56話 準備期間(七)
五月二十三日、土曜日。
午前十時、仁井田からの報告メールを受信した。
メールによると、氷山第二中学校の学区内では、現在進行形で『引きこもり、不登校』の生徒は三人いることが判明したという。
そのうち、いじめが原因と思われるものは、一人だけであった。
生徒の名前は二瓶結斗、十三歳、氷山二中の二年生。
不登校歴は二週間。一人っ子で、両親は共働き。
その両親、父親の正美は六十八歳、母親の芳子が六十二歳と、かなりの高年齢という印象を受けた。
午前十一時。
恵子は夫と共に、二瓶家を訪問してみた。
玄関先で、まずは押し売りとか、宗教の勧誘ではないことを説明する。
次に、自分の家にも引きこもりの長男がいる、という話を切り出してみた。
すると、対応してくれた、おそらく父親の正美は、笑顔で中に通してくれたのだった。
「引きこもりの原因はわかっているんですか?」
さっそく夫が質問すると、正美は少し困った顔をして答えた。
「先月、参観日に出席したんですが……わたしたち両親がおじいちゃんおばあちゃんだと思われたらしく、クラスメートにからかわれたようなんです。
優し過ぎるんでしょうね。わたしたちが原因なのに、『悪いのは僕だ』って、いつもにっこり笑って気遣ってくれる」
「くっそつまらねぇクラスメートだな。でも、思ったより軽い話だし、大丈夫でしょ。あたしに任せて!」
Kが暴言と宣言を吐き捨てるのを聞くと「息子さんに会うことできます?」と訪ねてみる。
「二階の奥の部屋です。戸口で息子に確認してみてください。別に、部屋から出ないとか、話さないというわけではないので」
恵子は夫に『任せて』と目配せをすると、二階へと上がる。
手には、手土産と思わせつつ渡していない何やらA4サイズの手提げ袋を持っていた。
二階の一番奥、閉じたその部屋の戸をノックすると、Kが口を開く。
「三十秒後に入るから。もし変なことしてたり、いろいろ隠すのに時間かかるなら言って」
Kの言葉への応答は無いが、中からゴソゴソという音が聞こえた。
三十秒後、宣言どおり戸を開けると、中へと入る。
父親似で、優しそうな目をした少年が、今は恵子に怪訝な目を向けて立っていた。
少年を椅子に座らせると、恵子はベッドに腰かけた。
まずは、自分の息子がいじめを受けたこと、一か月以上引き籠っていることを伝える。
表情から猜疑心が消えたのを確認すると、話を続けた。
「ねぇ、これ見て」
手提げ袋からパソコンを取り出した恵子は、開いて画面を見せる。
画面にはリアルタイムで結斗の顔が映っている。
「え……これ、僕だよね? カメラで撮ってるの?」
「そう。そして、カメラはここ」
恵子は自分がかけている伊達眼鏡を指差した。
「この超小型のカメラ、データも飛ばせるの。すごいよね」
「すごいけど……えっと、それで、何ですか?」
「この眼鏡をかけて学校に行ってみた自分を想像してみて。前にからかってきた奴ら、何て言ってくると思う?」
「えっと……孫が眼鏡かけてるぞ。もう老化が始まったのか。ウケる! ――とかかな」
「いいね! 結斗、想像力あるじゃん。じゃあ、それには何て返したらいいと思う?」
「え? いや……うーん……何か言い返せるんだったら、不登校にもならない……よね?」
「そう? ――じゃあ、この眼鏡とパソコンあげる。あとは『返す言葉』が思い付いたら、学校行ってみようか。ねっ!」
「えっと……どういうことですか?」
「あぁ、あと、想定問答は一通りじゃなくて、もっと考えておいてね」
「だから、どういうことですか?」
「そうね、例えば……ゴキブリ退治。ちょうどいい例えだけど、気持ち悪いから、ここでは『ご機嫌なぶりっ子』を略してゴッキーってことにするね。
声を出して、対処するのが得意な人に頼むのが一番。業者とか親とか。人に頼めないなら、じゃあ、自分で退治することを考えようか。
物凄くでかい、黒光りしたゴッキーが出るかもしれない。小さいのをいっぱい引き連れて現れるかもしれない。もしかしたら飛ぶかもしれない。
でもね、頭から手足の先まで、全身を覆う防護服を着て、強力な殺虫スプレーを持って、あと、そうだね――部屋中のあらゆる隙間を粘着テープで塞いだら、どう?」
「それだったら怖くはない、かな」
「でしょ! 武器と防具を準備すること。そして、何より『怖くない』っていう余裕を持てるのが大事なの。
あんたが考える想定問答が、武器と防具だと思ってね。
言われそうな嫌な事、行動を考えられる限り想定して、それに対する答え、反応を準備すれば、余裕持てると思わない?」
「考えても、でも、実際に言えるかな……」
「実際に言えそうなことを考えるの。魔法使いが斧とか鎧を装備できないみたいに、ちゃんと自分を理解して、装備できるものを準備すること。
あと、装備は持ってるだけじゃダメ、ちゃんと装備してね。
いくら考えても、実際に言えそうなことが思い浮かばなかったら、そのときはカメラを付けようか。
――ゴッキーに戻るけど。声を出せない、退治する武器防具が見つからない、じゃあどうする?
ゴッキーがいるっていう事実を写真とか映像に残して、人に見せればいい。直接見せることを躊躇うなら、データを送るとか、目に見えるところに置くだけでもいいでしょ。
ちゃんとゴッキーが写ってて、ちゃんと退治できる人の目に止まれば、あとは何とかしてくれるはずだよ」
「うん……わかった。とりあえずは想定問答を考えてみる。
僕もね、学校に行ったらこういうこと言われそうだな、っていうのは想像するんだ。でも、言われたら嫌だなって、それだけで、その先のことは考えなかった。
何て答えるか、それを考えることができれば、もしかしたら学校に行けるかもしれない。今はそう思ってる。カメラとパソコンは、あるだけで心強いかも。
だから、おばさん、少しの間だけ貸してください。使うかはわからないけど、学校に行けたら返します」
「よし。その粋に免じて、おばさんと言ったことは責めないでやろう。次からはK子様、って呼んでね。
じゃ、下に行こうか。お父さんと一緒に考えるのもいいかもよ。何たって人生の先輩だから、ね!」
その後、一階で、恵子はとある話を切り出した。
「子猫を引き取ってもらえませんか?」
十月から、一家で半年間の世界旅行に行くことになった。
子猫を飼ったすぐ後に旅行が決まった。
名残惜しいけれど、子猫にとっても、預かってもらうより引き取ってもらう方が良いと思う。
そう伝えると、三人は満面の笑みで受け入れてくれたのだった。
子猫にとって、最高の飼い主で間違いないだろう。
これで、子猫の幸せは約束された。
めでたし、めでたし。
って――あれ?
協力者は? あと、空き家は?




