御鬼上千晴という人間
三人が駆けていく姿を、千晴は窓から見ていた。それでもなお、彼女の体はなにかに縛り付けられたように動かなかった。窓から離れてベッドに腰掛けるが、頭の中はぐちゃぐちゃでなにもまとまった考えが浮かばない。
思い浮かぶのは、昔の事ばかり。
母はたぶんまともな仕事していなかった。帰って来るのはいつも日付が変わってから。キツイ香水の臭いが嫌いだった。物心つくときには父親は居なかった。写真もなにも見たこともない。
母は私の世話なんざしちゃくれなかった。扱いは犬猫と同じ。餌と水だけ与えてあとは知らんぷり。いや、犬猫の方が上等な扱いを受けていただろう。飼い主の愛を貰えるのだから。
でも、私にはまり姉ぇがいた。たった五つ上の姉はいつも私に構ってくれた。五つ上って言ったってまだガキもいいとこなのに、嫌な顔一つしないで私にずっと笑顔を向けてくれた。
いっつもまり姉ぇにくっついてたっけな。いつもまり姉ぇの手や服の裾を握ってないと落ち着かなくて、居ないと不安でパニックになった。そんなどうしようもなく手のかかる私を、まり姉ぇは可愛がってくれた、常に一緒に居てくれた。
小学校にあがったくらいで、母は居なくなった。私たち姉妹を捨てたんだろう。どっかの施設に預けられたけど、その施設も母と大した違いはなかった。施設の人たちの顔なんて思い出せ無い。
朝起きる時間になるとビーッとブザーが鳴る。着替えをしているとまたビーッという音が聞こえて朝ご飯。トレーに乗せられた出来合いの総菜と変に柔らかいご飯を、隣の子と肘がぶつかりそうになる狭いテーブルで食べる。またブザーが鳴って歯磨き、ブザーが鳴って学校に行く時間。チャイムに合わせて行動する学校から帰ってきて、またブザーに合わせて生活する。
まり姉ぇが居なかったら、私はたぶん壊れてた。
まり姉ぇと行くたまの外食が楽しみだった。姉がいつも連れて行ってくれるのは施設横のハンバーガーショップだった。行動範囲は限られていたからそこしか行けなかったけど、息苦しい施設から出て、姉と二人で食事できる時間が大好きだった。
そんな施設だったから友人もできなかった。だから私はより一層姉から離れられなくなった。まり姉ぇはそんな私でもを可愛がってくれて、一緒に勉強して、話し相手になってくれた。まり姉ぇも自分と同じように辛いのだろうと幼心に感じていたけど、姉はいつでも笑顔で怒ることも弱音を吐くこともなかった。
そんなまり姉ぇが大好きだった。
強くて優しいまり姉ぇに甘えてた。
でも、甘えてばかりじゃ駄目だと気付かされた。
小学校の時だった。私は上級生に親なしだとからかわれた。私は何も言い返せずに泣いていた。その時、たまたま通りかかったまり姉ぇは私をかばい、上背のある上級生に臆せず謝罪するよう言い放った。のん気な私はまたまり姉ぇが助けてくれたと安堵していた。
上級生は歩み寄ってきて、まり姉ぇを押し飛ばした。今までずっと守ってきてくれた存在は、ただの少女だと思い知らされた。その時は先生が止めてくれて事なきを得た。まり姉ぇは軽いねん挫で済んだ。
保健室で泣きつく私に、まり姉ぇは大丈夫だと笑ってくれた。私は強い姉に変わらない頼もしさを感じたのと同時に、このままで自分のためにまり姉ぇが傷つくのを見るのは嫌だと思った。いつか大きな怪我をしてしまうという恐怖も感じた。
その日を境に自分も強くなろうと決意した。
まり姉ぇのように強くなりたい。
私のように弱い人を救える人になりたい。
そう、誓った。
ちょうど施設が習い事を推奨していたのも都合がよかった。体を鍛えるために、いろんな武術教室に行った。まり姉ぇが小学校を卒業するときには、私は男子顔負けの腕っぷしの強さを手に入れていた。
まり姉ぇが卒業した後にからかいにきた生徒がいた。初めは動けなかったけど、まり姉ぇの悪口を言われた途端火がついて、私一人でぼこぼこにしてしまった。担任の先生に施設の人、習い事の先生といろんな大人に怒られるし、まり姉ぇにも心配させないでときつく言われた。だけど、まり姉ぇは後でこっそりほめてくれた。
あの時が一番輝いていたかもしれない。まり姉ぇみたいになりたくて、みんなに優しくして、クラスの皆が一つにまとまって毎日が楽しかった。まり姉ぇも喜んでくれて、それはまり姉ぇのお陰だって言ったら、泣いて喜んでくれた。
この頃、鳴りを潜めていた悪魔災害が少し増えてきていた。だから、私は将来悪魔災害対策の仕事に就きたいとまり姉ぇに言った。姉は危険な仕事だから乗り気ではなかったけど、おおむね賛成してくれた。
それが今となっては悪魔側になっているなんてな。
ああ、そうだ。
あの時、私は悪魔になったんだ。
まり姉ぇの就職を機に、私たちは施設を出た。ちょうど私が中学に上がるころだった。あんな場所に未練などなかったし、まり姉ぇと二人きりで暮らせることにただ期待を膨らませていた。引っ越した先はどっかの山深い田舎で不便だったけど、生活は順調だった。
そう思っていたのに。
あの日は妙な日だった。夏だというのに変に涼しくて、蝉の声も聞こえなかった。村に一つしかない学校に連絡が入り、午前中で授業が切り上げられた。校門を出てすぐ異様な雰囲気が充満しているのに気が付いた。
村の真ん中で、子供が殺された。
知っている顔だった。
家に帰ってすぐにまり姉ぇは集まりに呼ばれた。
後から聞いた話では、その子供は鋭利な刃物で体を真っ二つにされていた。獣や人間の出来る技ではなく、悪魔の仕業だとうわさが広がった。悪魔憑きが誰か犯人探しになるような雰囲気の中、まり姉ぇは村の皆を励ました。まり姉ぇの言葉に村の人たちは少し落ち着きを取り戻したように見えた。
だが、日を追うごとに犠牲者は増え、いよいよ犯人探しが始まった。そして私たちが呼び出され、まり姉ぇの一緒に蔵に縛り付けられた。外からやってきた私たちを真っ先に疑うのは当然かもしれない。
それから先はもう、思い出したくもない。
まり姉ぇに見捨てられた私は、悪魔憑きになって村の皆とまり姉ぇを殺した。いや、もしかすると村の子供たちを殺したのも私なのかもしれない。覚えてはいないけれど、きっとそうに違いない。
悪魔になるというのは、そういうことだ。
せっかく見つけたこの新しい居場所も、ついさっき失った。
これからどうしたら――。
「……いるか、千晴」
間を開け不器用なノック音の後に、ハカセの声が聞こえた。千晴が何も答えないでいると、「入るぞ」という声の後にドアノブがガチャリと音を立てた。
「……よお」
何も答えない千晴にかまわず、ハカセは手にした布がかけられた皿をテーブル脇の机に置いた。それから窓に向かい、外を眺めた。
「思い出すな。ここに初めて来たときのお前さんは正にそんな感じだったな。『私はお姉ちゃんを殺した。もう生きていても仕方ない』ってな。その殺したと思った姉が生きてたのに、また殺しに行かなきゃならないなんて、なあ?」
千晴は何も答えなかった。
「あの時、私がお前さんになんていったか覚えてるか?」
「……」
「確か、『じゃあ私と同じだ、大切な人を救えなかった……死ぬのはかまわないがまだやりたいことがあるんじゃないのか』……こんな感じだったか? そういやそん時に名前変えたんだったっけな」
小さく笑うハカセの背中を千晴は横目で見た。その視線に気が付いたのか、ハカセは振り返り窓枠に腰掛け、千晴と視線を合わせた。窓から差し込む光で、ハカセの顔は見えなかった。
「そん時と一緒だよ。お前さん、まだやりたいことがあるんじゃないのか」
「…………」
それでもなお動こうとしない千晴に、ハカセはまた小さく笑って窓枠から離れると入って来た扉に向かって歩き始めた。またうつむいてしまった千晴の背後で、ハカセは足を止めた。
「そうそう、その時『少しでも生きたいと思うんなら食え』って……これを食わせたんだっけな」
ハカセがベッド脇の皿にかけられた布をすっと持ち上げた。
「……これ、って」
皿の上には、ハンバーガーが乗せられていた。ちょっと焦げたバンズに肉、蕩けたチーズの香りが千晴の鼻に入り込む。死んだようだった体中の細胞が、すこし動き始めたように千晴は感じた。
「お前さんを元気づけようって真理矢が用意してたんだ。私が焼いたから、焼き加減は微妙だけどな……ま、私にできんのはこれくらいだ。後はお前さんが決めろ」
ハカセはそう言い残して出て行った。
「……」
千晴はハンバーガーを見つめ、震える手で掴み上げた。ゆっくりと口元に持っていき、一口齧ってみる。少しの焦げた味の後に広がるバンズと肉と、チーズの味。自分の好きな味付け。
脳裏に浮かぶ真理矢の姿。
あんな姿になっても、ろくでもない運命に踏みにじられても、立ち上がって前へと進もうとしている。少女の姿。特別強いわけでもない、なにか素晴らしい事を成し遂げたわけでもない。なのになぜか惹かれる。
きっと、姉に似ているんだ。
どうしようもない状況でも、そのどうしようもなさを受け入れ、少しずつ改善していく。自身の周りの者たちから助けようとする。かつて自分がそうしてもらったように。そうして前へと進もうとする。
私はなんのために強くなったのか。私を守ってくれていた姉のように強くなりたかった。姉のように――真理矢のように、身近な誰かを幸せにするためだ。誰かの笑顔を守るためだ。
ああ、今の私はあの時の私だ。
姉の陰に隠れて、何もできなかった時の私だ。
大事な時に自分を見失い、周りを傷つけた私だ。
「…………」
手にしたハンバーガーを、千晴は時間をかけて食べ終えた。
口元をぬぐい、長く息を吐き出すと、千晴は立ち上がった。
歩ける、行こう。
千晴は銃を手に取り刀を握り、ドアを蹴り開け飛び出した。
迷いなく歩を進め、ドアベルを鳴らして外に出た。
大股で進みながら、心の中でハカセに何度も礼を言った。
千晴はまっすぐ、真理矢と姉がいる場所を目指した。
聞き耳を立てていたハカセを、ドアごと吹き飛ばしたことにも気が付かずに。




