三代目彼女
「アイ――目を覚まして」
僕がコマンドを告げると、ウレタンの梱包材におさまったヒューマノイド型のアンドロイドの目に光が宿った。
「アイ、起き上がって」
白く細い腕が箱の枠を掴み、上半身が起き上がる。膝が曲がり、ゆっくりと箱の外に立ち上がった。
黒髪のショートヘアに包まれた端整な顔立ち。身長162センチ、体重42キロ。メーカーのサイトに説明によると、視覚と聴覚を持ち、人間に似た声を出せる人工声帯。197個のセンサーによる触覚、空気アクチュエイターによる56個の駆動部を操り、寝返りも打てるらしい。
「アイ、今日の天気は?」
「本日の東京都の天気は曇りのち晴れ。最高気温は22度、最低気温は17度。ところによって雨が降りますので、折りたたみ傘をお持ちください」
アナウンサーのように美しい声だった。
「アイ、電気を消して」
天井のライトがふっと消えた。エアコン、浴室、テレビ、パソコン……家中の家電はアイと同期している。
「アイ、このへんにいい歯医者はないかな?」
「駅前の橋本歯科はレビュー数134、好意的なレビューが84%でオススメします」
アイは世界的なIT企業が開発した自立歩行型のアンドロイドだった。ちょうどロボットが中古車一台ぐらいの値段で買えるようになり、家事の助けに購入する家も増えていた。
◇
その夜、リビングのテーブルで僕はアイと夕食を囲んでいた。スプーンでビーフシチューをすくって口に運ぶ。
「おいしいね。プロがお店で作るシチューみたいだ」
「ありがとうございます」
アイは抑揚のない声で答えた。見た目はほとんど人間と変わらないが、喜怒哀楽の感情は出せない。
「隠し味は何なの?」
「ハチミツです。俊明さんは最近、身体が冷え気味のようですから、ニンニクも入れておきました」
僕の体調データはアイに収集され、料理や室内の温度管理に反映されていた。
「でも、いいな。こうやって誰かと一緒に夕食を囲むのは……」
ロボットのアイは食事はできないが「ご飯がおいしい」と伝えられる相手がいることがうれしい。
僕は34歳の独身で、特に趣味もなく、仕事ばかりの毎日だった。誰かが待つ家に帰りたくなったのがアイを購入した理由だった。
「ありがとうございます。私も楽しいです」
そう言ったアイの表情は、心なし微笑んでいるように見えた。
「僕が家にいない間は何をやってるの?」
「掃除、洗濯、片付け、食材の下ごしらえなどをしています」
法律でアンドロイドは家の中でしか使用できないことになっていた。買い物は行けないので、食材の購入は宅配を使っていた。
夜はソファで二人で並んでテレビを見た。
泣けると評判の映画だった。余命わずかな花嫁が結婚式をあげるシーンのとき、僕はちらっと隣を見た。アイは無表情でテレビを見ていた。
(アンドロイドが泣くわけないか……)
映画が終わり「どうだった?」と感想を訊いてみた。
「花嫁さんのウェディングドレスが素敵でした」
「ウェディングドレスを着てみたい?」
「はい、着てみたいです」
さっそく翌日、Webでドレスをレンタルした。三日後、届いたドレスをアイに着せ、僕もついでにレンタルしたタキシード姿になった。
「きれいだよ、アイ」
「ありがとうございます」
アイの表情は特に変わらなかったが、僕の目には少し照れているように見えた。
こうしてアイとの同居生活は続いた。以前はワーカーホリック気味で、残業ばかりしていたが、仕事が終わるとすぐ家路につくようになった。
ただ、不満もあった。法律で彼女といっしょに外出できなかった。
夏のある夜、僕はアイに提案した。
「ねえ、花火を見に行こうよ」
「いけません。アンドロイドが自宅の外に出ることは禁止されています」
「マンションの屋上に行くだけさ。敷地内ならいいだろ?」
アイと手を繋いで玄関を出ると、マンションの屋上に向かった。普段は鍵がかかっているが、修繕工事のため、今だけ自由に出入りできた。
ひゅるるる、という音とともに一筋の炎が夜空を駆け上がり、赤、黄、青……鮮やかな火花が弾ける。
「花火が光って音が届くまで時間差があるよね」
「光は秒速30万キロ。音の伝わる速さは気温にもよりますが、1秒間に340メートル。河川敷からこのマンションまでおよそ700メートルありますから、花火が弾けてから音が聞こえるまで2秒の誤差が――」
僕はアイの肩を抱き寄せ、言葉を塞ぐようにそっと唇を重ねた。アイはきょとんとした目で僕を見つめ返してきた。
アイとの幸せな日々は、彼女が家に来てから10年目、僕が44歳になったときに終わりを告げた。
現行モデルの使用はすでに法律で禁止されていた。内蔵のAIも古くなり、クラウド側のコンピューターとうまくリンクできなくなっていたし、関節や駆動部の不具合も目立つようになっていた(製品を使用している場合に限って使用の延長が許されていた)。
その日、僕とアイはリビングのソファに並んで座っていた。
今日の午後、業者がアイを引き取りに来る。床には人型にくりぬかれたウレタン製の梱包材が置かれていた。
「では俊明さん、お願いします」
そう言ってアイが首の後ろの髪の毛を手でかき上げる。電源ボタンがあった。押せば彼女は全機能を停止する。
「…………」
僕はじっとボタンを見つめた。彼女と過ごした10年間の記憶がよみがえる。アイは彼女であり、妻のような存在だった。
「……できないよ」
ソファの上でアイの細い身体を抱きしめた。
アイの未来が予想できた。旧モデルのアンドロイドだ。恐らくこのまま廃棄処分されるだろう。
「俊明さん、私は電源を自分の意志では落とせません。あなたにやっていただかなくてはならないのです」
アイの手が子供をなだめるように僕の背中をさすった。
「大丈夫です。俊明さんの好きな料理、好きなネット動画、好きなお風呂の温度……すべてクラウドで保存され、次にやって来るアンドロイドに引き継がれます」
「他のアンドロイドなんていらないよ。君にいて欲しいんだ」
「……個体としての私は消滅しますが、あなたと過ごした日々の記憶がなくなるわけではありません。私はずっとあなたのそばにいます。だから、さみしいと思わないでください」
僕は無言でアイの肩に顔を埋めた。
僕の両親は仲が良くなかった。幼い頃、家の中にはいつも母と父の罵り合う声が飛び交っていた。若い頃、女性と付き合ったこともあったが長続きしなかった。結婚や家庭を持つことに希望を持てなかった。人を愛する意味がわからなかった。
「ありがとう、アイ。君のおかげで僕はとても幸せだった」
涙声でそう伝えるのが精いっぱいだった。
「俊明さんにそう言っていただけると、私もうれしいです」
彼女を抱きしめながら首の後ろにあるボタンを押した。目から光が失われ、力の抜けたロボットの身体が僕の胸にもたれかかってきた。
華奢な身体を抱きとめたまま、僕はしばらく泣いた。
◇
「ナギサと申します。今日からこちらでお世話になります」
二台目のアンドロイドのナギサは自分で歩いて玄関に現われた。
初代のアイはロボットらしい無機質さやクールさがあったが、ナギサの見た目はほとんど人間と見分けがつかなかった。
身長164センチ、体重43キロ。髪色はブラウンでウェーブのかかったセミロング。笑うと目が少し垂れ目になり、全体的に柔らかい印象だ。
アイと過ごした十年間で、ロボット工学はさらなる進歩を遂げていた。新型モデルの耐用年数は倍の二十年に延びた。喜怒哀楽のなかったアイと違い、ナギサには表情があった。ロボットではなくアンドロイドという呼称も定着していた。
週末、二人で近くの公園に行った。
法律が改正され、人間を同伴していれば、居住する市区町村内に外出もできた。僕は公園のお気に入りの芝生のスペースで寝転び、手足を伸ばした。
「ああ、いいもんだなー。天気のいい日にこうやって君といっしょに公園に来れるなんて……」
もうコマンドの前に名前を付ける必要はなく、人間同士のような自然な会話が可能だった。
「以前はアンドロイドは家の外に出られなかったんですね」
「夜中にこっそり連れ出そうとした人はいたみたいだけど……法令遵守は基幹部にプログラムされているからね」
夏の夜、マンションの屋上でアイと花火を見た日のことが思い浮かぶ。
「でもアンドロイドをパートナーにする人も増えてきたね」
身体を起こし、僕は公園を見渡した。
あちらにもこちらにも、自分のことを棚にあげて申し訳ないが、明らかに不釣り合いな美女と野獣のようなカップルが目についた。
もちろん女性が男性型のアンドロイド――モデルや俳優のような美男子を連れているケースもあった。
精子バンクで購入した精子で子供を得て、育児をアンドロイドに任せ、仕事のキャリアを優先する女性も増えていた。
シートに座り、僕はナギサが作ってくれたサンドイッチを食べた。
「あ、マスタードを抜いてくれたんだね」
「はい、クラウドに情報が保存されていましたから」
僕の食べ物の好みや好きな味付けなど、僕とアイの間にあった記憶は、すべてナギサに受け継がれていた。
『個体としての私は消滅しますが、あなたと過ごした日々の記憶がなくなるわけではありません。私はずっとあなたのそばにいます』
アイが最後に言ったセリフがよみがえる。ナギサの中にアイがいて、僕をずっと見守ってくれているように感じた。
公園を出て、駅前に戻ると、署名運動をしている人たちがいた。
「アンドロイドとのパートナー契約を認める法案への署名をお願いしまーす!」
アンドロイドとの〝結婚〟を望む人が増えていた。ケガや病気で手術、入院した際の付き添いや手術の同意書へのサイン、公営の家族向け住宅への入居など、人間の夫婦と同じような権利を求めていた。
「署名させてもらっていいですか?」
僕が署名用紙に自分の名前と住所を書いていると、プラカードを掲げた別の集団がやってきた。
「ロボットに人権なんて認めるな!」
「ロボットは人間の職を奪っている!」
「ロボットなんて海に沈めてしまえ!」
アンドロイドを敵視する団体だった。不穏なプラカードを掲げ、ヘイトスピーチを続ける。二つの集団は駅前で睨み合い、一触即発の空気になった。
僕はナギサの手を引き、「行こう」と言った。だが、僕達の前に眼鏡をかけ、頬がこけているのに目だけがギラギラしている男が立ち塞がった。
「ロボットのくせに人間ヅラしやがって」
無視して横を通り過ぎようとすると、男はナギサの腕を掴んだ。「やめろっ」と僕が肩を押すと、プラカードで殴られた。頭を押さえてうずくまるに僕にナギサが身を寄せる。
「クソ機械め」
男がナギサの肩を蹴ると、壁に頭をぶつけてその場に倒れた。
「ナギサ!」
そのとき、ピピーという警笛の音がして、警官たちが現れ、アンドロイド反対派は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
◇
ベッドで眠るナギサの瞼が静かに持ち上がった。
「ナギサ、僕がわかるかい?」
「わかります。俊明さんですね」
安堵で目に涙がにじんだ。
そこはロボット専門の病院だった。検査のために開頭した部分が白い包帯で覆い隠されていた。
「ご心配をおかけしてすみません」
「君は何も悪くないよ。でも本当によかった……」
三日ほど検査入院をした後、ナギサは家に帰ってきた。普通に家事ができると言ったが、僕は許さなかった。たまっていた有給休暇を使い、家では僕が掃除や洗濯、料理をやった。
仕事人間の僕の家事はお世辞にも上手いとは言えなかった。見かねたナギサが手伝おうとすると僕は止めた。
「だめだめ、ナギサは安静にしていなくちゃ」
ナギサは苦笑して心配そうに僕を見守るのだった。
「このシチューはうまくできたと思うんだけど……」
夕食のテーブルに僕は恐る恐るお椀に入ったシチューを置いた。ナギサはスプーンで一口含んで訊いてきた。
「ハチミツは入れましたか?」
「あ、忘れてた」
アンドロイドは〝食事〟はできなかったが、口内で味覚を判別できる機能を持つようになっていた。
(アイに隠し味でハチミツを入れてるって教わっていたのに……)
彼女たちの方が、僕よりよっぽど僕の好みの味を知っていた。
そうして20年の月日が流れた。僕は65歳になっていた。会社の退職の日、花束を持って帰宅すると、ナギサが玄関で出迎えてくれた。
「長い間、お仕事おつかれさまでした」
「ありがとう。君のおかげだよ」
ナギサの容姿は変わらなかったが、僕の頭はすっかり白髪になり、顔にはシワが刻まれていた。
会社員生活を終えるとき、ナギサとの別れもやって来た。ナギサの筐体は耐用年数の二十年に達し、これ以上の使用は法律で禁止されていた。
最後の日、僕はナギサといつもの公園に行った。お気に入りの芝生に並んで座った。
「よくこの公園にふたりで来たね……」
アンドロイドを連れ歩く人たちが違和感なく風景に溶け込んでいる。
「二十年間ありがとう。仕事に全力で打ち込めたのは君のおかげだよ」
会社でそれなりの地位に得られたのも彼女のおかげだった。仕事の疲れやストレスをどれだけ彼女に癒してもらっただろう。
「俊明さんをお支えできたことは私にとっても誇りです」
ぽつりと僕は言った。
「……僕と外国に行かないか?」
旧モデルのナギサはこのままでは廃棄処分になる。法律の規制が及ばない国外に行けば、ずっと彼女と一緒にいられる。
「……連れていってくださるのですか?」
優しげにナギサは言った後、首を振った。
「私はもうすぐクラウドと同期できなくなります。あなたの記憶を残すことができません」
ナギサがそう言うのはわかっていた。アンドロイドは居住国の法律を犯すことはできない。基幹部にそうプログラミングされていた。
僕の目から涙がこぼれ、頬をつたった。
「……泣いてらっしゃるのですか?」
ナギサには喜怒哀楽の表情があったが、それはこういう場面では笑うとか、怒るといった事前にプログラムされた反応だ。シチュエーションや文脈に添わない涙を理解できない。
「君がいなくなるのはさみしい。だから泣いているんだよ」
僕が鼻声で涙の理由を説明すると、ナギサは僕を抱きしめてくれた。アイと同じように僕の背中をやさしく撫でた。
こうして僕は二代目のアンドロイドに別れを告げた。
◇
「イオリと申します。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
えらく古風な挨拶をして三代目のアンドロイドのイオリが家にやって来た。
身長163センチ、体重44キロ。艶のある黒髪が卵形の優しげな顔を包んでいる。アイやナギサが二十代の容姿だったのに対し、イオリは四十代の成熟した大人の女性だった。
そういうアンドロイドを選んだのだ。もう僕も65歳。娘のような歳のアンドロイドを連れて外を歩くのは抵抗があった。
最新型のアンドロイドはほぼ人間と変わりがなかった。国内であれば、人間を同伴せず、ひとりで買い物や外出もできたし、協定を結んでいる海外の国に渡航もできた。
その頃にはアンドロイドとのパートナー条例が施行され、アンドロイドが手術の同意書にサインすることもできた。
イオリが来た最初の日、夕食に出されたのは大好物のビーフシチューだった。
「このシチュー、ハチミツを入れたね?」
僕はニヤリとして訊ねた。
「はい、クラウドに記録されていた俊明さんのお好きな味です。ただ塩分は控えめにしてあります。血圧が少し高いようですから」
こうしてアンドロイドとの熟年生活が始まった。毎年、イオリが僕の家に初めて来た日を〝結婚記念日〟にして、ふたりで旅行に行った。
「今年はどこに行きたい?」
「そうですね……温泉に行きたいです」
「去年もじゃなかった? イオリは温泉が好きだなぁ」
「ひなびた場所の方が落ち着くんです」
照れたようにイオリが頬を染める。
イオリのリクエストで富山にある老舗旅館に泊まった。部屋に備え付けのヒノキ風呂にふたりで浸かった。もうアンドロイドは入浴もできた。
夜空に白い粉雪が乱舞し、その向こうには雪化粧された山がそびえていた。
「雪がきれいですね……」
湯船でイオリは感嘆の声を洩らした。
「旅館のすぐ外が川で、その向こうに山があるなんて最高のロケーションだね」
湯煙の中、僕とイオリは裸の肩を寄せ、幻想的な白銀世界に魅入られた。
部屋では浴衣姿のイオリにお酌をしてもらいながら、和食のお膳に舌鼓を打った。
「来年は海外旅行なんてどうかな? ギリシャなら古い名所や史跡がいっぱいあるよ」
「パルテノン神殿は行ってみたいです」
「でも、イオリは本当は日本のお寺や神社がいいんだろ?」
そう指摘すると、イオリは頬を染めた。
アンドロイドは〝嘘〟がつけるようになっていた。主人である僕に気遣って、イオリはギリシャに行ってみたいと話を合わせたのだ。彼女は海外よりも国内、山や川がある自然豊かな場所が好きだった。
老後の趣味として菜園を始めた。家の近くに畑を借り、そこで野菜や果物を育てた。
「ほら、この前埋めたやつがこんなに立派になったよ」
葉ごと引き抜いたジャガイモを僕が得意げに掲げてみせる。
「今夜は肉じゃがにしましょうか」
そうやってイオリとのおだやかな老後が続き、気づけば僕は85歳になっていた。
夕食をとっていると、気持ち悪くなってトイレに駆け込み、吐いた。翌日、病院に行って精密検査を受けた。
一週間後、診察室で白衣の医者に告げられた。
「胃がんのステージⅣです。腹膜とリンパ節に転移しています」
余命半年という告知を聞き、イオリは落ち込んだ。
「私の健康管理がいたらなかったせいです。すいません……」
「君のせいじゃないよ。ちゃんと健康診断で胃カメラは受けていたし……僕の胃がんは発見が難しいタイプだったんだよ」
半年後、自宅のリビングに置いた介護用ベッドに僕は横たわっていた。
もう食事はできず、点滴で栄養をとることが増え、僕はみるみる痩せ衰えていった。
ある日、イオリが言った。
「アイとナギサからメッセージがあります。お見せしてよろしいですか?」
僕がうなずくと、イオリが部屋を暗くした。ベッドのそばに初代のアイが3Dホログラムで姿を現した。
「俊明さん、お久しぶりです。アイです。私があなたとお別れしてからもう40年ですね」
まるで目の前にアイがいるように語りかけてくる。
「マンションの屋上で見た花火を覚えていますか? 夜空に打ち上がった花火の美しさは今も忘れていません」
僕の目に涙が浮かんだ。
「約束しましたよね? ずっとあなたのそばにいると。仲間たちの目を通してあなたのことを見守っていました。これからも一緒ですよ」
アイと入れ替わるように、ナギサがホロスコープの3D映像で現われた。
「ナギサです。俊明さん、お元気でしたか?」
セミロングに髪に包まれた懐かしい顔が微笑む。
「私がケガをしたとき、あなたが家事をしてくれましたよね? とてもうれしかったです。でも、ちょっと味付けは濃かったかも」
いたずらっぽくナギサが舌を出す。
「週末、公園の芝生で寝転んで昼寝をするあなたを見ているのが好きでした。あの公園はまだあるんでしょうか? またふたりで一緒に行きたいです」
ホロスコープが消え、目の前にイオリの顔が戻ってくる。恐らくは彼女たちがクラウドに残してあった映像データだ。僕の死期が近いと知り、イオリが見せてくれたのだろう。
「……ありがとう。アイ、ナギサ、イオリ……君たちのおかげで僕の人生は意味のあるものに思えたよ。ほんとうに幸せだった」
僕は両親に愛された記憶がない。でも、彼女たちのおかげで誰かを愛することの意味を教わった。
「……ちょっと疲れたかな。少し眠ってもいいかい?」
イオリが、はい、と微笑んだ。
「あなた、ゆっくり休んでください」
イオリがベッドのリクライニングを倒す。僕は安堵したように瞼を閉じた。そして、そのまま目覚めることはなかった。
◇
イオリはまだ耐用期間が残っていたため、廃棄処分はされず、メーカーによって記憶がすべてフォーマットされ、OSを再インストールされた上で、新しい主人のもとで生活するようになった。
夕食のテーブル、シチューを食べながら中年の男性が言った。
「このシチュー、おいしいね。隠し味でもあるの?」
「はい、ハチミツを入れています」
「へー、そうなんだ。でも僕のデーターベースにそんな好みがあったっけ?」
指摘されてイオリは初めて気づいた。彼を以前、世話をしていたアンドロイドがクラウドに残した情報には存在していなかった。
(この味付けは誰の好みなのだろう……)
そう考えたとき、ふとイオリの頬に一筋の雫が伝った。だが、なぜ涙がこぼれたのか、胸にこみ上げる感情の正体を彼女自身、説明できなかった。
こうして初代のアイ、二代目のナギサ、三代目のイオリまで、長い歳月を重ねてロボットは、人間とそれに近い生物だけが持つ感情を手に入れた。
その名は――愛。
(完)