お守り(2章 了)
「——別に父上のことは嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもないんだ」
「うん」
優しく相槌を打ちながら彼に耳を傾ける。
「城に戻った際に謝罪も受けたし、今更蒸し返すつもりもない」
「うん」
「ただ……あの人を前にすると上手く喋れなくて……歌えなくて。昔歌の練習中に父上が来て、目の前で歌ってくれと頼まれた事があるんだが、さっきまでちゃんと歌えていたのに急に声が出なくなって……」
苦手意識からくる緊張だろう。本人は友好な関係を築きたいと思っていても、過去の仕打ちから身体が無意識に拒絶反応を起こしているのかもしれない。
そして歌えなかったという失敗経験がトラウマとなり、その傾向により拍車がかかったようだ。
「事務的なやりとりなら問題ないのだが……自然な会話というのがどうしても……。時間が解決してくれると思っていたが、この歳になってもなんの進展もなく……」
「アスター自身はお父様と仲良くなりたいと思ってるんだね?」
「ああ」
「そっか……、分かった。じゃあアスター、片手出して」
「え?」
本人の意思を確認したところで、ここに乗せるようにとルナリアは自身の両手を彼の前に出す。
唐突な指示に困惑していたアスターだったが、おずおずと左手を乗せてくれた。
それを両手でぎゅっと包み込むと、魔力を手に集中させる。
ポゥと淡い光を放つこと数秒。光が徐々に収まった後にそっと手を離すと、アスターの左の人差し指には紫の花で作られた指輪が嵌められていた。
「これは……?」
「お守り。これを身に着けていれば上手くお話し出来るようになるし、歌も歌えるようになるよ」
一見するとなんの変哲もない花の指輪。それをまじまじと見つめるアスター。その後、ルナリアに顔を向ける。
仮面の下の金目は少し不安げだ。そんな彼に笑いかける。
「大丈夫、アスターならきっと出来るよ」
「——そうだな……。なんとなく大丈夫な気がしてきた。ありがとうルナリア、今からちょっと父のもとへ行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
「ご武運を」
自分に出来ることはここまでだ。
シラーとともに彼を見送る。
ふうと一息吐いて紅茶を飲むと、不意にシラーがふふふと含みのある笑みを零してきた。
どうしたのかと思っていると、右の拳を机の上まで伸ばし、ポンと開いた手の平から花を出現させる。
先程ルナリアが出したものと同じ紫の花だ。
「あれ、本当はただの花でしょう? 特別な効果なんてものはない、魔法を覚えたての子供でも出来る初級魔法です」
青の瞳を愉快そうに細める。次から次へと、色とりどりの花を出しては、はらはらと机の上に落としていった。
それに呼応するように、ルナリアも花を出現させていく。
「さすがに子供騙しが過ぎたでしょうか? きっとアスターも気付いていますよね?」
「さあ? どうでしょう。そこは本人に聞いてみないことには。ですが——」
言いながらシラーは机に積まれた花を一つ手に取る。その花も紫であったが、指輪にしたものとは異なる四花弁。
自身と同じ名を持つ花だった。
「貴女に勇気づけられたから、兄も行動を起こす気になったのでしょう。だから、効果の有無は関係ありませんよ」
「——……そっか」
手渡された花をじっと見つめながらぽつりと呟く。
「そうだと嬉しいな」
自分が彼をかけがえのない存在だと思っているように、彼にとっても自分という存在が特別なものであるのなら。
こんなちっぽけな自分でも、彼の力になれるのなら——。
それはこの上ない喜びだ。
「……昔大妖精様にね、同じことをしてもらったのですよ」
銀の瞳がふわりと細まる。
茎をくるくると弄びながら、脳裏に懐かしき記憶を思い起こしていた。
◇
『言っておくけどな、その花にはなんの効果もないぞ』
仮面の中で声が響く。
「……なんとなくそんな気はしていた」
近くに誰もいないことを確認して、アスターは反応を返した。
出来れば事が終わった後に言ってほしかったというのが本音。
「それでも……」
左手を少し上げ、人差し指に嵌められた花の指輪に視線を落とす。
「俺なら出来ると、彼女が言ってくれたから——」
『ならさっさと歩けこのノロマ! そんな亀みたいにチンタラしてたら日が暮れるぞっ!』
痣が揶揄するようにアスターの歩く速度は非常にゆっくりで、その上歩幅も狭い。
鉛のように足が重かった。意気込んで飛び出してはみたものの、いざ実践しようとした途端にこの有様だ。
『だいいち、今更いいだろ無理して仲良くしようとしなくとも。仕事に支障は出ていないんだから。これでまた失敗したら恥の上塗りだぞ?』
「…………」
痣の言い分も一理あると思ってしまう。
正直に言ってしまえば、現状の関係性のままでも困ることは何もない。必要最低限のコミュニケーションは取れているのだから。
だがしかし、それだけではあまりにも寂しい。
せっかく本来の居場所に戻ってこられたのに。
せっかく父は自分を受け入れてくれたのに。
こんな余所余所しいままではあまりにも悲しいではないか。
もちろん上手くいかずに更に関係が悪化するリスクもあるが、自ら動かないことには何も変わらない。
——アスターならきっと出来るよ。
ルナリアの言葉を心の中で反芻する。
歩行速度が少しだけ早くなった。
そうして父の寝室の前へと辿り着く。
ノックをするために掲げた手が止まる。
心臓が痛いほどに脈打っている。
それでもなんとか落ち着かせて、ドアを叩いた。
「おやアスター殿下、如何なされましたか?」
執事のフレディがドアを開き、用件を尋ねてくる。
「いや、特にこれといった用はないんだがその……父上と話がしたくて……」
そう伝えると誰が見ても分かるほどに歓喜しだした。
「おおっ、それは良い事でございますね! ささどうぞ中へ、私は外で待機しておりますので、ごゆっくりご歓談ください」
「え、ちょっと待——」
入れ替わるように出ていってしまったフレディ。最悪行き詰まったら彼を頼ろうと思っていただけにかなりの痛手。
しかしここまで来て引き下がるわけにもいかず、父が待つベッドの側へと近付く。
「ごきげんよう父上。——お加減はいかがでしょうか?」
「……変わりない」
「左様ですか」
僅かな沈黙。それだけでも精神にダメージが入る。
「——話したのですね。俺が生まれた日のこと」
「ああ、すまない。言うなと言われていたのに」
「いえ……」
無言の時間を作りたくなくて、咄嗟にルナリアに真実を打ち明けたことについて言及したが悪手だったと直後に気付く。これでは責めていると思われても致し方ない。
再び室内に気まずい沈黙が流れる。何か喋らなければ、けれど頭の中は真っ白だ。
やはり自分には無理なのかと頭を掻く。自身への不甲斐なさと、自分を信じて送り出してくれた恩人と弟に対する申し訳なさで年甲斐もなく泣きそうになった。
「……アスター」
そんな中、唐突に父に名前を呼ばれた。
否、彼の視線はこちらから見て左上。頭に置かれた左手の人差し指にある花の指輪に反応したのだと即座に気付く。
父の言う通り、ルナリアが指輪として渡してきた花は紫苑。
「これですか? ルナリアからの頂き物です」
見やすいように手を動かす。父はそうかと、懐かしげに目を細めた。
「母さんの髪の色だ。お前にも受け継がれている」
「そういえば……そうでしたね」
母は出産後すぐにこの世を去ったため、当然アスターは会った事はないが、以前肖像画を拝見したので容姿は分かっている。
母親似の紫髪に、父親似の金の瞳——。両親の特徴がしっかり自分に備わっていると知ったときはとても嬉しい気持ちになった。
「……アスター」
父が真っ直ぐこちらを見る。今度は確実に自分を呼んだのだと理解した。
「顔を見せてくれないか?」
ドクンと心臓が跳ねる。動揺を悟られぬよう無言のまま、留め具に手をかけた。
ゆっくりと仮面を下げ、醜悪な人面瘡を晒す。
父の表情が一瞬悲痛なものになる。
彼にとってこの痣は自身が犯した罪の象徴。
これから先も、死ぬまで彼は後悔の念に苛まれ続けるのだろうか。
そんな事は望んでいない。
「父上」
だから、少しでも罪悪感が和らぐように。
荒波の中の心に平穏が訪れるように。
「歌を、一曲聴いていただきたく」
父の金目が大きく見開く。
深呼吸をしてバクバクと鳴る心臓を落ち着かせる。
そして肺に空気を取り入れて、歌声へと変換させた。
少し震えているが、ちゃんと声が出ている。その事実に驚愕と喜びを持ちつつも歌唱を続行する。
震えは徐々に収まっていき、いつもの調子に。
優しい歌声が室内に響く。
歌に聴き入る父の目は潤んでいた。
そうして気付けば最後の歌詞に入り、段々と声量を落として見事歌いきった。
達成感に思わず顔を綻ばせる。すると父もつられるように笑んでくれた。
ゆっくりとした拍手が返される。
「今日は人生で最高の日だ」
贈られた言葉が響いていく。
優しく、胸の奥深くへと。
「それではそろそろ失礼します。お大事に、父上」
「ああ。……また来てくれ」
「——はい、必ず」
仮面を着けて部屋を出る。
すぐそばの廊下では、フレディが涙ぐんでいた。
「ようございましたね、アスター様」
「ああ……、今まで心配かけたな」
ハンカチで涙を拭う執事にそう返し、その場を後にする。
ひとまずは上手くいったと伝えなければ。恩人のいる庭園へと歩を進める。
その足取りは、とても軽いものだった。
庭園に戻ると、シラーは先程自分が座っていた席の隣で紅茶を飲んでおり、ルナリアはその向かいの席で花冠を作っていた。
「あっ、おかえりなさい! どうだった?」
早速成果を問われたので胸を張って答える。
「お陰様でちゃんと話せたし、歌も披露出来た」
「ほんと⁉︎ 良かったねアスター!」
「おめでとうございます兄上!」
自分のことのように喜んでくれる二人に照れ臭さを覚えつつも、素直にありがとうと口にする。
ルナリアが立ち上がり花冠を持った両手をこちらに向けて羽を振るわせる。彼女の足が僅かに地面から離れたが、すぐに元の場所に。
まだ羽が完治しきっていないことを失念していたようだ。
花冠をこちらに被せたかったようなので屈むと、ポンと頭に乗せてくれた。
「あのね、シラー様から聞いたんだ、アスターすごく歌が上手だって。だからもし良かったら……私にも聴かせてくれない?」
両手を後ろに回して窺い気味に尋ねてくるルナリアに、お安い御用と快諾してシラーに視線を送る。
意図を汲んだ弟は椅子から離れると机に置いたヴァイオリンを手に取り構えた。
「曲はどうしましょう?」
「——英雄讃歌にするか」
「いいですねっ! では——」
弦の振動が華麗な音色を紡いでいく。
英雄達の——恩人が愛する人達に敬意と感謝を込めて——。
伸びやかな美声が花々彩る庭園に広がっていく。
鳥のように。
鐘のように。
こんなにも楽しい気分になったのはいつぶりだろうか。
途中、うっとりとした表情のルナリアと目が合う。
途端、心臓がドクンと跳ねた。
けれど先程とは違い、そこに不安な気持ちも緊張もない。
あるのはなんとも言えない高揚感のみ。
それの意味に気付くのは、もう少し先の話——。
2章 了