42話 四月十日(一)
四月十日、金曜日。
午後五時を過ぎた頃、夕飯の買い物を終えた恵子は、家路に着きながら物思いに耽っていた。
息子の恵介が高校に入学して、今日で三日目。
まだ学校で友達ができていないのだろうか――昨日の夜も浮かない顔をして、溜め息ばかりをついていた。
息子の性格は、どうやら真面目な父親に似てしまったのだろうと、事ある毎に思っている。
自分は、溜め息を吐く方ではなく、どちらかというと吸う方なのだから……と、こんな楽観的なことを考える私の性格に似れば良かったのに。
最後の角を曲がり、家までは残り約五十メートルの直線――そこで、自宅の出入り口から人影が出てくるのが見えた。
出てきたのは三人。息子と同じ制服を着ているから、クラスメイトに違いない。
『恵介、よくやった!』と、内心ニコニコしながら観察を始める。
三人はこちらに向かって、なんだか楽しそうに話をしながら歩いている。
その表情は、ニコニコというよりはニヤニヤに近いだろうか。
生まれつき、笑顔がニヤニヤなのだろう。可哀想だが、こればかりは仕方がない。世の中にはニヤニヤ好きだっているだろう。
三人は、恵子の存在を認識し、近づくなり静かになる。だが、すれ違うなりニヤニヤ喋りを始めたような雰囲気を感じる。
恵子は、すれ違い様に少年たちをチラ見していた。
みんな同じようなリュックを背負い、それぞれが両手に手提げ袋を持っていた。
今の高校生は荷物が多いんだな――それ以上は、ニヤニヤ笑い以外のあまり良い印象を持つことができず、クラスメイトへの関心は既に薄れていた。
玄関のドアノブに手をかけ引いてみると、施錠がされていないようだった。
友達を見送ったあと、鍵を閉め忘れたのだろう。
恵子はまずキッチンに向かい、食材を冷蔵庫に入れる。
そして、エプロンをつけながら二階に上がり、息子の部屋へと向かった。
二階の真ん中にある息子の部屋の前に立ち止まり、ノックをする。だが、反応は無かった。
以前、ノックしてすぐに入室して怒られたことがある。
きっと、パソコンでいかがわしいものでも観ていたのだろう。
『あらあら、まぁまぁ』と、にやけ面で反応して以降は、返事がない限り立ち入らないことに決めていた。
もう一度だけノックし、
「今夜は恵介の大好きなハンバーグだから、あと一時間くらいしたら下りてきてね」
とだけ伝えると、その場を去ろうとする。
すると――急に、こめかみのあたりに痛みを感じ、その場にうずくまった。
目を閉じると、ほんの少しの間だと思うが、意識が飛んでいたと感じる。
目を開けると、痛みは消えており、今度は何故だか寒気を感じた。
両肩を抱きながらキッチンへと戻ると、夕飯の支度を始め、点火したコンロで暖をとったのだった。
午後六時半過ぎ。
玄関方向から「ただいま」という声が聞こえる。どうやら夫の大介が帰宅したようだ。
夫はネクタイを外しながらキッチンに歩み寄る。
「良い匂いがするな……おっ、ハンバーグか。恵介も喜ぶんじゃないか?」
「是。そろそろできるから、着替えたら恵介呼んで、一緒に下りてきて」
二階へと向かう夫を目で送ると、ハンバーグの焼け具合を確認する。
良い感じに焼けたのをみると火を消し、棚から皿を三枚取り出すと、ハンバーグを載せた。
皿にボウルに入れていたレタス、トマト、ブロッコリーを添えていると、二階からはノックと、夫が息子を呼ぶ声が聞こえた。
ハンバーグを載せた皿を、リビングのテーブルに運んだところで、二階の様子が気になった。
ノックの音からしばらく経つが、まだ下りてこないのだ。
お腹を空かせてハンバーグをより美味しく食べようと、二人でツイストでも踊っているのだろうか……。
自分で思っておきながら、ツイストって何だっけ? と思いつつ、恵子は二階へと向かった。
真ん中の部屋、そのドアは開いていた。
そして、夫は入り口で腰掛け、口を開いたまま、中を見上げている。
もしかすると、ベッドの上で、恵介のソロパートが始まったのかもしれない。果たしてツイストにそんなものがあるかは知らないが。
入り口の、夫の後ろに立つ。
最初に感じたのは、部屋から漏れ出る冷たい風。
そして、まず目に付いたのは、部屋の真ん中に浮いている何か。
それはすぐに、息子――恵介だとわかった。
よく見ると、首にロープのようなものが巻き付き、それは天井へと伸びて固定されているようだった。
浮いているのではなく、吊り下がっているのだ。
首を吊っている、ということにすぐ気づく。
ピクリとも動かず、今まで見たことの無いほどに白くなったその顔は、見たことの無いほどの苦悶の表情を浮かべていた。
早く、下ろしてあげなくては……と思うが、体が動かない。
動くのは目だけで、それ以外の部分を動かす権利を誰かに奪われた――そんな感覚だった。
すると、自分ではない誰かが、自分の口を使って言葉を発した。
「ほら、恵介。天井からぶら下がってなんかいないで、早く降りてらっしゃい。あなたも、そんなところに腰かけてないで。
……なに? この角度だと、恵介のぶらさがる様子がよく見えるよ! ってこと?
もう……そんなのどうでもいいから、恵介と一緒に、すぐ下りてきてよね。ハンバーグ、冷めちゃうよ」
こいつは……こんな状況で、わたしの口を使って何を言っているのだ……?
唯一動かせる目で夫を見てみる。
案の定、『こいつは何を言っているんだ? ぶっ壊れやがった……』とでもいう顔。
結婚して十六年目。初めてみる顔である。
息子の首吊りを見たこの状況、恵子の中で何かが壊れ、新たな人格が現れたのであろうか。
恵子はその人物を、恵子(改)ならぬ、恵子(壊)と名付けた。
恵子(壊)は、踵を返すと階段を降り、一階リビングのソファに腰掛けた。
すると、テレビの電源を入れ、番組表を開く。
な、何をするつもりなの? と思っていると、午後九時のとある番組の視聴予約をしたのだ。
金曜の映画ショー……今夜は名探偵コナム。どうやら、恵子(壊)はこれを観たいらしい。
すると、からだの支配権が戻ったのを感じる。手足の自由がきくのだ。
すぐに立ち上がり二階に戻ろうとする――が、からだの自由とともに感情も戻ったらしい。
急に意識が遠退くのを感じる。
「ぶっ壊れた人格、か……大介、ごめんね。たぶん、これから迷惑かけ……るわ――」
視界が暗転した。




