42. 失われた力。
エステル様の、上司......。
つまり、この方は、女神様よりも上位の存在......これだけの威圧感も、頷ける。
メルキアデス様は、俺をてっぺんからつま先までジロジロ眺めた。
そして、金フレームの眼鏡をくいっとあげると、まだ土下座をするエステル様の後頭部に、殺意に満ちた視線を送った。
「お前は馬鹿なの? ただのいち人間にこれだけ莫大な力を与えてしまえば、この世界のバランスが完全に崩れちゃうでしょうが。そうなれば、お前だけじゃなくって、僕まで世間から責められるんだけど? 最近のネットの連中なんて、人を謝らせることに命賭けてるみたいなところあるからな。こんな不正、奴らの絶好の餌になるんだ、わかる?」
ネチネチとした口調でエステル様を責めるメルキアデス様。エステル様は土下座のまま「ずみまぜんっ、ずみまぜんっ」と、涙ながら謝罪の言葉を連呼する。
何とか助けに入りたかったが、口すら動かすことができない。
メルキアデス様は、舌打ちをしてから、ボリボリと頭を掻く。
「それじゃあ、今すぐこいつからお前の権限で力を奪え」
「えっ!?」
エステル様が、真っ青な顔を上げた。
「当たり前だろ。僕は今回の件に一切関与しない......と言うか、知らないんだ。全てお前が一人で勝手にやったこと。ならば、最後までお前が責任を持つべきだ」
「......で、でも、ティント様は、そのお力に見合うだけの方ですし、すでに与えてしまったものを、こちらの都合で奪ってしまうのはっ」
「あ”?」
「うっ」
メルキアデス様に凄まれたエステル様は、ビクッと涙目で肩を揺らす。
「立て、エステル。そして、こいつから力を奪うんだ」
メルキアデス様が冷たく言い放つと、エステル様は小さな握りこぶしを膝に作って、ぎゅっと唇を結んだ。
そして、勢いよく立ち上がった......かと思うと、脚が痺れていたんだろう。ゴロゴロ地面に転がりのたうち回った。
生々しいベージュのパンツが完全に丸見えだけど、やはり指摘することも目をそらすこともできない。
数分後、足の痺れが取れたエステル様は、立ち上がって、俺の正面に立った。
「......ごめん、なさい」
そして、震える声でそう言うと、俺にぎゅっと抱きついた。
その瞬間、ガクンと腰が抜ける。
「......ひっ」
続けて、自分が小さく小さくなっていき、それこそ虫けらになって誰かに踏みつけられるんじゃないかと言う、強烈な不安感に襲われた......ヒズミの炎の時よりも、強烈かもしれない......ッッッ。
俺は恥も忘れ、必死にエステル様にしがみついて、なんとか耐える。エステル様の温もりだけが、俺を守る全てだった。
「.......ごめんなさい」
俺を離したエステル様が、再び小さな声で謝った。
『祝福の書』を見なくてもわかる。
俺は、力を失った。レベル0に戻ってしまったんだ。
「ふん。それでいいんだよ」
すると、天井に穴一つ空いていないにも関わらず、メルキアデス様に光が差し込んだ。
そして、きゃっきゃと羽の生えた天使が舞い降りて、メルキアデス様の腕を掴む。
「それじゃ、僕は行くんで。ていうかお前有給とったらしいな? まあ別に全く問題ないんだけどさ、上司が全然有給とんない中よくとるよね。いや、別にいいんだけど。なんならそのまま永久に休んどいて欲しいくらいだし(笑)」
そんな罵詈雑言を吐きながら、メルキアデス様はふわふわと浮いて、天井に溶け込み消えて行った。
「.......ど、どう言うことなの?」
ここまでの一連の流れを立ち尽くして見ていたライラが、ぽつりと呟いた。
⁂
「そ、それじゃあ、このお方が、エステル様......!?!?!?」
エステル様から説明を受けたライラが、目を白黒させてエステル様を見る。
なかなか信じがたいことだろうけど、メルキアデス様の神威をその身に受けた後だからか、ライラは比較的簡単にこの事実を受け入れた。
「そうとは知らず、失礼な口を聞いてしまい、誠に申し訳ありませんでした!」
そう言って、ライラは土下座すると、「ほら、アイタナも!」と、アイタナに頭を下げさせようとする。
アイタナはと言うと、全く信仰深い方ではないようで、ライラの手をペシっと弾く。
そして、エステル様ではなく、俺の方を訝しげに見た。
「話はよくわかんねぇけど......それじゃあアニキ、全然強くなくなっちまったってことか?」
「......うん、そういうことになるな」
「......ふぅん」
アイタナは、それこそ先ほどメルキアデス様がやったように、じーっと俺を隅々まで見た。
いい加減その熱視線に気まずくなって来た時、ライラがプイッとそっぽを向いた。
「じゃ、もう用はねぇな。帰るぞ、ライラ」
「......ちょっ、ちょっとアイタナ!?」
ライラが、尻尾をピンと立てて驚く。そして、耳を反らしてアイタナを怒った。
「ティントは私たちの命の恩人なのよ! 力がなくなったら用はないって、ちょっと冷たいんじゃない!?」
「知らね」
アイタナは冷たく言い放つと、すくっと立ち上がる。
そして、「ちょっと!?」と悲鳴をあげるライラの服の襟を掴み、親猫が子猫にやるように引っ張り上げる。
すると、ライラが猫の手になる、ガラス玉みたいな瞳でおとなしくなった。猫の本能的に、あそこを掴まれると弱いんだろう。
「それじゃ」
そしてアイタナは、ライラを持ったまま、勢いよく家を飛び出して行った。
......え、マジか。
あまりにもくるりと高速で手のひらが回ったので、唖然としてしまう。
......いや、仕方ないだろ。アイタナはこれから、あのクソ勇者を超えるため、必死に努力するって決めてたんだ。
他力本願でレベルを上げて、しかも今やレベル0の俺に用がないのは、当然と言えるだろう......それでも、寂しいのは寂しいけど。
「うぅ、ごめんなさい、ごめんなさい、ティントさまぁ。社畜は、社畜は上司に逆らえないんですぅ......」
エステル様はというと、二人がいなくなった途端、さめざめと俺の膝に抱きつき泣き始めてしまった。
その背中を撫でながら、これからどうしようかと考える。
俺はこれにて、ただのレベル0になってしまった。そんな俺が、多様性の庭に入ってしまっていいんだろうか。
サヴァンのやったことはムカつくが、確かにレベル0......しかも、今やレベルアップできちゃう、どこにでもいるただのレベル0になった俺は、あまりにS級パーティに相応しくない存在だ......。
そう、サヴァンだ。サヴァンとの決闘の件もある。
「......決闘、できるな」
「えっ?」
エステル様が、鼻水まみれになった顔を上げる。俺は、「あ、なんでもないですよ」と言って、服の袖で顔を拭ってやった。
確かに、もう俺はただのレベル0なんだから、決闘したって誰になんの文句も言われない。
......でも、俺はレベル0なんだぞ。レベル40のサヴァンに勝てるわけがない。結局のところ、皆の前で、恥をかかされておしまいだ。サヴァンの憎たらしい笑顔が浮かび、背筋が冷える。
なのに、なんでだろう。
同時に、レベル四桁の時は感じなかった興奮が、確かに俺の胸の内にあるのは。