20
どれだけ泥の中でもがいて、あがいて、生きてきたか。この仄暗い路地の中は、地獄だ。
すでに倒れている人から着ているものすら奪い合う。
ゴミを漁り、魚の骨すらしゃぶりつき。
子供の叫び声なく、人売りは狩りをする。
そんな中を、母と生きてきた。
新品の服を着る母。
ボロ布をまとった私。
温かいスープを飲む母。
雨水をすする私。
『ルナ、もう少しのしんぼうよ。もう少しで、公爵様が私達をお迎えに来てくださるわ』
記憶が蘇り、頭を抑える。嫌なことばかり、近頃は思い出す。公爵邸でムチ打たれる日々より、余裕ができてしまったせいだろうか。
私は久しく入った路地裏に、恐怖を感じていた。
「おいおいおい、見ろよこの女」
「今にもチビリそうなぐらい、ガクガク膝が震えてるぜ」
光の世界を知ってしまった今、もう二度と闇になど関わりたくない。
悪魔と呼ばれた手を、平然と触れてくれる者の温かさを知っている。
『君に寄り添いたい』
あの人はいつも、私の直ぐ側にいる。人の嘲笑の渦の中で、彼だけは私を信じてくれる。
自らの心臓を与えた過去に、悪魔だと言う人々に。
彼だけは私の代わりに怒りを表してくれる。
あの優しさは私の光。魔物を攻撃するほうが彼も傷を負わずに済んだだろうに。誰かを守るために彼は、己の翼が傷つくことをいとわない。
勇猛果敢な闘志に燃えた、黒い瞳はいつも私を真っ直ぐとらえる。
「やめてっ……」
「いまさら、抵抗しても遅いんだって」
「股を開いて媚を売れば、まあ生かしてやらんこともないがな」
「「ガハハハ!」」
二人の男たちの声が汚く響く。
路地に入り込む生白い風が首筋を撫でた。恐怖で足がすくむ。昔の私は、どうやってこの暗い道を進んできたのだろうか。
私はあのカラスに光を見せられた。そのせいで、この暗さに酷く怯えている。
「俺の番に手を出すな」
その時、私から気持ち悪い感情が一気に抜けていく。低い声が上からふりかかったかと思えば、大きい手が私の肩を抱いた。
「や、野郎っ」
「大丈夫か、ルナ」
震える私を彼は翼をもって抱いてくれる。
「だ、だ……大丈夫よっ」
ニコニコ笑い、話しかける。
恩返しなんてされたくない。彼は私のために、自分の身すら差し出そうとしてしまうから。平気だと、答えたはずなのに冷たい殺気が立ち込める。
「お前ら、何をした。俺の番に何を」
「チっ。ズラかるぞ!」
「クソ公爵!」
男二人が路地の奥へと進んでいく。尻尾を巻いていくその姿に、私はまだ怯えていた。
ジャックは患者だ。まだ病院にいなければならないはずなのに、なぜこんなところにいるのか。
「なぜあなたがこんなところに」
「それはこっちのセリフだ。君はなんて危ないことをしている」
「わ、私は、ただ湿布を買いに来ただけよ」
「はぁ。ここは繁華街だから危ないということを知らないのか」
「し、知ってるわ、そんなこと」
泥を生きてきたから。人が多ければ多いほど、闇も深く犯罪も多いことは身を以て経験している。
彼は私に怒るだろうか。
『ルナ!いい加減にしなさい!』
母が怒鳴る声が薄ら聞こえる。彼女はいつも、私が外に出て何かをするたびに怒っていた。
この力を人売りに売られたら、彼女の公爵と添い遂げる希望はなくなる。だから彼女は私を閉じ込めた。仕事のときだけ、私に力を使わせた歩かせた。
「ごめんなさいっ…」
震える手で、腕を抱く。
「ごめんなさいっ………ごめんなさいっ」
失望されたくない。
彼だけは唯一、私を悪魔としてではなく一人の人として見てくれる。その温かさをもう、失いたくないから。
「もう謝るな」
「ごめんなさ」
「君の無事がわかってよかった」
彼はギュッと私を抱き寄せる。頭をなでて、包み込み、力強く。
背中にまで回り込む太い腕と大きな翼が、震えた声も恐怖も振り払ってしまう。
「君が傷つけられたら、俺の気がどうにかなりそうなんだ。また怖いところを見せてしまったな。君を怖がらせたくないのに」
温かい。
鼻をくすぐるジャックの優しい匂いに、落ち着いて腰が抜けてしまう。それすら抱きしめて、彼は支えてくれた。
「それに、あんなふうに笑ってほしくない」
「不細工だったかしら」
「違う。俺は君が人を癒やすときに見せる、優しい笑顔が好きなんだ。だから、もう二度と、あんな顔で笑ってほしくない」
彼は私の知らないところを知っているようだった。
利用され続けたせいで、私は人に対してどれほど向き合えているのか自分でもわからなくなっていた。
作業的に花を枯らし、傷を移すこと。力の扱いにはもうずいぶんと慣れているから。
作り笑えているだろうか。
相手に不安を与えないような顔ができているだろうか。そんな不安さえも近頃はあったものの、よく私を見ている彼は言ってくれた。
人を癒やすときに見せているのは、優しい笑顔だと。
「っ………」
「ジャック?」
「いや、大丈夫だ。少し最近、貧血気味らしくてな」
彼は頭を抑えて、首を振ってなんとか意識を保つ。
「あなたこそ、そうやって誤魔化さないで。もう倒れられるのは、ごめんなのよ」
私は自然と彼の手を握った。
そこでふと、思い出す。悪魔の手だと言われた自分のこと。
「!」
「君から繋いで来たんだ。そのまま病院に連れて行ってくれるだろう?」
ジャックは私の手を強く掴み、離さない。これはあくまでも、彼に助けられた恩返し。
そう思わなければならないほど、私の顔は熱くなり、彼と繋いだ手は汗ばんでいた。




