お楽しみの時間
建物の中から、嗚咽の混じった叫び声が聞こえた。
その悲鳴をかき消すように、おぞましい歓声が続く。
月明かりに照らされたその建物は、かつては大企業の賓客接待所として造られたものだった。大きく華美な西洋風の建造物だったが、今は荒れ果て悪魔憑きの住処となっていた。
「発信器って……本当にダサいわね」
その廃屋の二階、大きな広間にシュナは居た。
一人用のソファに腰掛け、ハカセの発信器をさんざん指先でもて遊び、ごみでも捨てるかのように無表情で放り投げた。床に落ちた発信器は明らかに無駄な装飾が施してあり、その形はニヤリと笑う翼の生えた兎だった。
「どうするのシュナ、私がどこか捨ててこようか」
彼女の隣のソファから、棘のついた上着を羽織った女が身を乗り出した。
「別にいいわ。追いかけてくるのならわざわざ行く手間が省ける」
「そうよね、流石シュナ!」
棘女は媚びた耳障りな声色でそう言うと、ソファの前の大穴に視線を戻した。二階部分の床には大きく穴が開いており、そこからは下の階が見えた。穴から見える一階は大きなロビーであり、そこには鉄の足場やトタン、家電製品やクロゼットなどで乱雑に造られた囲いがあった。
囲いの中では獣皮の悪魔憑きが奇声を挙げながら、半裸の女を追いかけまわしていた。女の体は傷だらけであり、痛々しいうめき声を挙げながら、獣皮から逃げ回っている。女が傷つくたびに、周りから低く歪んだ恐ろしい歓声が上がる。
その様子を見物できる特等席に、シュナたちは腰掛けていた。大きな穴を囲むように質のいい革ソファが並べられており、シュナと棘女の他にも牛の角が生えた悪魔憑きも座っていた。醜い大男の姿も見えたが、彼にソファはあてがわれていないようで、地べたに腰掛けている。
「ほんとに好きものねあいつ」
「よ、弱いのがいけ、いけない」
地べたに座った大男が口を開くが、その場に居た三人は誰も反応しなかった。大男が低くうめいて黙ると、彼がまるでなにも喋らなかったような調子で、シュナが口を開く。
「弱い者いじめほど気分のいいものはないでしょう? 自分より弱い奴を蹂躙する以上の快感はないわ」
「そうね、その通りだわ! やっぱり貴女は――」
「ちょっといいか?」
棘女の台詞を遮り、ぞろぞろと五、六人の男が現れた。男たちには小さな角や翼、爪が生えており、悪魔憑きだということがわかった。どの顔にも媚びと傲慢が混ざった下賤な笑みが浮かんでいた。
シュナは彼らに目線を向ける事すらなく、何の反応もしなかった。男たちは少し気おされたが、そのまま話を続けた。
「あのよ、俺たちにもちょっとはいい目にあわせてくれねえかな?」
「そうなんだよ、獣の兄貴だけじゃなく俺たちにも女を――」
最後まで言い終わる前に、二人の男の体じゅうに太い棘が突き刺さった。鉛筆ほどの太さのそれが刺さった場所から、男たちの体が紫色に染まっていく。
「いまシュナとは私が話してんのよ!!」
棘女は眼球が飛び出しそうなほど大きく目を開き、血走った目で唾を飛ばしながら叫んだ。棘の突き刺さった二人は、悲鳴を挙げる間もなく全身がぐずぐずになって崩れ落ち、後には紫色の肉塊しか残らなかった。
下卑た笑いを浮かべていた周りの男たちの顔からは、一瞬で血の気が失せていた。棘女はふんと鼻を鳴らして肉塊を見下すと、またシュナに媚びた声をかけた。
「ごめんねシュナ、話の続き聞かせて」
「弱い者を虐げるのは選ばれた強い者の特権……そう、私は特権を持つ側の人間なのよ」
「うんうん! その通りだと思う!!」
「……くだらねえ」
不意に、牛の悪魔憑きが荒々しく席を立った。その様子を見て大柄な男が「どうした」と、どもりながら聞いたが、彼は彼の醜い顔を一瞥してから、何も言わずにその場を離れていった。
「どうしたのよ牛窪」
「てめえらと居ると気分が悪くなる」
「なっ、なんで俺には答えないで……」
「なんか言った? 不細工」
シュナの言葉に大男は黙った。
その隣では棘女が大男に下賤で陰湿な笑みを向けていた。
「何勝手に離席してんのって聞いてんの」
「俺もたいがいクズだがな、弱ぇやついたぶんのは趣味に合わねえんだよ。しかもそれを上から見てるなんざもっと気に入らねえ」
「あんたシュナに逆らう訳?」
棘女が耳障りな高い声でそう言うと、牛男はぎろりと彼女を睨みつけた。男の敵意を正面から受けた棘女は、頬を何度もひくつかせてから、さっと視線を逸らして黙った。
「いいかシュナさんよ。俺は強ぇやつと戦れるからてめえと居るんだ。下のイカレ野郎やそこのゴマすり女と一緒にするな。俺はてめえの手下じゃねえ、だから好き勝手に席を立たせてもらう、わかったか?」
牛男の全身から湧き上がる殺気に、その場にいた手下たちや、棘女や大男まで縮み上がっていた。そんな中、シュナは平然とした顔で面倒くさそうに手を振った。
「はいはい、分かったからそんなに鼻息荒くしないでよ牛さん?」
牛角はゆっくりと背を向け、視線が外れる直前までシュナを睨みつけていたが、彼女は平然とした様子でその背を見送った。
「すごいわ、流石シュナ」
「言われなくても分かってるわ」
「あ、あいつ調子に乗ってないか」
大男の言葉には誰も答えず、彼は不満を押し殺した顔でまた黙った。階下では、獣皮の男に肩を貫かれた女が悲鳴を挙げ、不気味な歓声が響いた。だが、シュナはそれを見る事もなく、つまらなそうに爪をいじくっていた。
「……」
牛男は黙ったまま石造りの階段を上り、屋上まで来ていた。その屋上にも豪華な彫刻がそこかしこに刻まれていたが、彼にはどうでもよかった。誰かのために細やかな作業をする、という事は彼の趣向からはかけ離れたものだった。
彼はこれもまた複雑な装飾の施された鉄製の手すりに、のろのろと体を預けて煙草を吸おうとポケットを探った。ジーンズのポケットから取り出した煙草は、ケースだけで中身は入っていなかった。牛男は小さく舌打ちし、空箱を握りつぶして手すりの向こうに放り投げた。
ゴミを投げた方向に人影が見えた。
見覚えのある姿。
昼間襲ったバーに居た、悪魔憑き。
牛男は先ほどまでの退屈そうな動きが嘘のように、柵から思い切り身を乗り出した。明らかな敵意を持ちながらこちらに向かってくる彼女たちの姿を瞳に映しながら、牛男は口角を吊り上げ、歯を見せた。
「……お楽しみの時間だ」




