泥人形
「う……」
ぼんやりと歪んだ視界が少しずつ開けてくる。意識は戻っても体を動かすことができない。鈍い痛みのような、痺れのようなものが全身に膜を張っているようだった。
「これが聖女か?」
突然何かが私の顔を覗き込んできた。体は動かず、顔の皮膚だけが驚きでピクリとうごいた。私の顔を覗き込んできたのは老人だった。じろじろと値踏みするように私の顔を見ると、不満げに息を吐いて離れていった。
「どうみても低級の悪魔にしか見えんが」
歳の数だけ悪い物を吸収して来たような、歪んで異様な老いが彼の顔や声から感じ取れた。この人は一体誰なんだ。私はどうなったんだ。徐々に視界がはっきりしてくると、異様なのは老人だけではない事に気が付いた。
さっきから上から桜の花びらのようなものが落ちてくる。異様なのは季節外れということだけではなく、散った花びらが空気に溶け込み、薄い桃色の霧になっているように見えた。その淡い色の霧に周囲が包み込まれている。
この空間は、その幻想的ともいえる見た目とは裏腹に、湿って肌に張り付くような狂気が感じられた。風の音までも誰かのうめき声のように不気味だった。
「……突然姿が変わりまして」
薄桃の霧から毬音さんと思しき影が現れた。果たして目の前の彼女を毬音さんと呼んでいいのか分からなかった。彼女はここの狂った穏やかさと、妙な一体感があり、まるでこの空間が彼女の一部の様だった。
「連れてくる女を間違えたのではないか」
「……そんなはずは」
「ここまで来るのにどれだけの時間と労力をかけたと思っている。ようやっと目的が達成できるかと思うておったところに……」
「……はい」
「妹に会いたいのだろう、だったらもっと確実な仕事を――」
私が「あの!」と声を挙げると、老人と毬音さんがこちらを向いた。
「あなたたちは一体何なんですか、何が目的で……」
「ほう、見た目に反したおなごの声か、これは珍しい」
老人はまた私に顔を近づけた。妬みや嫉み、利己的で傲慢な欲がそのまま顔に刻み込まれたような皺が不快だった。
「だが、確実とは言えんな。毬音、こいつのほかにもいたのだろう?」
「……ええ、何人か上等な悪魔が」
「本当に聖女ならば取り返しに来るだろう。コイツの血を試すのはそれからでもいい。もし見当違いでもそいつらを『あれ』の肥やしにすればいい――」
老人の言葉に応えるように霧が薄れ、その奥に巨大な樹が見えた。充満する薄桃の霧の奥に見える大木は、思わず目をそらしたくなるような姿だった。樹の幹は色こそ桜の木のものであったけれど、その見た目はまるで人間を無理やり押し固めて造られたもののようだった。
風の音がうめき声の聞こえたのではない。逆だった。あの木から薄く漏れ出るうめき声が、風の音に聞こえていたのだ。私はその醜悪な樹に全身を泡立たせながらも、勇気を振り絞って声を出した。
「あなた……貴女、毬音さんでしょう!?」
「……ええ、そう名乗りましたよね?」
「御鬼上さんの……千晴さんのお姉さんなんですよね!」
「……ちぃちゃんを知ってるの?」
「一緒に居たんです! 貴女が始めてきた時に刀を貴女に向けたあの人が、千晴さんです!」
「……そんなはずないわ、ちぃちゃんはまだ子供だもの」
もしかして、と思っていた。きっと毬音さんは御鬼上さんに殺された時のまま記憶が止まっているんだ。だから成長した彼女が誰だか分からないのだ。次の言葉が出てこなくて黙る私を、毬音さんは見下ろした。
「……貴女は血をくれれば、それでいいの」
「血……?」
「……そう、貴女の血があれば、ちぃちゃんが生き返るのよ」
「生き、返る……?」
私がオウムのように聞き返すと、毬音さんは泥のように顔面を崩して笑った。
「そう、ちぃちゃんが帰って来るの。あの日に死んでしまったちぃちゃん。可愛い可愛いちぃちゃん。ああ、かわいそうなちぃちゃん。あの時私が守ってあげられなかったから。今度は大丈夫、今度はお姉ちゃんが守ってあげる。いつもそうしているみたいに、ずっとそうしてきたみたいに。ああ、ちぃちゃん。ちぃちゃん。ちぃちゃん……」
毬音さんは……いや、毬音さんの形をした『何か』は泥人形のような笑みを浮かべたまま、ふらふらと不気味な桜の大木に向けて歩いて行った。
御鬼上さんが言っていた話と違う。死んだのは御鬼上さんのお姉さん、毬音さんだったはずだ。一体何が何だか分からなくて混乱している私の顔を、三度老人が覗き込んだ。不快なテカりのある顔を歪めて「気色悪いだろう?」と笑った。
「死んだのは自分の方だというのに、死んでいない妹を蘇らせるためになんでも言う事を聞くのだよ……騙されているとも知らずにな。この常夜之桜は死者の蘇生などできはしない。それに近い事はできるがね」
「それはどういう……」
「察しが悪いな低級悪魔め。老人が望むものなど限られているだろうに……若返りだよ。それも人並外れた悪魔の力を宿すこともできる。その辺の悪魔なんて物の数ではない。なにしろ『魔屍画』の魔素をたぁっぷりこの樹には吸わせているからな。花が満開になった暁にはこの世界を統べる力すら私のものになるだろう」
安っぽい表現だ。だけども、この場所の異様な雰囲気からその言葉もあながち嘘ではないのかもしれないと思えてしまう。不気味な老人に、御鬼上さんのお姉さんの形をした『何か』、そして異形の巨木。
目の前に広がる狂気の塊たちから逃げ出したくても、体はまだ動かない。何とかしなきゃと気持ちばかりが焦って、勝手に涙が滲む。今の私には、歪んだゴブリンの歯を食いしばって耐えることしかできなかった。




