決意の初収録。①
──あれやこれやと日数はトントン拍子で流れ、いよいよ『ヴァルキリーレコード』の初収録当日。
僕は何度も繰り返し練習した付箋や赤文字だらけの台本を再度入念にチェックし、アパートの部屋をぐるぐる徘徊したりと、朝から準備を怠らない。
「……、慎也、貴方を愛している。だからお願い……私の傍にいて、永遠に──」
自分が演じることになる八城雛月──『ヴァルキリーレコード』のメインヒロイン。
もう何度目か分からない彼女の台詞を反復して、ふと思った。
(──いや、これって、本当に地声のままでお芝居、してもいいんだよな?)
多かれ少なかれ演じる声に抑揚をつけたりキャラの喜怒哀楽をオーバーにしたりするのはOKだが、基本となる地声のキーを無理に上げたり下げたりするのは一切NGとのこと。それが演者に対して製作側の要望だったりする。
つまり。
下手に女声を作らず、普段と変わらない〝男〟の地声のままで〝女〟を演じろ──
ってことだ。
流石にそれは無理があるような……。
──それから刻一刻と時間が経過し、丁度お昼を過ぎた頃。
「そろそろ行く準備でもするか……」と、重い腰を上げたときだ。
ピンポーン、とドアのチャイムが鳴り、続けて「神坂君、いる?」と、柏木マネージャーの声。本日はアフレコ初日ということで、彼がスタジオに送迎してくれるらしい、とのこと。
でもちょっと早くない? と思いつつもドアを開ける。
「やあ、神坂君、お疲れ様」
白い歯とメガネをキラリと光らす柏木さん。
「やっほー」
んで、何故か例のスタイリスト、相葉実乃梨さんが、そんな彼の背中からひょっこり顔を出す。
「ハァ……」
そして僕は、マリアナ海溝よりも深いため息を吐く。
◇
──その後、柏木さんの運転で都内の某スタジオに向かった。その間、ワゴン車に揺られながら今後の人生について黄昏れる僕。まるでこれから悪徳貴族の下に身売りする薄幸な少女の心境ともいう。
「そんなに緊張しないでください。たかが深夜アニメのアフレコです。普段通りでいけばいいですから」
ハンドルを握りながら、後部座席で座る僕に向かってミラー越しに微笑む柏木さん。あれで僕の緊張を和らげているつもりだろうけど、そもそも普段通りでいられるわけがない。
「…………」
結局僕はダンマリを貫き通す。どうせ何を言っても無駄だと分かってるから。もうこうなったら腹を括るしかないだろ。台本の最終チェックでもするか。
──と、半ばヤケクソになって身売りの覚悟はしたものの、いざスタジオに到着してみれば、今更ながら緊張やら羞恥心やらで、いっそこのまま現場から逃げ出したくなった。
「か、柏木さん……やっぱり僕は──」
「何を怖気づいてるのです? いや本当に綺麗ですよ。神坂君」
「うっ……」
咄嗟に逃走経路を確保するべく、視線をウロウロ泳がせていると、遠くから見知った人物が歩いてきた。
東雲だった。
僕は蛇に睨まれた小動物みたいにその場で硬直してしまう。しかも何かと目ざとい東雲は、早々と僕のことを捕捉したようで、ズカズカと早足でこちらに向かってくる。
ヤバい。
ちなみに今の僕の装いはというと、メイクはバッチリ、服装に至ってはスカートこそ長めだけど、今度はガーリー系っていうのかな? いかにもオタク(自分も含む)受けしそうなファッション……つうか、これは東雲的に駄目なやつだ。
(……は、早くここから逃げなきゃ──)
「東雲さん。お疲れ様です」
極めて迅速に逃走を企てた僕の右手をガッチリと掴んだ柏木さんが、そのままあろう事か、鬼のような形相の東雲に向けて呑気に手なんか振ってた。
「柏木マネージャーこそお疲れ様です。大変ですわね。そんな下賎な女、いえ、オカマ野郎のマネージメントをしているのですから……ねぇ、貴女もそう思いませんこと、〝橙華〟さん」
そう言って東雲は、イケメンスマイルを浮かべる柏木さんには一切目もくれず、鋭い眼光で僕を睨みつけてくる。
「いやー、相変わらず東雲さんは手厳しいですね」
「ふふふ……柏木マネージャーこそ、私なんて足元にも及びませんわ」
「あはは」
「ふふふ」
「…………(僕)」
今回初収録となるアフレコは、それこそ始まる前から、もう嫌な予感しかしない──。