ハカセ という人間
「いいから脱いでくださいよ!!」
「やめろ私の一張羅だぞ!!」
私は朝からハカセを追いかけまわしていた。それというのも、ハカセがずっと着ている白衣を洗濯したいからだ。初めは同じような白衣を着まわしているのかとも思ったけど、そうではないと気が付いた。臭いとかそういうわけではないが、洗濯していて白衣を干した記憶がないのだ。というか今、一張羅って言ってたし。
「不衛生ですから!」
「衛生観念からかけ離れた見た目して何言ってる!」
「好きでこんな姿になってんじゃないですよ!!」
あまりにも逃げ回るのでついお腹の力を緩めてしまい、ゴブリンの姿になってしまった。だけど服は無事だ。ちょっとした気のゆるみでお気に入りの服を失う悲しみを幾度も乗り越え、私は破け散る前に早脱ぎするスキルを身に着けていた。
乙女が身に着けるスキルではない。
悲しき業を背負った狂戦士のような気持ちになりながらも、ようやくハカセを捕まえた。かと思ったら、どろんという音と共に煙が巻き起こり、掴んでいたはずのハカセは等身大の丸太に変わっていた。
「ふははは! 変わり身の術だ!」
「忍者ですかあんたは!」
なぜか勝ち誇ったかのように腕を組むハカセに、ゴブリンの細長い指を向ける。
「服だけじゃなくて色々言いたいことはあるんですよ! ちゃんとご飯食べてないでお菓子ばっか食べて! 健康に悪いですよ!!」
「お前は母ちゃんか! いいんだよ健康なんて気にしなくて!」
「コーヒーもほどほどにしてくださいよ!! そんなだから寝られなくなってクマがべっとり張り付いて取れないんですよ!!」
「うっせー! バーカバーカ!」
頭の悪い小学生のような悪態をつき、ハカセはひらりと吹き抜けから飛び降り、どこかへと姿を消した。逃がしてなるものか。今まで何度も洗濯してくださいとお願いしたのに一向に聞き入れてくれなかったあっちが悪い。今日という今日は絶対に洗濯してやる。私はどたばたと階段を駆け下りた。
「なに騒いでんだよ」
「御鬼上さん、ハカセどこいったか知りませんか!」
「この階にいないなら研究所じゃねえの」
「研究所ってどこですか!」
「一階の突き当り、エレベーターあんだろ。それで地下に行けんだよ」
あのエレベーター、そんなところにつながっていたのか。御鬼上さんに「ありがとうございます!」と伝えてバースペースを通り抜け、奥の倉庫をやり過ごしてエレベーターの前に立った。
妙に古めかしい蛇腹扉のエレベーターだ。当然呼び出しボタンのような物があると思って探すが、周りにはそれらしきものは見当たらなかった。扉に触ってみたり外枠に手を当ててみたりしても、何の反応もない。
「ええいあの白衣め……!」
「あはは~☆ どうしたの怖い顔して~☆」
「キミはそんな顔でも美しいね」
ふらりと現れた二人に事情を説明する。
「ああ~☆ ここはハカセしか使い方しらないんだよね~☆」
「何度かこれに乗って行ったことはあるけど、ハカセ同伴だったからね」
「そうですか……」
「あ、でもここ以外にも入口あるって言ってたかも~☆」
「そういえば、いざという時の脱出用にと……」
「本当ですか!!」
「確か花壇辺りに出口があるとか」
花壇、そう言えばお花のお世話をしていた時に鉄製の蓋を見かけたような。私は二人にお礼を言って、悪魔兎のドアベルを鳴らして外に出た。
デビルバニーの裏手に花壇はある。私が来たばかりの頃はあまり手入れされてなかったから、好き勝手にいじらせてもらっていた。今は確かパンジーが植わっているはずだ。建物の角を曲がって花壇に向かうと、大きな人影が見えた。
花壇の真ん中に花牙爪さんがいた。花壇の真ん中にぺたんと座り、彼女の周りには花に集まる蝶々たちがふわふわと舞っている。そんなマイナスイオン空間に踏み込むのは気が引けたけど、苛立ちに任せて足を動かす。
「……どうかした?」
「あ、その下に入りたくてですね」
花牙爪さんが座っている場所が恐らく研究所の裏口だ。彼女をどかしてしまったことを申し訳なく思いながら鉄の蓋を調べる。ぴっちりと閉じられていて指どころか爪をかける隙間もない。
どうしたものかと考えていると激しい金属音が一度、花壇に響き渡った。蝶々は慌てて花壇を離れ、残されたのはゴブリンと魔物が一人。少し間を開けて鉄の蓋は耳障りな音を響かせながら下へと沈んでいく。花牙爪さんが切り裂いてくれたらしい。
「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
蓋があった場所は四角い穴になってしまっていた。足元に注意しながら飛び降り、見下ろしてくる花牙爪さんに「大丈夫です」と伝える。切り裂かれた蓋は、蓋と呼ぶにはあまりにも分厚い代物だった。お高いマットレスだってこんなに厚くはないだろう。
……これ後で怒られそうだな。
ひとまず先の事は考えないようにして、白熱電球が照らす無機質な階段を下りていく。およそ一階分くらい降りると、これもまた無機質な廊下が現れ、数メートル先に未来チックで重厚な扉が見えた。その横には例の古めかしいエレベーターもあって、妙な対比がそこに産まれていた。
なんだかちょっと怖くなってきた。
今更だけど、なんでここまで追いかけてきてしまったのだろう。白衣なんていつでも洗えたのに。そもそも嫌がるには理由があるんだから無理強いするのは良くない事じゃないか。
でも、今更引き返せないような気がして、私は足を無理に動かして扉に近づいた。扉はその見た目とは裏腹に僅かな音を立てて自動で開いた。恐る恐る中に入ってみるけど、薄暗くてほとんど見えなかった。照明器具は動いておらず、そこかしこにある機材のランプやモニターの明かりしかこの部屋を照らすものはない。
「裏口まで使って来るかね普通」
暗闇から現れたハカセに肩が跳ねる。
「驚きたいのはこっちだ、いきなりラボにゴブリンが居たんだから」
「好きでこの体になったんじゃないんですってば」
ハカセは鼻で笑うと、手近な椅子に腰掛けてモニターに向かってしまった。それきりなにも喋らなくなってしまった。直接出て行けと言われるより空気が重くなったような気がして、私は何も言い出すことができず、目まぐるしく文字や数字が流れていくモニターを見る事しかできなかった。
「なんで私に構う」
ぽつりと、ハカセが小さな声で言った。
「え、なんでって……」
「仲良くするなら他の奴らにしろ。私の事は放っておけ」
「なんですか急に、前は何とかプリンターとか自慢しにきたじゃないですか」
「……研究の成果が出て少しハイになっただけだ」
「……」
「あんまり私に構うな。時間は有意義に使え」
ハカセはそれだけ言うと、ごきりと肩を鳴らしてからモニターに向かい、そのまま黙って作業を始めてしまった。私は小さく息を吐き出し、ハカセに歩み寄ってその肩に手を置いた。
明らかに不快そうな顔を向けてきたハカセに微笑みかけ、そのままぐっと指を押し込む。思った通りがちがちで板みたいな肩をゆっくりと揉んでいく。ハカセの表情は険しいままだけど、その種類が変わったのが何となくわかった。
「話聞いてたか……?」
「ハカセ、いつも肩を鳴らしてたから凝ってるんだろうなと思いまして」
「何言ってんだ」
「せっかく一緒に住んでるんですから、『構うな』なんて寂しい事言わないでくださいよ」
「……」
「白衣のことはごめんなさい。今度から本当に嫌な事はしませんから。ちなみに、これは嫌ですか?」
「……いや、続けてもいいぞ」
言い方が素直じゃないなあ、なんてつい笑ってしまうとハカセに小突かれた。それから少しの間私は黙ってハカセの肩を揉みほぐした。素人の私じゃ大してほぐせなかったけど、ハカセは「ありがとう」と言ってくれた。
「それじゃあ、私はこれで」
そのまま立ち去ろうとハカセから離れると、「おい」と呼び止められた。振り向くと同時に私の視界は真っ暗になった。何か布のような物が私に覆いかぶさっていた。なんだなんだと慌ててその布をどける。それは薄汚れた白衣だ。ほんのり……いや、しっかりハカセの匂いがする。
「洗濯、頼むよ」
「は、はい!」
「あと今日の飯は……なんかコーヒーに合うもんがいいな」
「もちろんです! とびきり美味しいのご用意しますね!」
「……あ、あともう一つ」
「はい! なんですか?」
「裏口の扉の弁償分、明日からバリバリ働いてもらうからな」
ハカセの口元はにっこりと弧を描いていたが、目は笑っていなかった。
私はその顔をみて、引きつった笑みを返すことしかできなかった。




