43話 四月十日(二)
……急に、目の前が明るく変わった。
リビングでソファに腰掛け、隣にいる息子と会話をしているようだ。
息子の顔には、何故か真っ黒い霧のようなものがかかっている。
いつもと変わらない、何気ない会話。
だが、何故だか、いつまでも続いてほしい――そう感じる時間が、しばらく続いた。
その黒い霧はゆっくりと、だが、顔から全身へと及んでいた。
「今日の夕飯なに? えっ、ハンバーグ?! やった!」
跳び跳ねる黒い霧を見ていると、今度は、だんだんとその霧は薄くなっていく。
薄くなるにつれて、息子が見えるかと思いきや――霧の中は空っぽのようだった。
「――僕はやっぱり、魔女が宅配したり便するやつが一番好きだな。お母さんは?」
「お母さんはやっぱり、ヤスダナルミ派……」
そんなどうでもいい、日常の会話を最後に、息子は――その霧は、姿を消した。
目を開けると、つい先ほどまで隣にいたはずの恵介の姿は無くなっていた。
目をこすると、目元が濡れているのに気が付く。どうやら、夢を見ながら泣いていたようだ。
つけっぱなしのテレビの時計は、午後九時十分を表示していた。どうやら二時間余り寝ていたらしい。
テレビには、殺人事件の舞台となるであろう場所に、楽しそうに向かう童顔の少年が映っていた。
眠る前のことを思い出すと、急ぎ足で二階へと向かう。からだの支配権は完全に戻っているようだった。
二階の真ん中の部屋。ドアは閉まっていた。
ドアを開けると、冷たい風が恵子の体に当たる。
入ってすぐ正面には息子の机。
その椅子には夫が座っており、息子のパソコンを開き何かを見ていた。
部屋の中央を見る。天井からぶら下がっていた息子の姿は見られない。
ベッドにはアルミのシートが置いてあり、中にある何かのせいで少し丸みを帯びている。
見覚えのあるアルミシートは、リビングのこたつの敷布団の下に敷いていたものであろう。
そして――おそらく、丸みを帯びているその中身が息子なのだろう。そう思った。
ベッドの脇、床の上に置いてあるのは半透明のごみ袋。中には恵介が身に付けていたと思われる衣服が詰め込まれていた。
夫は、恵子が寝ている間に息子を下ろし、服を脱がせて、そして床の掃除までしてくれたようだった。
警察には電話したのだろうか……そして、この寒さはなんなのか。
いろいろと気になることを夫に尋ねようと思ったその口は、またもや恵子(壊)に奪われた。
「ねぇ、恵介のあそこ……毛、生えてた?」
唯一自由のきく目は、夫の、結婚以来二度目となる表情を捉えていた。
今度は、少しだが哀れみが混じっているように感じた。
「……これ、見てくれ」
夫はこちらを見ずに、パソコンの画面を見るよう促した。
恵子(壊)は大人しくパソコンに近寄ると、画面に顔を向ける。
何やら動画プレイヤーが開かれており、夫は再生ボタンをクリックした。
すると、画面に恵介の顔が映し出された。
その顔は間違いなく自分の息子――のはずだが、その顔は白く、目は涙で腫れており、別な人間のようにも見える。
震えた口が開き、涙とともに、震えた声が溢れでた。
「っ……うっ……あっ…………
お、かあさん……おとう、さん……ごめ、ん……なさい…………
もう、な、何、も……考えたく、ない…………
産んでくれて……だ、大事に、育ててくれて、ありが、とう……...」
それは、恵介の悲痛な言葉。
悲痛な、感謝の言葉だった。
「十五歳で親への感謝の気持ち、か。おそらく、あたしがあの域に到達したのは二十代の後半……なんて、恐ろしい才能……!」
恵子(壊)が訳のわからない事を言っていると、画面の中の恵介が背を向ける。
部屋の中央に置かれた椅子へと歩むと、その椅子に裸足の足を置いた。
「みんな観てるからね、転ばないように気を付けて。仏の顔も三度まで、恵子の我慢もTAKE3まで!」
恵介は椅子の上に立つと、天井からぶら下がっているロープの先、輪っかになっているものを首にかけた。
「そのロープで大丈夫? ちょっと、細くない?」
椅子を蹴ると、ロープのかかった首だけで吊り下がった。
首とロープの間に指を入れようとするが、首に食い込んだロープには既にそんな隙間は無い。
「首をそんな引っ掻いたら痛いわよ……って、爪伸びてるんじゃない?! 爪はこまめに切らないと鬼の爪になるよって、いつも閻魔大王風に言ってたのに――もう!」
少しの間、足がバタバタと動き、やがてその動きが止む。手が垂れ下がり、足先も床に向かってまっすぐに下がった。
息子が――恵介が、天井からただ吊られたモノへと変わった瞬間だった。
「そんな格好でよく寝れるわね。ふふっ、永遠におやすみ」
果たして、恵子(壊)がいなければ、この映像を見続けることが出来ただろうか。理性を保っていただろうか――とはいえ、うるさい野次だと思ったのも事実だが。
恵子(壊)の台詞を聞き流すと、夫は動画を停止した。
同時に、からだの支配権が恵子へと戻る。
「これ……恵介が撮ってたの?」
「あぁ。このパソコンのカメラで撮っていたみたいだな。恵子と思われる女がいなくなってから、すぐに恵介を下ろして、片付けして――落ち着いて机の上を見たら、パソコンが撮影モードになってるのに気づいた」
恵子と思われる女、とは……さすがは夫だ。恵子(壊)の存在に気付いたらしい。
「この寒さは?」
「俺が部屋に入ったときから寒かった。エアコンの温度を見たら、最低に設定されていたんだ。もしかすると、自分が腐るのを少しでも遅らせようとしたんじゃないか」
「じゃあ、このアルミシートは保温、か。よく思い付いたわね」
寒さからか、恵子(壊)の影響か。
夫も自分も何やら感覚が麻痺しているらしい。動かない息子を前に、落ち着いて状況を確認していた。
「警察には連絡したの?」
「それなんだが……怒らないで聞いてくれると助かるんだが……」
「えっと……ぶっ壊れバージョンのほうが話しやすいなら、変わるけど?」
まだ切り替わる条件を把握していないが、一応聞いてみる。
「いや、これは恵子に聞いてほしい。まだ、はっきりした考えじゃなくて――こう、できればっていう願望なんだけど」
そう言うと、夫は語り始めた。
ひどく寒い部屋の中で夫が語ったのは、恵介の自殺の原因が、おそらくいじめであろうということ。
そして、三人で、そのいじめ加害者に制裁を加えたい、という思い。
まだ青い――でも、優しく、熱く、強い――思い。




