58話 いじめられてみた(一)
十月二日、金曜日。
午前六時、空き家で一人淋しく起床した恵子。
洗面所に向かうと、冷水で顔と髪の毛を洗った。
髪の毛は、お湯ではなく水で。そしてシャンプーではなくボディーソープで洗う。
これがここ三か月間で会得した、息子の髪質をより良く再現する方法であった。
髪を乾かすと裸になり、男用のトランクスを履く。
胸にはさらしを巻き付け、男物の白いインナーを身に付けると、キッチンへと向かう。
「あーぁ……あたしの美巨乳、やっぱり隠さなきゃダメ?」
「しょうがないでしょ。恵介が美巨乳の持ち主だったら、男共が群がっちゃうよ」
「股間は? 何か入れなくていいの?」
「制服大きめだから、ふくらみを持たせるにはかなりの大物を作らないとダメだわ」
Kと独り言を交わしながら、弁当づくりを始める恵子。
「今日はのり弁だっけ?」
「そう、ザ・のり弁。絶対にどこかで一度は目にしたことあるやつ」
「あたしは、もやしフルコースのほうが面白いと思うけどな」
「うん、それは早くて来週ね。ほら、半年間の引きこもり明けのやつが、いきなりもやしフルコース弁当広げたら、ねぇ? ちょっと慣らしてからにしようね」
高校生活が長引くことも想定し、他にも『くの一弁当』『リアルな猫のキャラ弁』など十種類くらいの弁当を考えていた。
だが、企画名が『面白い弁当作ってみた』に変わりそうなので、できるだけ早くいじめられたい。
弁当を作り終えると、二階の一番奥の部屋へと入る。
この部屋には家具を一切置いていなかった。
フローリングの上には一台のパソコンと、黒縁の眼鏡、そしてリアルな猫の被り物が置かれている。
パソコンを開くと、自宅にいる夫と動画での通話を開始した。
簡単な会話を交わしながら、クローゼットを開けて息子の制服に着替える。
制服の上下、黒縁の伊達眼鏡を身に付けると、仕込んでおいた超小型カメラを起動させ、映像と音声確認を始めた。
「あたしたちの一斉一代の芝居、しかと目に焼き付けろ!」
Kの啖呵で音声を確認した夫は、
「音声も映像もバッチリ」
と、手でオッケーサインを出したが、
「ね、あたしの啖呵はどうだった?」
というKの質問はいつもどおりスルーするのであった。
上着に取り付けたカメラ三台は、上着の内ポケットに仕込んだ外付けバッテリーに接続しているため、十二時間は稼働できる。
一方で、眼鏡のカメラは内蔵バッテリーのみのため、一度取り替える必要があった。
念のため複数個用意しておき、昼休みにどこかで交換する予定だ。
カメラ全ての映像と音声を確認し終えると、最後に恵子の外見チェックを行う。
黒縁眼鏡、不織布の白いマスク、引きこもり明けヘアーにより、ほぼ恵介の顔が出来上がっていた。
少し大きめの制服も、そこに美巨乳があることを感じさせない。
準備を終えると、計画どおり八時一分に家を出る。
「今更だけど、あたしがニュー恵介を装って超絶人気者になって、いじめっこ共を見返す――なんて計画も良かったと思わない?」
「うーん……いろいろ制限あるから、いくらあんたでも難しいんじゃない? ほら、美巨乳も使えないし」
独り女子トークをしながら歩いていると、腕時計が八時十七分を指し、アラームが鳴った。
周りに人気が無いことを確認すると、一息ついたKが、
「はい、ケッチャンです。『いじめられてみた』の本編動画を撮影中です」
と、いつもの軽壊トークを始めた。
学校に近づくと、周りに人が現れ始める。
ここからは、動画の画面上でコメントを表示する予定のため、一言断りを入れると、Kが最も苦手とする『沈黙』を始めた。
予定どおりの時刻。学校に到着すると、一直線に下駄箱へと向かう。
下駄箱、そして教室の配置は事前に調査済みだった。
息子の不登校について担任に相談するため、四月に一度、夫と二人で学校を訪れていた。
そのときにカメラをつけて校内を歩き回っていたのである。
八時二十八分。
教室の前に到着すると、すぐあとにやって来た担任と一緒に中へと入る。
昨日、夫から担任に連絡をしていたので、息子が登校することはクラスのみんなにも知れ渡っていたはずだ。
だが、入り方をもうちょっと考えるべきだったか――クラスメイトの視線を一気に浴びてしまった。
もしも、Kに『喋る許可』を出していたら、ここで一発かましていたに違いない。
「どーもー! 引きこもりの森から無事帰還しました。とみた、け・い・す・け、でーす! イエーイ!」
なんて……さすがに無いか。あとでKに確認してみよう。
その後、担任から教えられた席に着くと、その後は特に何も無く、ただただ沈黙に耐える時間が過ぎていった。
ていうか、先生。せめて誰か一人くらいに、『話しかけてあげてくれ』とかの根回しは無かったの? というくらい、誰からも話しかけられなかったのであった。
何も起こらないまま昼休みになる。
ザ・のり弁を食べ終わり教室を見回すと、ここで、初めていじめっこ三人と目が合った。
相変わらず、ニコニコではなくニヤニヤ笑いをする三人を確認。気まずい様子を表現し、読書に耽る作戦を開始した。
ここでは、誰かに『何読んでるの?』と聞かれたときのため、『引きこもり明けに教室で読む本』というタイトルを選んでいた。
――というか、こんな本よくあったな、と今でも思う。
何も起こらないまま放課後を迎えた。
帰る支度をしながら、目を向けずにいじめっこ達の様子を伺ってみる。
どうやら三人仲良くこちらを見ているようだった。
もしかしたら話しかけてくるか? とも思ったが、他の生徒がいるためか、近づいてこない。
あきらめて、ゆっくりと下駄箱へと向かう。
やはり一日ではうまくいかないか。
本気で落胆しながら靴を取り出したその瞬間――視界の端に人影を捉えたのだった。




