逆鱗
「あ、兄上……? おかしいまだ一週間しか経っていない……いやそもそもどうやって鍵を……」
狼狽気味にぶつぶつと呟くシラーとは裏腹に、アスターの態度は毅然としたものだった。
ゆっくりと前進し、床に転がっているシベリカ公の横で止まる。
一方でルナリアは素直に彼の目覚めを喜び表情を明るくした。
「アスター! 良かった目が覚めたんだね——」
きっと宮廷魔法師達が解呪薬を完成させたに違いない、そう憶測を立てながら彼に抱きつこうとしたのだが……。
駆け寄る足がピタリと止まる。
仮面越しに見える彼の瞳を目の当たりにして。
シベリカ公に向ける双眸は汚物を見るかのよう。
普段の彼からは決して出てこないだろう、ひどく冷たい眼差し。
国王の件、そして普段の様子を踏まえて、アスターは優しく思いやりのある人間に育ったのだなと思っていた。しかし今の彼にはそういったものが一切感じられない。
まるで別人のようだ。
さすがに自分を殺そうとした相手に対してまで親身になれないだろうと飲み込もうとしたが、よくよく考えてみればアスターはまだシベリカ公の所業を知らないはずである。
ただ、これだけなら考え過ぎだとそこまで気に留めなかっただろう。
しかし実際はもっと明確な変化が彼の身に生じていたのだ。
公爵を見下ろす冷淡な瞳、それは見慣れた蜂蜜色ではなく——。
血のような赤だった。
「アスター……?」
一瞬誰かがなりすましているのかと思ったが、右の目元の祝福の印がそうではないと物語っている。
印を付けた本人ならば真贋の判別など容易い。
目の前の人物がアスター本人だと証明されてしまったことで、ますますこの二つの変化の異常性が浮き彫りになる。
混乱するルナリア。それをよそに、アスターは手に持っていた布袋をゴトンと床に置いた。
「これで薬を」
短く素っ気ない言葉。それだけを告げると、なんと前触れもなく後ろに倒れてしまった。
「アスター!」
頭を強打したことを心配して急いで近付く。
「アスター大丈夫——……あれ?」
起こそうとしたところ、聞こえてきたのは微かな寝息。
「寝てる……」
「え?」
こちらの呟きにシラーが小さく反応を示す。
仮面を取って確認してみたところ、両の目は固く閉ざされていた。
——もしかして、さっきのやりとりの間もずっと寝ていたの……?
次いで瞼を開いて瞳の色を確認する。
馴染み深い金色だ。
——気のせいだったのかな……。
そんなはずはと思いながらも一旦保留にして仮面を元に戻す。
続いてアスターが持ってきた袋の中身を確認することにした。
入っていた物は小さい袋二つと木箱。まず始めに木箱を手に取る。
「こ、これは——っ!」
中にあったのは生物の肝。その色、大きさ、形が以前本で読んだ内容とあまりにも酷似していたため、思わず声を上げてしまった。
それはシラーにも以前話した、万能解呪薬に使われる希少な素材——。
「間違いない、カースインバリッドの肝だっ!」
「えぇ⁉︎」
今度は先程よりも大きな反応を見せるシラー。
「な、なんで……どうやってそれを」
「——まさか棲竜の谷に?」
「い、いやいやありえませんって‼︎ ここからだと馬車でも五日はかかるんですよ⁉︎ 仮に行けたとしても寝ている状態で大型の魔物と戦うなんてそんな……」
シラーが不可能だと語る最中、バタバタと複数の足音が。
ドアは開きっぱなしのため誰が来たのかは一目で分かる。
数名の兵士とセレン、そしてマルグリン公だ。
「妖精殿! アスター殿下がこちらにって……——⁉︎」
倒れている三人と、うずくまっている一人。やってきた者全員がそれらを目にしてギョッとした表情になった。
「アスター殿下‼︎」
マルグリン公がこちらに駆けつけ、アスターを挟んで向かいにしゃがみ込む。
「一体何があったんだ?」
「えっと……」
「説明は私が」
何から話せばいいのかと悩んでいると、シラーが名乗り出てくれた。
どこか残念そうな、諦観した笑みを見せて。
「ルナリアさんはその間解呪薬を作ってくださいますか?」
「は、はいっ!」
素直に頷き、木箱と布袋を机に置く。
小袋の一つを開けてみると、カースインバリッドの肝以外の解呪薬の材料が全て揃っていた。すぐにでも製作出来る状態だ。
ただこちらに材料が集まっているのなら、もう一つの小袋には何が入っているのだろうか。気になったので開けてみる。
——粘土だ。
何故アスターはこれを持ってきたのか、理由は分からないがとりあえず袋に戻し端に置いた。
「う……うーん……?」
「あ、マリーさん。気が付きましたか?」
大体一時間が経過した頃。材料を鍋で煮て液体状にしたものを器によそって冷めるのを待っていると、マリーが意識を取り戻した。
「あれ、私生きて……?」
「はい、もう大丈夫ですからね。どこか痛いところはありませんか?」
「いえ……特には」
言いながら彼女は上体を起こして辺りを見回す。
やはり気になるのか、シラーの話を聞いている集団がいるところで視線が止まった。
「なんということだ、まさか本当にシベリカ公がアスター殿下の殺害を企てていたとは……。それに王妃殿下まで……」
事の経緯を聞き終えたようだ。マルグリン公が険しい顔をしている。
彼らを一瞥した後に、器の中の解呪薬をスプーンで掬って口に運ぶ。
十二分に冷めている。これならアスターに与えても問題ない。
ルナリアは器を手に再びアスターのそばに行き、僅かに開けた彼の口の中にゆっくりと薬を流し込んだ。
「これで少ししたら目を覚ますはずです」
こちらを窺う面々に伝えると、全員が安堵の表情を浮かべた。
「いやはやこれで一安心ですね。……さて残す問題は——」
緩んだ空気がセレンの一言でまた元の張り詰めた状態に戻る。
全員の視線がシベリカ公に集まっていた。
「とりあえず牢屋にでも——」
マルグリン公が言いかけたところで、低い唸り声。
「あ、起きた」
セレンが兵士を引き連れてシベリカ公に近付く。
「うぅ……? な、なんだお前達は⁉︎」
目覚めたら兵士に取り囲まれているという状況に大変驚いているようだ。
「ダリアス・シベリカ公爵、貴方を王族殺害未遂の容疑で拘束します」
セレンの言葉に続いて兵士達が動き出す。
「や、やめろっ。私に触るな!」
兵士の手を払いのけ逃げようとするもあっけなく取り押さえられてしまう。
「あああ! 違う違うっ、私は何もしていない‼︎」
それでも尚暴れ続けるシベリカ公。弱体化の魔法をかけたいが兵士達にも当たってしまうおそれがあるため、ルナリアはマリーとマルグリン公、シラーと一緒にただ傍観することしか出来ない。
「すごい暴れてる……」
「公爵様にとっては突然の出来事ですからねぇ。王族殺しで捕まれば死罪は免れませんし」
ヒソヒソ声で話すマリーの言う通り、シベリカ公はこの状況にかなり錯乱しているようだった。
「……ちゃんと有罪になりますよね?」
現状彼の罪を示すものが自分達の証言くらいしかないことに不安を覚えたので、マルグリン公に尋ねてみる。
「どうだろうな……。物的証拠が出なければ最悪……」
——明確な証拠がないから、見つけることが出来なかったから……。
「シラー様も同じことを言っていました」
「……そうか」
マルグリン公は短い反応を返すとゆっくりと目を伏せた。
ふとシラーの方を見てみると、喚き暴れる自身の伯父に対し無言のまま冷たい視線を送っている。
「ああ……ああ……それもこれもあいつのせいだ。あいつさえいなければ……」
大人しくなったかと思えばアスターに向けて恨み言をのたまうシベリカ公。彼の態度に、情報過多でおざなりになっていた怒りがここにきてふつふつと沸き始めた。
「あいつが戻ってこなければ……せっかく厄介払い出来たと思ったのに……!」
——……え?
怨言に交じってとんでもない発言が聞こえた気がして、ルナリアの思考が止まる。
「今なんて……?」
シラーも同じことを思ったのか、いつもより低い声で聞き返してきた。
「まさか……貴方だったのですか? アスター殿下を森に捨てたのは」
「違う! 私は殺せと——」
セレンの問いかけに勢いよく答えた直後、シベリカ公はしまったといったふうに顔を青くしていく。
場の空気も彼の表情のように凍りついていた。
「——ああそうか、貴殿が……」
マルグリン公が怒りと嘲りが交じったような顔でシベリカ公を見下ろす。
「良かった。これで手間が省けます、色々と」
セレンもまた意地の悪い笑みを浮かべて、再びシベリカ公に質問を投げかけてきた。
「誰に殿下の殺害を命じたのですか?」
「誰でもいいだろそんなもの‼︎ 私はただ陛下の御心を重んじたまで——」
「一時のご乱心を貴様の私利私欲のための口実にするな‼︎」
彼の開き直った物言いにマルグリン公が一喝する。
「う、うるさい! 何が第一王子だ、何が妖精の愛し子だ! あんな悍ましい姿、きっと悪魔の生まれ変わりだ! いつか絶対この国に災いをもたらす‼︎」
「貴様どこまで殿下を……っ!」
今にも飛びかかりそうな形相でわなわなと全身を震わせるマルグリン公。それでも尚シベリカ公は喋り続ける。
「殺すべきだっ、殺すべきなんだ‼︎ あんな男生まれてこなければ——」
罵声の最中、ブーンという異音が鳴り響いた。
それはルナリアの背面、小刻みに震える彼女の羽から。
蜂の羽音に似た耳障りな音を出す彼女に、周囲の視線が一斉に集まる。
一方当の本人の銀目は愛し子を罵り続ける男のもとへ。
刃のような鋭さでシベリカ公を睨みつけている。
「ル……」
マルグリン公が呼びかけるよりも先に異変が起きた。
シベリカ公の足元の床から茨が生えて、彼の脚に絡みついてきたのだ。
彼を取り押さえていた兵士達が小さな悲鳴を上げて離れていく。
ルナリアの両隣にいたマリーとマルグリン公も彼女から距離を取り始めた。その表情は恐怖一色に染まっていたが、ルナリアはそれに気付いていない。
今はただ、目の前の男を八つ裂きにしたい気持ちでいっぱいだった。
両腕にも茨を巻き付ける。そして仰向けの状態になっているシベリカ公の四肢を思い切り引っ張った。
「ああああ‼︎」
鼓膜を振動させるほどの絶叫に耳が痛くなるが茨を停止することはせず、逆に更に力を加える。
ゴキンとどこかは分からないが関節が外れる音がした。
このままではシベリカ公はルナリアの手により命を落とすだろう。
しかし周りの人間は皆目の前で起きている光景に戦慄するばかり。
今の彼女を止められる者はいない。
誰もがそう思っていたのだが——。
「ルナリア‼︎」
突如ルナリアは背後から何者かに両腕を掴まれたかと思えば、急激に全身の力が抜け出した。
「え……あれっ?」
身体が脱力したことにより魔法が行使出来なくなり、シベリカ公を拘束していた茨が消滅する。
予想だにしなかった事態に混乱する中、自身を制止した人物が誰であるかは理解出来た。
その声を聞くのは実に一週間ぶり。
「アスター殿下……」
マルグリン公による答え合わせが済んだところでようやく気付く。
周囲の自分を見る目、アスターに弱体化の魔法をかけられたこと。
そして、彼が非常に焦っていることに。
「誰か状況の説明を」
乱れた息を整えて尋ねるアスター。周囲は近くにいるものと顔を見合わせた後に、全員シラーの方を見た。
だがシラーはこちらから目を逸らし無言のまま。一向に答える気配を見せない。
最終的には見かねたマルグリン公が名乗り出たことで話が進んだ。
シラーの手により眠らされていたこと、シベリカ公の悪行、過去の毒殺未遂にシラーの母親が関わっていたこと——。それら全ての説明が終わり十数分後。
「——なるほど……。概ね理解した」
納得を示すアスターだったがやはり困惑しているのだろう、その後の言葉がなかなか出てこない。
彼は今何を考えているのか、こちらがやろうとしたことをどう思っているのか。
それらを知りたいが依然として身体は動かず、またアスターに腕を掴まれた状態のままなのでどうすることも出来ない。
「……とりあえずは皆一旦ここから出よう」
そのように提案する彼にルナリアは抱き上げられる。
前触れのない行動に思わず「わっ」と小さく声が漏れた。
「お前達はシラーを自室に、マリーは念の為医者に診てもらえ」
兵士二人とマリーに指示を出した後、アスターの視線はシベリカ公へ。
茨の棘のせいで両手足はズタズタ。そんな彼をじっと見つめる。
仮面から覗く金の瞳からは先程の冷淡さはなく、むしろ憐れんでいるようにも感じた。
「——牢へ」
けれども瞳の温度とは裏腹に、残りの兵士に命じた言葉は冷静で淡白。
それが彼自身の意思なのか、王子としての発言なのか。どちらにせよ所業に相応しい待遇を選んでくれたことに安堵した。
一通り指示を出した後、アスターはルナリアを抱えたままドアの方へ。
「シラー」
工房を出る間際、自身の弟に声をかける。
「後でよく話し合おう」
「……」
シラーは俯いたまま何も言わない。
そんな彼の態度に深入りすることはせずにアスターは部屋を出る。
動けないルナリアも彼に連れられるかたちで、地上へと移動していった。