シラー・シベリカの糸車〜昏睡〜
夜になった。
恩人と弟の食事に同席した後、自室に戻り寝巻きに着替えたアスターは一人ベッドの上で横になっていた。
寝る前ということで仮面は外している。ただまだ就寝する気にはなれない。
ごろりと寝返りを打つと壁にある剣掛けに収納された聖剣と目が合った。
途端、ドクンと心臓が跳ねる。
——またか……。
最近よく脈拍が乱れるのだ。激しい運動をした後でもなければ、感情を大きく揺さぶられるような事が起こったわけでもない。今のような何もしていないときに、ふと。
再び仰向けになり胸に手を当てる。
未だ早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために深い呼吸を繰り返す。
動悸も無事に収まりこのまま眠りに就けるかと思ったが、何も入っていない胃袋の主張が強まり失敗に終わる。
眠れず、何をする気も起きず、夜明けはまだ遠い。
そんな空虚な時間をやり過ごすために選んだ暇潰しは、ベッド近くの棚の上に置かれたぬいぐるみを手に取り弄ることだった。
接ぎ合わせた布にボタンの瞳——いかにも手製な熊のぬいぐるみである。
物心ついた頃から持っているこれは、痣から聞いた話では幼い自分のためにルナリアが作った物らしい。
右目元の祝福の印以外の、妖精と出会った証。
恩人からの贈り物。
だからこうして今も大事に所持している。
『寝ないのか?』
「腹が減って眠れないんだ」
アスターの言葉を肯定するようにグゥーと腹が鳴った。
腹の上にぬいぐるみを置きぐたりと脱力する。
夕食を食べないようにというルナリアの言葉に従ったのだが、予想以上にきつい。
「何か気を紛らわせることは……」
『ままごとでもするか?』
「何を藪から棒に……」
『たまには童心に返ってみてはということだ』
「やらない」
『ああ——お前はどちらかというと粘土遊びの方が好きだったな。そっちならどうだ?』
「手が汚れる。だいいち、ここに粘土なんて——」
コンコンとドアを叩く音がした。
中身のない会話を中断して、誰だと尋ねる。
「兄上、私です」
「シラーか……。少し待ってろ」
ぬいぐるみを棚の上に戻し、代わりにその隣に置かれた仮面を手に取って身に着ける。
「どうした?」
ドアを開けて用件を尋ねる。
弟は無言のまま、ヴァイオリンケースをこちらに見せてにこりと微笑んだのだった。
「夜分遅くにすみません。どうしても新曲を聴いてほしくて」
「いや、いいんだ。丁度寝付けなかったから」
「それなら良かった」
会話を交えながら廊下を歩くシラーとアスター。
向かう先は地下工房。シラーが十歳の誕生日に作られた、彼専用の魔法の研究室である。
シラーはよく自作の曲を作ってはそこに招いて披露してくれる。
地下ということもあって地上の物音は届かず、その逆も然り。現在のような真夜中に楽器を弾いても誰の迷惑にもならない。
外界から遮断された空間で自分のためだけに行われる演奏は格別で、特別で——。アスターはその時間をとても好いていた。
——そういえば……。
不意に昼間の出来事を思い出す。
遅れてやってきた庭園で、ルナリアが弟に王になりたいかと問うていた。
彼が答える前に二人が自分の存在に気付いたため聞けずじまいだ。
「……なぁ、シラー」
呼びかけると前を歩く弟は足を止め振り返る。
知りたい、彼の本心が。
心の奥底では抱いていた。突然現れた腹違いの兄など邪魔だと思っているのではないかと。
アスターが城に戻る前は王位継承者はシラーただ一人。だから国を統べるに相応しい人間になるようにと、幼い頃から厳しく育てられてきたはずだ。
それが自分が来たことで変わった。
余程の事がない限り、次期国王は長男であるアスターだ。
シラーからしてみればそれまでの努力が無駄になってしまったわけで——。
「お前は——」
弟の本心が知りたい。
しかし自分が尋ねたところで正直に話してくれるだろうか。
その可能性は限りなく低い。
仮に王位を継ぎたいと思っていたとしても、争いの種になるような発言を容易にする人間ではない。
「……いや、なんでもない」
だから聞くのをやめた。彼を困らせてしまうだけだ。
「——? そうですか」
不思議そうにしながらも再び前を向き歩き出すシラー。アスターはその後に続く。
何気なく見上げた窓の外、夜空に浮かぶ半月には雲が重なっていて、今のアスターの心情を表しているようだった。
長い長い階段を下りて、地下工房のドアの前へと辿り着いた。
シラーが鍵を開けた後、どうぞと入室を促してきたので中に入る。
大きな机の上には様々な実験器具が並べられ、三方の壁には窯やクローゼット、キャビネットなどが設置されたいつも通りの部屋だ。
「今回はどんな曲なんだ?」
近くにある椅子に腰を下ろし、仮面を机の上に置いてシラーに尋ねる。
「ある童話から着想を得て作った曲です」
ヴァイオリンケースの蓋を開きながら弟は答えた。
「どんなお話か、予想してみてくださいね」
ヴァイオリンと弓を手に取ると、こちらの正面まで移動して一礼する。
「それではお聴きください、シラー・シベリカの糸車」
優美な音色が室内に響く。
教会で流れる讃美歌のような神聖さを感じさせる曲調だ。ゆったりとしたメロディを聴いていると、空腹を忘れるほどに心が落ち着いていく。
タイトルから察するに元となる童話はあれだろうなと推察するが、それよりも曲名にシラー自身の名前——しかも母方の姓が入っているのが気になった。
何か意味があるのだろうか——。
などと考えていた頭が突如、ぐらりと揺れる。
襲ってきたのは強烈な眠気。
——くそ、こんなときに……。
つい先程まで待ち望んでいた睡魔が、今はとても煩わしい。
弟が演奏をしている最中に眠るわけにはいかない。
なんとか堪えようとするが、瞼はどんどん重くなっていく。
「兄上? どうされました?」
こちらの異変に気付いた彼が心配そうに尋ねてきた。
「悪い……なんだか急に眠く……」
「きっとお疲れなのでしょう、最近色々なことがありましたから。そのままお眠りになって構いませんよ。後ほど部屋まで運びますので」
シラーは気分を害するどころかこちらを気遣ってくれる。
——本当に、自分にはもったいないくらい出来た弟だ。
「そう……か、ならお言葉に甘えて……。すまない……面倒をかける……な」
情けないと思いながらも限界であった。
ガタンと倒れる椅子。
身体が床に叩きつけられる。
全身に痛みが走るが、それも気にならないほどにとても眠い。
「おやすみなさい兄上。————良い夢を」
薄れゆく意識の中、ヴァイオリンの音色に交じって、そんな言葉が聞こえた気がした。
◇
演奏を止め、ヴァイオリンを机の上に置き、床で死んだように眠る兄を見下ろす。
しゃがんで寝巻きのボタンを外し胸元を確認すると、そこには青い花の印が刻まれていた。
——成功だ。
思わず口元が歪む。
机上の仮面をアスターに被せると、シラーは彼を両腕で抱えて地下工房を後にした。
「おや、シラー殿下」
兄の部屋に行く途中、フレディと出くわした。
「また廊下で寝ていらしたのですか、アスター殿下は」
「ええ」
こちらが兄を横抱きで運んでいる状況に相手は一切の疑問も抱いていない。
それもそのはず、アスターが夢遊病を患っている事は城の関係者には周知されており、またそんな兄をこうしてシラーが寝室に連れ戻す光景もエルダリス城では日常のワンシーンに過ぎないのだ。
「後は私が……」
「いえ、私も丁度部屋に戻るところですので、このままお任せください」
「左様でございますか。では、おやすみなさいませシラー殿下」
「おやすみなさい」
いつものやりとりを終え、再び足を動かす。
道中他の使用人や兵士と遭遇したが、誰も兄に起きた異変に気付かない。
騒ぎが起きるのはきっと日が昇ってから。
窓の外、夜空に浮かぶ下弦の月は、雲に覆われて完全に見えなくなっていた。