さよなら
蝶華さんは穏やかな顔でこちらを見ていて、そこにはもう敵意はなく、懐かしい友人を見る目を、爪を広げて歩み寄る紫陽さんに向けていた。千晴さんたちも、満身創痍の体で、その様子を見守っていた。
「ま、待ってください! 紫陽さん!!」
私は思わず叫んでいた。煌びやかな絨毯の上を進んでいた紫陽さんの足が止まった。
「蝶華さんが戻ったなら、殺すことはないんじゃ……」
「だめだ。こいつは危険すぎる」
私の問いかけに応えたのは、意外にもハカセだった。異論は受け付けないといった、強い語気だった。意外なところからきた反対の声に一瞬たじろいだけど、私は引き下がらなかった。だって、蝶華さんが生きていられるなら、それが一番だ。紫陽さんだってそう思っているはずだ。
「八仙……いや、違うね……紫陽、いいお友達ができたのね。優しくて強い、いいお友達が」
蝶華さんが、私を見ながら笑顔でそう言った。
「どうしようもない私を、助けてくれようとしてる。心の優しい人」
「だって、誰かを傷つけたのは禹夏じゃないですか!だったら蝶華さんが死ぬことなんて……」
「そうね、禹夏は沢山の人を傷つけた。命を奪った。だからあの子は地獄に落ちるでしょうね」
蝶華さんは、禹夏の亡骸を見ながら寂しそうに呟いた。
「でも、禹夏は形は歪んでいたけど私の理想を叶えようとしてくれていた。言い換えれば私のせいで禹夏は人を殺める選択をしてしまった」
「そんなの、貴女の責任だなんて誰も思わないですよ!」
「それにね、禹夏は紫陽と同じくらい……大切な、人だった……」
彼女の目に、涙がたまっているのを見て、私は口をつぐんだ。
「だから、禹夏をひとりぼっちで行かせたくない、それに……」
「でも、なにか……なにかないんですか!今決めなくてもいつか何か……ハカセ!」
「いや、駄目だ。今は蝶華の意識が強く残っているが、いずれ『別の何か』になる……魔と聖の力を無造作に解放して、まともでいられるはずがない」
「……その白衣の方が言った通り。だんだん、『私』が無くなっていく感覚がある。体も、思うように動かないの……」
確かに、先程から蝶華さんは自身の体を抱き締めるような姿勢のまま動いていなかった。禹夏を抱き締めるように見えていたその姿勢は、今は何かを押さえ込んでいるように映った。
「今も、こうしているだけで精一杯……なの……!」
蝶華さんの体は勝手に再生し始めていた。枯れていたはずの羽が軋むような音を立て持ち上がり、木の成長をはや回してみているかのような速度で、白と黒の羽が再生している。これは聖の再生能力なのか。これではおそらく彼女自身の手で自決もできないだろう。
「だから、ごめんね紫陽、お願いできる……?」
「……うん」
「……紫陽、キツいなら私らにまかせてもいいんだぞ」
蝶華さんに向けて足を踏み出した紫陽さんの背に、千晴さんが投げかけた。紫陽は僅かにこちらに顔をむけると、小さく首を横に振った。ほかならぬ彼女自身が、自らの手で終わりにしたいと望んでいる。私たちは、もう何も言うことはできなかった。
「……蝶華」
「ごめんね紫陽、貴女にばかり辛い役回りをさせて……」
紫陽さんは静かに頷くと、音も立てずに右手を持ち上げ、爪を構えた。気が付くと私は彼女の傍らに立っていた。紫陽さんの爪を、魔物の手を、私の手でしっかりと握った。ゴブリンの皮膚がわずかに傷付き、血が手のひらを流れ落ちたけど、私は構わず彼女の手を握り続けた。止めようとなんてしていない。ただ、これから起こることを紫陽さんのすぐ隣で見ていなきゃだめだと思った。紫陽さんの痛みを、少しでも理解したかった。
紫陽さんは驚いたように私を見下ろした。目が合うと、紫陽さんの目は涙こそ流れていなかったけれど、悲しみで赤く腫れていた。私が握った手に力を込めてうなづくと、紫陽さんはふっと笑って、口を開いら。
――ありがとう。
声は聞こえなかったけど、紫陽さんがそう言ったのだと、なぜか理解できた。少しでも、彼女の痛みを共有したい。何の役にも立てない私だけど、せめてみんなのそばに居たい。そんな想いが通じたのだと心で感じた。
「本当に、本当にいいお友達ができたのね、紫陽……」
「……うん、私はもう大丈夫」
「あのね、紫陽……もし生まれ変わることができたら――また三人で一緒に遊ぼう?」
「……うん、約束――――」
紫陽さんは優しい声でそう応え、その爪で蝶華さんの首を切り落とした。赤と黒が混じったような血がしぶき、蝶華さんの首がごとんと床に落ちる。地面に転がった蝶華さんの顔は、とても安らいでいて、笑みを浮かべているようにさえ見える顔つきだった。首を失った体は、白い粒子となって崩れ落ち、やがて蝶華さんは光の粒となって飛散していく。
私はその光景を見届けてから、紫陽さんの顔を見た。
紫陽さんは見たこともない優しい顔をしていた。想っていた相手の願いを叶えることができたという、誰かを想う気持ちが表れた顔だった。でも、その瞳からは涙が零れ落ちていた。とめどなくあふれ出るそれは静かに頬を流れ落ちていく。紫陽さんはそれを拭おうともせずに、消えゆく蝶華さんの光を見ていた。
「……さよなら、蝶華」