その④
目の前の巨大な蛇が、ずるずると近づいてくる。
それはただの巨大な蛇ではなく、蛇の頭の部分に人間の上半身がくっついていた。筋肉質な男性、といった見た目だが、その巨大さと異様な目つきで人間ではないと一見して分かる。
「うまそうな奴らだ、やっぱり食うなら女だな」
「わあ~☆ ムリ~☆」
私を地面に降ろすと、蛙田さんはケロケロと笑った。それに合わせるように、蛇の悪魔もニヤリと笑ってから口を開き、毒液を噴射してきた。ぎゃっと悲鳴をあげながら、私はとっさに蛙田さんの背後でうずくまった。
だが、今度は蛙田さんに抱きかかえられて跳ねまわることもなく、蛇の毒で溶かされることもなく、ただそのままだった。恐る恐る顔を上げると、蛙田さんの周りに黒い触手のようなものが浮いているのが分かった。
さっき私を掴み上げてくれたものと似ている。でもその形は少し違う。先端がぷっくりと膨れ、紫色の液体を滴らせている。なんか見たことがある。ああ、お魚の形のお醤油入れみたいだ。
「なんだあそりゃ……」
「お返し~☆」
蛙田さんがかくんと首を傾けると、膨らんだ触手の先から一斉に毒液が蛇に向けて噴射された。蛇は体をくねらせ毒液をかわした。
「いいねえ、いつまで耐えられるかな?」
「試してみたら~?」
蛇は大口を開け、今までとは比べ物にならない量の毒液の弾幕を張った。悲鳴をあげる私をよそに、蛙田さんへらりと立ったまま、触手でそれを全て受け止め跳ね返す。蛇も跳ね返された毒の弾丸をすべてかわしながら、弾幕を張り続ける。
一分ほど続いただろうか。蛇の背後にあった建物はどろどろに溶け、瓦礫すら残っていない。すべてかわしたのは恐ろしい反射速度だが、弾幕を張り続けていた蛇男は肩で息をしていた。対して蛙田さんは――。
「おしまい~?」
初めに立っていた位置から微動だにせず、首をかしげてそう言った。蛇男は一瞬目を見開き驚きの色を見せたが、すぐに顔色は怒りのものへと変わった。
「ああそうだ、終わりだ……お遊びの時間はな!」
叫ぶと同時に、人間の体のような部分が鱗に覆われ始めた。十秒もしないうちに蛇男の上半身部分は完全に巨大な蛇の頭に変わっていた。蛇男はそのまま闇の中に消えた。だが、逃げたわけではないのは、四方八方から聞こえる不気味な這いずり音で分かった。
暗闇の中から大口を開けた蛇の頭が飛び出した、と気づいた時には私は蛙田さんに抱えられて宙に浮いていた。下を見ると巨大な蛇の体がまるで列車のように暗闇から暗闇へ移動している。
「危ない危ない~☆」
「そうですね…ってあああああ!蛙田さん足ぃいいいい!!」
蛙田さんの片足が無くなっていた。
「ああ~! あのニーハイ気に入ってたのに~」
「そんなこと言ってる場合ですかあ!!」
「だいじょぶだいじょぶ~☆」
蛙田さんは何でもないという風に笑い、そのまま片足で着地した。――と思ったら、何故か蛙田さんの足はちゃんと二本あった。カエルのニーハイは無くなり、生足になっていたけど、間違いなくちゃんとした足だった。
「え、生え…ええ!?」
「ワタシ体じょうぶだから~☆」
体が丈夫とかそう言う問題ではない気がする。まあ無事ならいいやと安心したのもつかの間、また蛇が暗闇から突撃してくる。蛙田さんはビルからビルへ飛び回ってかわすが、徐々に飛び出してくる感覚が短くなってきている。このままじゃいつか捕まる。
「も~面倒だね~☆」
「ど、どうしましょう」
「ん~☆ それ、ちょうどいいかな~☆」
蛙田さんが指を差したのは、私の胸元。何かで切ったのか、いつの間にか血が少し出ていた。蛙田さんは私を正面に抱きなおすと、ぺろりと長い舌を見せ、
「いただきま~す☆」
私の胸に舌を這わせた。
胸の下側にぴとりとくっついた長い舌が、僅かに滴る血を唾液に浸み込ませながら、ゆっくりと這い上がってくる。熱くぬめった舌が胸を優しく這いのぼる、ぞわぞわとした感覚に、私は蛙田さんの服をきゅっと掴んだ。
まあ、胸舐められてるの半裸のゴブリンなんですけどね。
胸と言うか、うっすい胸筋舐められてるだけですけどね。
「ん~☆ いい感じ~?」
蛙田さんが舌を口内に戻すと、彼女の肌がぬるりとした粘液に覆われ始めた。肌に太入れ墨のような模様が浮かび上がり、手や足に水かきが生えてくる。まごうことなき悪魔、蛙の悪魔だ。
「あはは~☆ あばれた~い☆」
いうや否や、蛙田さんは地を蹴り壁を蹴り、やたらめったらに跳ねまわった。抱えられているこっちはたまったもんじゃない。絶叫マシンだってもっと大人しいだろうという勢いで上下前後左右に揺さぶられ続け、私は悲鳴すらあげられなかった。
蛙田さんが飛び跳ねる度に、巨大なハンマーでコンクリをぶっ叩くような音と衝撃がビルの壁に与えられる。しかもそれがあちらこちらに立て続けに与えられれば、まともに建っていられる建物はないだろう。
路地裏の小さな広場を囲んでいたビルは、あっと言う間に崩れて瓦礫の山になり、その下に居た蛇男は生き埋めになってしまった。
「はい、終わり~☆」
すとんと着地した蛙田さんはひらりと両手を広げた。その横で私は「うぅおえっ……!」っと冒頭とは違う吐き気に襲われていた。
「あはは~☆ 大丈夫~?」
「らい、じょうぶれふ……」
「楽しかったね~☆」
「楽しくなんか……!」
突然、なにかが崩れるような音。
蛙田さんの上半身があった場所に、巨大な蛇の顔が。
私の全身に赤い血が飛び散る。
その下には、蛙田さんの足だけが――。
「かえるだ…さ……ッ!!」
「は、ははは……馬鹿が、油断しやがった」
血だらけの巨大な蛇は、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。おそらく、蛙田さんの上半身を。
「カエルは蛇に食われるもんだ」
「あ、あ……」
「安心しろ、腹の中で一緒にどろどろに溶かしてやるよ」
がぱ、と音を立てて目の前で蛇が口を開く。
ああ、食べられる。
そう思ったら体が言う事を聞かなくなった。
迫りくる蛇の頭。
その横に、上半身が更に開放的になった蛙田さんが居た。
「ッ!? なぁっ!?」
「がッ…がえるだざんッ!?」
「あはは~☆ その顔いいね~☆」
パシャリとスマホを鳴らす蛙田さんに私は飛びついた。蛇もいきなりのことでうろたえ、後退って私たちと距離をとった。
「てめえどうやって……?」
「ほら~☆ ワタシって体じょうぶだから~☆」
「上半身持ってかれても大丈夫なんですか!?」
「そうだよ~☆ 流石にちょっと痛いけどね~☆」
「言ってくださいよ! 死んじゃったかと思いましたよ!」
泣きながら言う私に「ごめんごめん~☆」と言いながら蛙田さんはスマホをかざした。画面の中から小さな触手のような物が現れ、私の腕をチクリと刺した。
「痛っ…なんですか?」
「ん~とね~☆ 血清ってやつ~?」
「けっ…なんですか?」
ふと、蛇男の様子がおかしい事に気が付いた。私たちに襲い掛かるでもなく、何かを喋るわけでもなく、ただその場で静止していた。巨大な蛇の体はぶるぶると震えだし、その場に倒れ込んでしまった。
「私の血ってすんごい毒持ってるんだ~☆ ステロイドアルカロイドのお友だちの毒素……ステロイドアルカロイドってわかる~? じゃが芋の芽とか熟してないトマトにもあるんだって~☆ あはは~☆ ハカセって物知りだよね~☆」
蛙田さんは声もなく口をぱくぱく動かす蛇を見下ろし、話し続ける。
「そうそう~☆ 私の毒素はケロトキシンって名前なんだけど~☆ その名前はハカセにつけてもらったの~☆ 可愛くない~? センスよくない~? バエルよね~?」
蛇は口を動かすこともできずに、痙攣し始めた。
「体を動かすのも億劫になってきた~? 息が苦しくなってきた~? 毒入りの私の血、たっくさん飲んじゃったもんね~☆ 貴方の臓器は今ぜ~んぶすかすかのスポンジみたいになってるの~☆」
いつものつかみどころのないふわふわとした声で、ただ淡々と自分の毒について説明する蛙田さんに、背筋が冷えた。
「でも痛みはないよね~? 麻酔の効果もあるからね~☆ あはは~☆ 優しいでしょ~☆」
巨大な蛇の頭部が人間の姿に戻り、蛙田さんに向けて震える手を差し伸ばした
「あはは~☆ 助けてほしいカンジ~? さっきマリヤちゃんに打ったような血清はあるけど~……あれはオトモダチにしかあげないの~☆ だから貴方はだ~め~☆」
蛇男の腕が、がくりと地面に落ちた。
「あ~あ~☆ 死んじゃったね~☆」
蛙田さんはかくんと首を傾け、なんでもないように言った。




