シュナ
エレベーターから降りると、張り詰めた空気に足が止まった。
上から大きな音が聞こえたので慌てて戻って来たのだけれど、エレベーターから一歩踏み出したところで私の体は固まった。
ひりついた空気の他にも、がらがらと何かが崩れる音や、異様にほこりっぽい空気が異常事態だということを私に知らせていた。廊下の奥からバーの方を見ると、御鬼上さんたち四人が見えた。
全員が武器を構え、ただならぬ気配を纏っている。どういう状況なのか把握するために、少しずつ足を動かして彼女たちに近づき、少し離れた場所から様子を伺った。
「今すぐ謝って腕のいい大工紹介してくれんなら許してやる」
御鬼上さんはいつものように軽口を叩いているが、銃の引き金には指がかかり、刀身からは淡く炎が揺らめいていた。彼女の奥には五人の人影が――いや、人ではなくあそこにいるのは悪魔憑きだろう。真ん中の女性はともかく、他の四人は明らかに異形だ。
「おいシュナ、どいつからやればいい」
男が低く発した短い言葉だけで、全身の骨が震えるようだった。浅黒いの男の頭には捻じれた角が二本生え、その体には鎧と見紛うほどの筋肉を身に纏っているのが、服の上からでも分かった。
「おいおい、日本語は正しく使えよ。どいつに『やられればいい』、だろ? 牛さんみたいな素敵な角生やす時に語彙力吸われちまったのか?」
御鬼上さんがこれでもかと嘲笑の色を込めて言い放つと、牛の悪魔の筋肉がぶるりと震えたのが分かった。
「……あいつは俺がもらう」
「牛窪さんは相変わらずせっかちだねぇ!」
妙なイントネーションで喋り、げらげらと笑う男は、血濡れの獣の皮をかぶっているような風貌だった。だけどその皮は肌を一体化していて、その奥から覗く眼の光は、思わず目を背けたくなるようなねばついた狂気を感じた。
「俺は女なら誰でもいいぜシュナぁ。綺麗な悲鳴を挙げてくれんならベストだがぁ――」
銃声が轟くと同時に、獣皮の男が身を翻した。王狼さんの構えた銃の口から煙が立ち上っていたぐるりと宙を舞って着地した獣側の男は、不自然なほど冷たい視線を王狼さんに向けた。
「……いいねぇ、お前にしようかぁ」
「構わないけど、指名料をいただくよ」
「へぇ、おいくらでぇ?」
「キミたちの命……と思ったけど、全然足りなそうだね」
獣皮の男はまた下品に笑うと、獣のように四つん這いの姿勢になり、人と獣の中間のような、全身が泡立つような唸り声をあげた。その前に別の一人が立ちふさがった。
「シュナに許可取らずに勝手しないでよ」
四人のうち一人は女だった。形状こそ人間に近かったが、その肌は妙に赤色が強く、羽織っている上着のようなものからは禍々しい棘が隙間なく生えており、軽薄そうな声が発せらる度に開く口の中から、人間とはかけ離れた数の牙が見えた。
「シュナの言う事聞いてれば間違いないの」
「そっ、そうだ。シュナが全部正しい……」
「あんたは黙ってなよブサイク」
酷い言葉を投げかけられたのは大男だった。周りの人間より二回りは大きいだろう。花牙爪さんより大きいかもしれない。顔や肌のところどころが爛れた痛々しい姿だったが、両腕だけは鋼鉄のような光沢を放っていた。
「つまんねえ演劇みたいに順番に喋ってんじゃねえよ」
「そうだね、とっととお引き取り願いたいね」
「あはは~☆ 同感~☆」
「……人の振り見て我が振り直せ」
順番に喋った御鬼上さんたちだったが、場の空気は張り詰めるばかりだ。次の瞬間には血みどろの戦いが始まるような悪寒に、私は喉を鳴らした。
それにしても、なんだろうか。彼らの言葉を聞いて、私の心にずしりと重い何かが覆いかぶさってきたような感覚だ。これは一体なんだろう。彼らは何て言ってた。皆口をそろえて言っていたのは、一人の名前。
シュナ、しゅな……珠奈――。
「悪いけど、あんた達にはここから出て行って――」
「―――――ッ!!」
その声を聞いた瞬間、私の喉の奥から声にならない悲鳴が上がり、全身が縮み上がるような感覚に襲われた。全身から汗が噴き出る、膝が震える、頭がくらくらす、吐き気がする。私はその場で立っていることもできずに、ふらふらとその場にしゃがみこんだ。
「おい、どうした真理矢――」
御鬼上さんの声を追いかけるように、何かが壊れる激しい衝撃音が鼓膜を揺さぶる。煙のように立ち上る埃の向こうに、倒れた御鬼上さんたちが見えた。私に気を取られた隙に奴らの攻撃を受けてしまったのだと分かった。
「まりや? そこにいるの真理矢なの?」
私は震える視線を声の主に向けた。勘違いじゃなかった。忘れるはずもない。この声、この喋り方。心臓が痛いくらいに跳ねまわり、胸がキリキリ痛む。息が苦しい、呼吸がうまくできない。
「あっははは!なにその恰好。ゴブリン? バッカみたい」
なんとか、なんとかしないと。御鬼上さん……ああごめんなさい、私のせいで。私に気を取られたせいで。胸に当てた手を痛くなるほど押し付けても鼓動は収まらない。耳鳴りが収まらない。どうしよう、どうしよう。
「でも、その目は元のまんまなのね……」
何度も、何度も聞いたこの声。
息が詰まる。
体がかってに内側へと縮こまっていく。
「あんたたち、そこにいる不細工を殺しなさい。できるかぎりむごたらしくね」
誰か、誰か助けて――。
「なに盛り上がってんだガキども」
ごきり、と聞き覚えのある音が聞こえた。
私の視線を彼女から遮るように誰かが前に立った。
洗濯したての、綺麗な白衣。
「は、かせ……」
「なによあんた」
ハカセはごきごきと肩を鳴らすと、手にしたスマホをひらひらと振ってみせた。
「不法侵入者が居まって通報しておいた。じきに聖歌隊がやってくる」
「あんた達も悪魔憑きでしょ? 聖歌隊が助けに来ると思ってるわけ?」
「大人には色々なつながりがあるんだよガキ。……ほれみろ」
ハカセが彼女たちの後ろに向けてくいと顎を動かした。五人が振り返ると、遠くの空に青白い光が見え、こちらに近づいてくる。あれは聖歌隊の装備の光だ。数人の聖歌隊が間違いなくこちらに向かってきていた。
「あら本当ね」
「聖歌隊はともかくとして、ブチギレたこいつらとここでやり合ってほしくはないんでね」
ハカセの周りにはいつの間にか御鬼上さんたちが揃って立っていた。こちらの背をむけているので表情は見えなかったけど、その背中から放たれる殺気は、建物が歪んでいるかのように錯覚するほどだった。
「……ま、いいわ。続きは今度にしましょう」
「次会う時はお前さんたちが死ぬときだけどな」
「ダサい台詞。あんたにぴったりのお友達ね、真理矢?」
名前を呼ばれるだけで、喉が妙な音を立てる。
震えが止まらなくなる。
意識が、保てなくなる。
「じゃあまたね、ま・り・や?」
そう言い残して、彼女たちは消えた。
やっと呼吸がまともにできるようになる。
でも、鼓動はまだ収まらない。
汗でべたついた肌が気持ち悪い。
耳鳴りがキンキンとうるさい。
間違いない、彼女の名前は――瀬川和珠奈。
私は一度、彼女に壊された。




