東雲綾乃、正統派ヒロインになる。③【vs相合傘】
「──う、うぇぷ……」
「ねえ、大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
「あ、ああ、だだ、大丈夫──」
九月に入ってもなお、ネオンが灯された街並みに執拗なまでの残暑が居座っていた。
あの、SNS映えするオシャレなレストランで起きた喜劇……いや悲劇。外観的にも内臓的にも傷ついた身体を癒すべく、静寂を求め辿り着いた先は、街灯が頼りなく周囲を照らす寂れた哀愁の漂う公園のベンチ。
ひりつく頬に張られた謎生物柄の絆創膏を撫でていく夜風だけが、今はひんやりと心地よい。
さっきまでの喧騒(ドタバタ劇)が嘘のようだ。
「……ふふっ」
隣で彼女が小さく笑う。
視線を向けると、そこには僕の精神と肉体、さらには内臓にも容赦ないダメージを刻み込んだパワハラ令嬢の影はどこにもない。街灯の光に透ける肌は、淡く発光しているかのように白い。可憐で儚げな美少女……と呼ぶには歳とかその他諸々、多少の語弊があるが、今の彼女は、間違いなく東雲綾乃という名の劇薬ヒロイン……いや「メインヒロイン」だった。
その慈愛に満ちた聖女の微笑みは、僕のカニ爪によって裂かれた頬と、今にも爆散しそうな胃袋を優しく癒していく。
「……登輝くん、今日のデート、私といて、楽しかった?」
「え? あ、いや……まあ、その──」
図星を突かれたような気がして、思わず視線を逸らしてしまう。東雲、いや綾乃は今にも壊れてしまいそうなほど柔らかく、繊細な身体を傾けて、そっと寄り添ってきた。シトラスミントの香りが怪しげに夜の空気を彩る。
「楽しかった……かも」
「……そう、良かった」
二人だけで見る星屑の欠片もない漆黒の夜空はとても綺麗で、綾乃は冷たい手のひらを僕のズボンの上にそっと乗せ。
「……私、私ね、ずっと夢見てたの。普通に登輝くんと普通に美味しいご飯を食べて、普通に公園でこうやってお話して、それから……」
そこで言葉を切り、薄い胸元に両手を捧げて恥ずかしげに僕の顔を見つめた。
「綾乃……」
その時、彼女の純粋な瞳が……といっても薄暗くてよく見えないが、それでも胸の辺りがキュン……じゃなくて胃がキュッと痛みを感じ。
「登輝、くん……」
その、潤いを含んだ瑞々しい唇が、僕の口元にゆっくりと近づいた、その瞬間。
──ドスッ
「…………へ?」
その衝撃は、遅れてやってきた。
下腹部を鈍器で叩かれたような、熱いのか冷たいのかも分からない鈍い感触。
信じられない思いで視線を落とす。そこには腹に深く吸い込まれた見覚えがあるナイフの柄が。
(もしかして、刺さって……る?)
じわり、と布地を透かして温かいものが広がっていく。
街灯の細い光を反射して、黒い液体が、僕のズボンを、ベンチを塗り潰していく。
ゴボゴボ、不気味な音を立てて、地面に滑り落ちて行った。
「……うっぐ、うっ、くぐぐぅっ…………」
それを見て僕は、喉から込み上げてくる吐き気に耐えながら、目の前の彼女、東雲綾乃を見上げた。
「──うっ、あ、綾乃……な、なんで……」
綾乃は、血の気が引いていく僕の顔をまるで虫けらをみるような視線で見つめ、ゆっくりと舌先で閉じていた唇をなぞった。
そして。
──ざまあみろ……。
暗闇の夜空を突き破るような、耳をつんざく高笑いが弾けた。
「…………ふ、ふフふ……きゃは、きゃっははハハハはハハハははははははハハハはははははははっ!」
目を見開き、狂気で歪んだ顔で腹を抱え、涙を流さんばかりに僕を嘲笑う。
「ふ、ふふ、くくく……おかしくて笑っちゃうわ! ねえ、どんな気分かしら? まさか本当にキスしてもらえると思ったのかしら? まさに、最高の『ざまあみろ』ね……くく、ふふ、あははははは!」
そんな聖女の仮面を剥ぎ取ったかのような彼女の変貌ぶりを薄目で見ながら僕は、深淵の闇へと意識が沈んだ。
「──って、東雲、お前いい加減にしろ! 一昔前のPCゲー(通称ギャルゲ)のバッドエンドかよ、てか、今本気で心臓が止まるかと思ったわ」
「ふふ、おかしいわ、貴方のタコ唇が……くくく」
「う、うるせえ、てか、そのおもちゃのナイフ悪趣味が過ぎるぞ、マジで質感ヤバいわ」
「そう? 確かにこの鋭利な銀色の光沢……とてもゴム製とは思えないわね、心血を注いで作り上げた甲斐があったわ。ふふふ……」
「そんなもんに心血を注ぐな……お、おい、こっちに向けんのはマジでやめろって」
完全に目がイっちゃてる今の東雲が持つと、冗談抜きで笑えない。今すぐヤバい女認定で警察に通報したい位だ。
「つうか、せっかく買ったコーラが全部こぼれただろうが、弁償しろよ」
「いいわよ、その代わり、今すぐ私を讃えなさい。『僕の大根演技より、東雲先輩の演技の方が格上でした。調子に乗ってすみませんでした』ってさあ、今すぐひざまずきなさい、さあ!」
こいつは、まだ終末アオハルの件を根に持ってやがる。それでこの手の込んだ罠まで仕掛けてくるとは……性格が歪みすぎだろ。
結局、いつも通りの東雲に戻り、散々ああだこうだと揉めているうちに、そこから追い打ちをかけるようにポツポツと雨が落ちてきた。僕はため息混じりにバッグを探り、折りたたみ傘の柄を伸ばした。
すると東雲は、珍しくコホンと咳払い。くるりと背中を見せて、
「こ、今度は、貴方が大好きな妹キャラを演じてみようかしら」
「い、妹キャラ? 突然何言ってん……いや、お前は一生悪役令嬢ムーブだけしてればいいんだよ、お、おい人の話を聞け、か、勝手に入ってくんな! 腕を組むな、鬱陶しい、ぬ、濡れるだろ!」
「ささやかなお詫びよ……か、感謝なさい」
こうして、ああだこうだ押し問答しながらも、空気を読まない雨の匂いに、いち早く秋の訪れを感じた。
右腕には東雲の細い腕。
一本の傘を奪い合うように、僕らはネオンが滲む駅前へと歩き出す。
「……ねえ、お兄ちゃん、大好き」
「やかましいわ!」
(くそっ、もう絶対騙されない……からな──)




