凍り付いたような
後ろで閉まるドアの音を待たずに、毬音は歩き始めた。
体にまとわりつくような湿気の中でも、彼女は汗の一つもかかず一定の歩幅で道を進んでいく。先ほど眼前に刀を突きつけられたにも関わらず、その瞳には動揺はなく、凍り付くような美しい顔を一ミリも崩さなかった。
「……ちぃちゃん」
突然、小さい子供に問いかけるようにぽつりと呟いた。一定の歩幅で歩き続けながら、感情の薄い顔のまま、「ちぃちゃん、ちぃちゃん」と何度も呟いた。呟いて、歩いて、歩いて、呟いた。
「……もうすぐだからね」
毬音は歩き続け、いつの間にか危険区の中に入っていた。彼女は危険区であることを警告する看板を一瞥しただけで、表情を少しも変えることなく歩き続けた。奥へ奥へと進んでいくと魔素の濃度が高まって行く。
毬音が歩いているところは既に、悪魔憑きではなく悪魔それ自体が闊歩できるほどの魔素に溢れ、濃い魔素は薄紫のもやとなって辺りを覆っていた。そのもやの向こうから、数体の悪魔が現れた。
いくつもの昆虫を繋げたような歪な悪魔、両腕に燃え盛る武器を持った二足歩行の獣のような悪魔、人間の脳に触手と虫の羽を取り付けたような悪魔。その醜悪な悪魔たちはいずれも見上げるほどの巨体であり、まともな人間が対峙したら正気を保っているのは難しいだろう。
だが、そんな悪魔たちを前にしても彼女は足を止めただけで、ただ虚ろな視線を向けるだけだった。不意にうつむき、うわ言のように何かを呟き右腕を前へ差し出した。瞬間、蒼い氷柱が左胸から飛び出した。氷柱は胸から差し出した腕を駆けのぼり、手のひらから噴き出し、両刃の長剣へと変貌した。
剣を持った人間の女一人に臆する悪魔たちではなく、各々が神経が削り取られるようなな異形の咆哮を上げ、毬音に襲い掛かった――つもりだったが、巨体の悪魔達はその場から動くこともできずに、周りの建物ごと両断されていた。
それだけで死ぬほどその場にいた悪魔たちは弱くはなかったが、斬られた部分が血や体液が出る前に凍り付き、そのまま瞬時に悪魔達を凍り付けにしてしまった。斬られた衝撃でバランスを崩した悪魔たちの体は倒れ、粉々に砕け散った。
毬音が無表情で剣を握り直すと、剣は氷柱に戻り、腕を伝って左の胸まで逆回しのように戻って行った。彼女が腕を振るい立ち昇る冷気を振り払うと、人影が彼女の元へと歩み寄って行った。
「お見事お見事……」
馴れ馴れしく毬音に声をかけたのは一人の男だった。顔の深い皺や頭髪の艶の無さから老人だと推察できるが、腰は曲がっておらず、体にもまだ筋肉は付いていると言った風貌だった。
だが、その老人の肉体からは快活や壮健といった前向きな感情は微塵も感じ取れなかった。むしろ全身がむず痒くなるような、じっとりと湿った欲望が内側から溢れるようだった。
「それで、どうだったんだ?」
老人は必要以上に毬音に体を近づけて問いかけるが、毬音は何の反応も示さなかった。まるで、彼女の顔は美しいまま凍り付いたようだった。
「……最後の一人、見つかりました」
「そうかそうか! して、どんな奴だ?」
「……見た目は普通でした。でも、内側に濃い魔と聖を宿していました。貴方の仰る最後の肥やしに適任かと」
「それはなによりだ、それではいよいよだなあ」
「……ええ、楽しみです。それでは今から戻って連れてまいります」
無感情に、人形のように話して踵を返そうとした毬音だったが、老人は彼女の腰を抱いて引き寄せた。毬音はなんの抵抗もせずに老人の腕の中におさまってしまった。
「まあまあ、焦ることは無い。今日は前祝といこうではないか」
老人は皺と染みにまみれた手を毬音の体に這わせながら、下卑た笑い声を喉の奥で鳴らした。そこまでされても毬音はなんの関心もない様子で頷き、老人と共に魔素のもやの中に消えていく。
「……ちぃちゃん、もうすぐ迎えに行くからね」
毬音は僅かに喜色を孕ませた声でそう言うと、二人の姿は完全に見えなくなった。




