蝶の群れ
するりと闇の中から現れた蝶華さんは、なんでもないように私の横を通り過ぎて行った。その足取りは軽く、まるで優雅に踊っているかのようだ。水に濡れた煌びやかなドレスから水が滴り、床を濡らしている。徐々に渇き、輝きを増していくその衣服の様子は、まるで羽化したての蝶の羽が鮮やかに伸びていくようだった。美しくもあり、不気味でもあった。
私は何もできなかった。ただ呆然と、その光景を眺めていただけだ。紫陽さんも私と同じく、目を見開き立ち尽くしていた。禹夏の返り血を全身に浴び、真っ赤に染まった姿のまま、羽化した蝶華さんを見つめていた。蝶華さんはふわりと禹夏に近づき、優しく微笑むとその頬に触れた。それと同時に、禹夏の体が白い光に包まれた。その光が消えると禹夏の体からは陽花さんにつけられた傷が無くなっていた。
これは、聖女の回復能力――。
「ふふ、初めてやったけど上手くいったわ」
鈴を転がすような可愛らしい声が、逆に不気味だった。
「でも、なんていうか……こうして『自分』を外からみると、変な気持ちだね」
「じ、自分?」
「そうだよ、私は禹夏だ。体も声も蝶華だけど中身は私さ」
「なんでそんな……」
紫陽さんがぽつりとつぶやくと、蝶華さんは――禹夏は、口角を引き上げて笑った。
「蝶華は聖女の資質があった。だから『協力』してもらったんだ、蝶華の理想のために! 悪魔憑きに聖女の血肉を与えると格段に力が増す……その事を知っているのはお前たちだけだとでも思っていたのか!? 聖女の血を精製するだけを心臓を動かし、私の能力を、脳を! 蝶華の中に移植した!! 私は最強の悪魔憑きとなった! ずいぶんと時間がかかったけれど……こうして上手くいったのさ!!」
禹夏は蝶華さんの体の中で大笑いすると、こほんと小さく咳払いした。
「いけない、蝶華はこんな笑い方しないよね」
「……禹夏、お前どこまで……っ!」
怒りを通り越した、絶望の声をあげる紫陽さんを一瞥すると、禹夏は静かに腕を広げた。広げた両腕の後ろ、蝶華さんの艶やかな黒髪が浮き立ち始め、根元から赤く色付き始めた。長髪は瞬く間に鮮やかに変色し、二つに分かたれ広がる赤髪は、美しい蝶の羽のようだった。羽の髪が羽ばたくと、小さな赤い蝶が無数に放たれた。その数は尋常ではなく、あっという間に視界を埋め尽くし禹夏の体を隠すほどだった。それらはゆっくりと私たちに向かってきた。私たちは慌てて飛び退き距離を取った。でも、室内でこの数の蝶はどう考えても避けきれない。
何度も距離をとり、ゆったりと近づいてくる蝶の大群を避ける。繰り返していくうちに逃げ場がなくなり、ついに大群ひとつが私の体にぶつかった。痛くはなかった。むしろ触れたところから痛みが消えていった。それは心地よく、思わず身を委ねてしまいそうな感覚だった。
「……いッ!」
しかし、すぐに異変が起きた。蝶が当たったところから、何かが吸い取られていくのだ。血が、体力が、私の中にある魔力や聖女の力が。蝶はまるで生きているかのように、私の『内容物』を貪り喰っていた。私は急いでその蝶を手で振り払った。
「ふふ、見た目はゴブリンさんでもきちんと聖女の力があるのね」
蝶はひらりと宙に舞いながら禹夏の肩に戻った。そしてまた蝶の群れを解き放った。今度は先ほどよりも多く、一気に襲い掛かってきた。私と紫陽さんは蝶の攻撃を避けきれず、まともに受けてしまった。その度に、蝶は私の中にあった何かを奪っていく。私は何とかしてその蝶を払おうと手を振り回したが、何匹かの蝶を払うことしかできなかった。
「う、ぐぅ……」
紫陽さんは膝をつき、苦しそうに胸を押さえている。顔色は青白く、今にも倒れそうだ。
「やめて……やめてよ……!」
「あら、あなたは元気なのね。流石は魔と聖を宿す『鎖』ね……私と同じ……」
禹夏はそう言うと、指先で軽く自分の唇に触れた。
「でも残念。『扉』を縛るにはまだ早そう」
「なにを……言ってるの……?」
「ふふ、『扉』を縛る『鎖』、それとそれを留める『4つの鍵』それが私の、蝶華の目的に必要なものなの」
「どういう……意味……」
「死んじゃうあなた達に教えてあげる意味はないわ」
蝶の大群の隙間から蝶華さんの顔で笑う禹夏が見えた。
「じゃあ、そろそろ終わりにしましょうか。紫陽はもう動けないみたいだし、私も忙しいからね」
「うぅっ、ぐぅ……ッ!」
私はなんとか立ち上がり、両手を前に突き出した。蝶を掴んで止めようとしたけど無駄だった。それどころか、蝶に触れるだけでさらに体の力を奪われてしまう。それでも私は諦めずに、蝶の先に居る禹夏に手を伸ばし続けた。だけど、赤い群れの向こうに抜ける事はできなかった。
「……さようなら、ゴブリンの聖女さん――」
笑みを浮かべる蝶華。その頭に風穴が空き、鮮血が噴き出した。ぎょろりと蝶華の眼球が蠢き、蝶の群れの隙間から彼女の顔が消えた。大群の蝶の向こう側から聞こえる、ガラスが割れた音、争うような声、打撃音。何かが溶ける不快な音と臭いと共に、私たちの体を覆いつくしていた蝶が溶けて消えた。開けた視界に映ったのは、見覚えのある3人の背中。
千晴さん、ルディさん、きらりさん――。