偽りの私。
──時は、八月上旬。
ついに、この日がやってきた。『終末アオハル』最後のアフレコ。
僕は……いえ、私は、使い慣れたトートバッグに、筆記用具、そして今や端々までボロボロになった台本を滑り込ませる。
古びたちゃぶ台の前に正座し、鏡に向かって恒例の儀式を始めた。
今日のメイクは、あえて自然体に。できるだけ飾らない本当の自分を彩る。
丁寧にブローした髪を整え、昨夜アイロンを当てたばかりのまっさらな《《制服》》のブラウスに袖を通す。
しっかりと上までボタンを留め、チェック柄のプリーツスカートを履く。仕上げに、深紅のリボンを襟元に添えれば──
(……っておい、バカなのか!? よく考えろ、今ならまだ引き返せる、頼むから早まるな──)
とその時、内なる僕が必死に警報を鳴らす。だが、もう遅い。
鏡の中の私──彼女が小さく微笑んだ。
……………………
…………
……
真夏の午後。
改札口を抜けた途端、暴力的な熱気が肌を襲う。首筋を伝う汗をハンカチで押さえ、私は前を向く。
駅の広場では、夏休みを満喫する同年代の女子グループが眩しいほどの笑い声を響かせていた。
華やかな世界。
私には、関係のない世界。
目を伏せ、そっと通り過ぎる。
大通りを渡り、陽炎の揺れる一本路地へ、そこには街の景色に取り残されたような外壁の古老舗ビルが佇んでいた。
収録スタジオ。
挫折しそうになるたび、自分を殺し通い続けた私の戦場。
バッグの中の台本を強く握りしめ、自動ドアを潜る。エアコンの冷気が火照った体を癒してくれる。
「お疲れ様です」
いつものルーティン、守衛のおじさんに声をかけた。
「おや? ああ声優さん? 今日は制服なんだね。偉いなあ、夏休みは返上かい?」
「ええ……そんなところです」
この人は、本当の私を知らない。偽りだらけの私しか見てない。
「今日で最後だったね、頑張ってな」
「……はい、ありがとうございます」
チクリと胸が痛んだ。でも大丈夫。これは私が選んだ道だから。
覚悟を決め、重い足で廊下を進む。
だが、その角で──よりによって、今この瞬間、もっとも遭遇したくない人物と出くわしてしまった。
東雲綾乃。
その卓越した美貌とそれに見合う演技力。そして、何度も私の心をへし折ってきた嫌な人。
「……東雲先輩。お疲れ様です」
心臓の音を悟られないよう、視線を伏せて、腕を組み壁に寄りかかる彼女の脇を通り過ぎようとした。
けれど。
「待ちなさい」
艷やかで、それでいて、有無を言わせぬ響きが、背中に突き刺さる。
恐る恐る振り返ると、そこには見たことのない鬼気迫る東雲先輩の姿。
彼女はさらりと、長い黒髪を背中に流しながら、ゆっくりとこちらに近づく。
「──橙華さん。貴方、一体どういつもりか、説明なさい」
低く、冷たい声。
「どう、って……その、私はただ」
「ただ、何かしら?」
その切れ長の瞳に、困惑と──、こちらのすべてを見透かしたような鋭い光が宿る。
「貴方、何考えて」
もう、無理。
「ご、ごめんなさいっ!」
「ぇ……、ちょ、ちょっと待ち……!」
背後から呼び止めを振り切り、私は無我夢中で駆け出した。
私──、
《《佐伯比呂》》は、最後の収録に挑みま……、
(──ひ、ひぃいいいいっ! 待て待て待て! 東雲、なんで追いかけてくるんだよ! 来るなって、こっちに来るなぁあああっ!)




