのことを見守っているから。
世界で一番尊敬する僕のお姉ちゃんへ。
だから泣かないで。
笑顔でいて。
それが僕への一番のプレゼントだから。
愛してる。
ありがとう。
陸』
私は声を上げて泣いた。三年分の罪悪感と悲しみと愛が涙となって溢れ出した。朔は何も言わずにただそっと私の肩を抱きしめてくれた。
その温かさは科学では決して証明できない、しかし何よりも確かな真実だった。科学の光と愛の光。その二つの光が交差した瞬間だった。
朔の体温は36.8度。彼の心拍数は毎分72回。オキシトシンとドーパミンが私の脳内に分泌されている。それらは全て測定可能な物理現象だ。だが今私が感じているこの温かさは、そんな数値では決して表現できない何かだった。
私は初めて理解した。科学が全てではないということを。科学は確かに真実の一部を照らし出すが、それがこの世界の全てではない。朔が見ている世界にも、確かに真実があるのだ。
愛という名の量子もつれ。私と朔の心は、物理法則を超えた次元で繋がり始めていた。