まり姉ぇ
「ただいまぁ!」
ばたんと勢いよく扉を開けて御鬼上さんが朝のランニングから帰ってきた。眉を寄せてため息を吐いた王狼さんの横を通って、私はタオルを差し出す。御鬼上さんは「あんがと」と笑顔でお礼を言って受け取る。
「もう少し品よく行動できないのかお前は」
「無理だ!」
「即答か……」
「じゃあシャワー浴びてくっかな」
「朝ご飯はいつもので?」
ぐっと親指を立てて階段を上がって行く背中を見送り、私はキッチンに向かった。王狼さんが「手伝うよ」と腰に手を回してきたので「ありがとうございます」とお言葉に甘えた。
「ええと……」
御鬼上さんの朝食はブロッコリーと半熟卵に茹でたささみ、ヨーグルトとプロテイン。なんだか教科書に載ってるような筋トレ朝食だなあと思いながらそれらを茹でる。王狼さんにはプロテイン作るのを手伝ってもらった。
「一人だけ違うメニューじゃ手間が増える。プロテインだけ飲んでればいいんだあいつは」
「体内時計がどうとかで、プロテインだけじゃ駄目らしいですよ。それに、私は料理好きですし」
「茹でるだけの調理でも楽しいものかい?」
「ブロッコリーの塩加減とか、半熟卵が上手くできた時は嬉しいですね」
そんな会話をしていると、からんころんとドアベルの音が聞こえた。こんな朝早くに誰だろうか。お湯からだした卵の殻向きと、他の鍋の番を王狼さんに頼んだ。途中の姿見鏡で自分が人間の姿であることを確認して私は玄関に向かった。
「どなたです、か……」
そこには一人の女性が立っていた。
私はその姿を見た瞬間、体中の神経がすっと内部に収縮するような寒気を覚えた。その人の周りにだけが世界と切り離されているような、人ではないものと相対してしまったような、そんな怖気が背中を駆けあがった。
今日まで多くの悪魔憑きと出会ってきた。それから感じていたものとは違う、異質な感覚。青いスカートに白いシャツという飾り気もなにもない服装が、かえって異様さを引き立てているようだった。何も反応できないでいる私に向かって『それ』は口を開いた。
「すみません、御相談したいことがあってきたのですが」
すっと耳に入り込んでくる、涼やかな声。女性から異質さは消え去り、品の良い女性がそこにはいた。さっきまでの警戒心が丸々消え失せ、なにを勘違いをしていたのだろうと思うほど、目の前の女性は普通の人に見えた。
「ああ、えっと……相談ですか?」
「ええ、ここはそういった依頼を受けてくださるのですよね?」
デビルバニーという看板を掲げているせいもあって、たまにバーか何かだと思って入ってくる人がいる。その時は丁重にお帰り頂くのだけれど、どこから聞いてきたのか、たまにこういう人が来る。
ただの便利屋さんだと思ってくる人もいれば、悪魔関係の仕事を依頼しにくる人も中にはいる。とりあえず話を聞いてお姉ちゃんに話を通して、まともなものなら私たちが処理する。いかがわしいものなら調査して依頼人を捕まえる事もある。
この人はどちらだろうか。
「あはは~☆ 誰それ~☆」
ひとまずソファに座ってもらうと、背後から声が聞こえた。反射的に振り返ると、花牙爪さんに肩車をしてもらいながら蛙田さんが階段から降りてきた。なにしてんですかあんたら。
「お、お客さんです」
「あはは~☆ どんなご用件だろ~☆」
「……千客万来」
明らかに異様な二人を前にしても、その人は動じずに静かな笑みを浮かべていた。それがわずかに引っかかったけど、小さな違和感程度で、すぐに消えてしまった。
「ええと、どういったご用件で……ああその前にお名前は……あ、ちょっと待っててくださいね」
私は飲み物を用意しようとキッチンに飛び込んだ。王狼さんはすっかり御鬼上さんの朝食の準備をしてくれていたので、お礼を言った。それから「お客さんです」と伝えてから冷蔵庫の麦茶を取り出して氷を入れたコップに注いだ。キッチンを出てテーブルにお茶を置くと「ありがとう」とまた涼やかな声が鼓膜を揺らす。
「で、御相談というのは? あ、私は田中真理矢と申します」
「私は岡本毬音という名前です。実は探してもらいたい人が居まして」
「人探し、ですか?」
これはなんでも屋さんだと思ってきたパターンかな。
「ええ、私の妹なんです。名前は――」
瞬間、上からバタンと大きな音を立てて扉が開く音がして、続けて妙に調子はずれな鼻歌が聞こえた。間違いなく御鬼上さんの声だった。頭上を足音が通り過ぎ、階段を下りてくるのが分かった。
「まだ誰かいらっしゃったのですね」
「ええ、まあ……」
身内のご機嫌な鼻歌を初対面の人に聞かれて、私は妙に恥ずかしい気持ちになってしまった。どすどすと足音を立てて降りてきた御鬼上さんも彼女に――岡本さんに気が付き、鼻歌を止めて固まった。それはそうだろう、私ですら恥ずかしいのに歌ってる本人はもっと恥ずかしいだろう。
「ご、御鬼上さんこちらは――」
御鬼上さんの表情は、私の考えていたものとは違った。
その表情から読み取れるものは、当惑、狼狽、そして戦慄。まるで自分が殺した人間の亡霊に対峙してしまったかのようなその表情に、私も動揺して言葉に詰まった。こんな顔をした御鬼上さんは見たことがなかった。
「あの、御鬼上さ……」
「……ぇ」
「え?」
「――まり姉ぇ……?」




