推しのアイドル声優と結婚したい、が目標です。
──あれから、声優、東雲綾乃は、数名のスタッフによって何処ぞに連行されていった。ちなみに被害者である僕は特にお咎めなしだ。
彼女も今回の作品でネームドキャラを演じているわけだが、この暴力沙汰で降板もあり得るかもな、とか思いつつ、ゆったりと長椅子にもたれかかっていると、不意に正面から誰かに声を掛けられる。
「いや〜、神坂君、今回はごめんね。何度もリテイク出しちゃってさー」
顔を上げると、目の前に四十代ぐらいのオジさんが僕を見ながら微笑んでいた……えっ、監督? まさかの麦野剛総監督のお出ましだ。
「お、お疲れ様です!」
慌てて立ち上がり頭を下げる。腰が九十度、いや、百二十度を超えた限界突破での平伏……じゃなくてお辞儀だ。
「いやいや、そんなにかしこまらなくてもいいからさ、まぁ気楽にしてよ。とりあえずは今回の収録お疲れさん。これからも頼むよ〜、仮にもスポンサーを押し切って君を推薦したのは俺なんだし、これでも立場というものがあるからさ」
「え? 監督が自分を……で、でも流石にこの〝格好〟はいかがなものかと──」
「まぁ……あれだ。あまり深く考えるな」
そう言って監督は僕の肩を軽く叩く。
「監督ぅ、それってセクハラですよ〜」
遠くから女性スタッフさんの声がした。
「あ〜、失敬失敬! それじゃ次の収録も頑張れよ」
「あ、待ってください、話はまだ──」
言葉の途中で麦野監督は、早々とこの場から立ち去ってしまう。
その後、周りが誰も居なくなった廊下でポツンとひとり取り残された僕は、長い〝スカート〟の裾を翻し、そのままフラフラと男子トイレに向かった。
入口で男性スタッフさんがギョっとしてたけど、気にせず、すれ違いがてら一礼して中に入る。
手洗い場に立つと、鏡に映る若い〝女〟と思しき顔を見て混乱した。これだけは未だに慣れない。
(──つうか、一体誰だよ、コイツは……)
思わず、邪魔だった長い黒髪のウィッグを外し、天井を仰ぐ──。
◇
僕こと、神坂登輝は、声のお仕事、いわゆる声優に興味津々だった。
それこそ、ただ単純に声優が好きな声オタだけでは留まらず、いつしか己自身が本気で声優という職業に就きたくなってしまう程に。
きっかけは幼少期から夢中になって観ていたアニメだった。何のひねりもないありふれた理由。
でも、それはある意味建前で、真の動機はさらに単純明快だ……というか、不順極まりないと思う。
推しの女性アイドル声優と結婚がしたい。
ただそれだけ。そんなアイドル声優好きの誰も彼もが、一度は夢見るであろう願望を本気で叶えるべく、僕は声優という職業を本気で目指した。
は、笑いたければ笑えばいい。でもよくよく考えてみてくれ。
付き合うにしろ結婚をするにしろ、まず最初の一歩として、一番大事なことは何だと思う? 答えは明白である。
それは、出会い──。
仮にも己が容姿端麗、学歴優秀のイケメンであったとしても、まず目的とする相手と出会わなければ何も始まらない。
ましてや自分ごとき陰キャは、その機会すらままならない。声優イベントで推しを遠くから眺めるのが精々だ。それも苦労して勝ち取ったチケット争奪戦の末に。
これこそが現実。
世の中の摂理。
だから僕はこう考えた。
──自分も推しと同じ〝声優〟になればいいんじゃね? と。
僕が頑張って声優になりさえすれば、ごく自然の流れで推しの女性アイドル声優たちと出会える。後は普通に仲良くなれるだろ、何しろ同じ職場仲間なんだし……そしていつかは、推しの誰かと職場結婚を──。
バカである。
こんな浅はかな思考に至ったのは、かれこれ高三の春。長い人生において最も大事な時期であった。
やはり笑われて当然である。
こうして僕は高校を卒業と同時に上京。
元々良い大学に行けるような頭脳を持ち合わせてなかったのと、五歳上の姉が東京に就職していたので、僕は姉を頼りにアルバイトをしながら声優養成所に通うことに……人生良きに計らえ、かな。
紆余曲折を経て、何とか無事に養成所を卒業出来た僕は、奇跡的にも『ノエル声優プロダクション』という、弱小ながらも声優専門の事務所に所属することが出来た。
そう──声優、神坂登輝が誕生した瞬間だ。
ちなみに芸名ではなく本名を名乗っている。
だってさ、推しの声優さんに自分の名前を覚えて欲しいじゃん。
そして、今に至る──。