その②
屋上から落っこちる数時間前――そんなことになるとは露知らず、私はのん気にプリンを見ながらゴブリン顔のままニヤついていた。前までは鏡に映る自分の姿に悲鳴をあげていたけど、今は乾いた笑いが出るだけだからもう大丈夫だ。
うん、大丈夫だ。
「田中ぁ、朗報だぞ」
「へ?」
突然現れたハカセはそう言いながら試験管の中身を私にぶっかけた。なんなの、ビックリしてプリン落っことしちゃったんですが。
「ぶわっ! なにすんですか!」
「ちょっと腹に力入れてみろ。ほれ、鏡の前で腹引っ込める時みたいに」
「なんなんですかもう」
ハカセはコーヒーを啜りながら「いいから」としか言わないので、落ちたプリンを片付けてから、仕方なくグッとお腹を引っ込める。なんだか懐かしい動き。ゴブリンになってからは一度も……いや、別に人間の時に頻繁にやってたわけではないからね。
「う……!?」
お腹に力を込めると、ぞわぞわと全身が震えるような泡立つような、奇妙な感覚に囚われた。ハカセに目を向けると「そのまま」というようなジェスチャーをしたので従う。全身のぞわぞわはさらに増していき、突然ぱっと消え去った。
「どうだ?」
「どうってなにがですか?」
「自分の姿、見てみな」
「すがたって――」
手が、緑色じゃない。
自分の顔をべたべたと触ると鼻も耳もとんがってない。
人間の姿に戻っている。
「ええ!? どうしてぇ!?」
「この間のサキュバスの魔素の解析が終わってね。見てくれを変える力があったもんで、そのへんを抽出して、うまい具合にちょこちょこ~っと、ね」
言ってる意味は一つも分からないけど、とにかく元の姿に戻れてよかった! おやつが落ちたのは悲しいけど本当に良かった!!
「ところでお前さん、ひとついいか?」
「なんですか?」
「胸、隠さなくていいのか」
ハカセが指さしたその先、自分の胸に視線を落とす。
そこにあったのは二つの肌色の山。
そのてっぺんには薄い桃色の――。
「でぇええああああいい!!!」
ゴブリンに慣れ過ぎてた! 胸モロだしで平気な顔してた! 乙女心に大ダメージ!! 絶叫して胸を隠した私の姿は一瞬でゴブリンに戻り、残ったのは乳首を隠す滑稽なゴブリンだけ。
「あれえ!? なんでえ!?」
「腹から力抜いたからだ」
「そんな簡単な事で戻っちゃうのお!?」
「そりゃたった一体の力だからな。完全に戻りたかったらもっと狩りな」
「そんなあ……」
「まあ、擬態はできるんだ。気晴らしになんか買い物にでも行ったらどうだ」
買い物。そういえばこの姿になってから一度も外に出てない。
「そ、そうですね、じゃあちょっとだけ」
「よし、このコーヒーミル買ってきてくれ。限定色、予約してあるから」
「お使いに行かせたいだけじゃないですか」
「ついでだよついで」
ハカセはメモを押し付けると、肩をごきごき鳴らしながら奥にひっこんでしまった。でも、久々に外に出れるのは嬉しい。何着て行こうかな。
色々と服で悩んでいたら結構時間が経っていたようで、ハカセに「早く行け」と怒られた。
◆
危険区から少し離れたお店通りで買い出しを済ませる。
なんだか久しぶりに街に出た。買い出しとかは御鬼上さんに任せていたから、久々のお買い物がたのしい。とはいえ買ったものはほとんど食料品とか日用雑貨だけど。あの人たちは本当によく食べる。
結構な量買っちゃったけど、思ったより重くない。もしかしてゴブリンになったから力がついたのかなーなんて思いつつ歩いていると、ドーナツが目に入り、足が止まった。
「おいしそ……」
丸く揚げられた生地が、きらびやかな砂糖のドレスで着飾っている、なんてね。
おつかいのご褒美にドーナツでも買っちゃおうかな。ほら、さっきハカセのせいでおやつ落としちゃったし。そう思ってしまったが最後、私の足は勝手にお店の中に向かっていた。中に入ると全身を包み込む甘い香り。うーん幸せ。
「さてさて……」
どれにしようかな。まあ、テイクアウトかな。お腹に力入れたまま食べるのはちょっと嫌だ。問題は目の前に並ぶドーナツから何を選ぶかだ。この中ならチョコレートクルーラーか、ハニーチェロスかな。
でも、流石に二つも食べたら乙女のお腹にお肉が付く。どっちにしようかとショーケースの前で悩んでいると、ふいに抱き寄せられた。
「どうしたの、お姫様」
そのまま頭に軽く口づけされて「びぇっ」っと奇声をあげて横を向くと、そこには短髪の美女が――王狼ルディさんがいた。
「きゅ、急にやめてくださいよもう!」
お腹の力を緩めたらゴブリンに戻るところだった。
「ごめんよ、あんまりにも可愛かったからついね。もうしないよ」
「そうしてください!」
「今度から声をかけてからするよ」
「そういうことじゃなくてですね……!」
この人は本当にスキンシップが激しい。今の姿ならまだしもゴブリンの時でもキザな台詞を平気で吐く。これで顔がいいから始末に負えない。その上すらっとした体で、声は低くてカッコいいなんてきたらもう……そのへんのイケメンなんて目じゃないって。
まあ、でかい銃背負ったままこういうところ来るのはどうかと思うけど。
「それで、どうかしたの。ずっとそれ見てたけど」
「ドーナツどっち食べようかなって……」
「じゃあ半分こしよう、それならどっちも食べられる」
私の返事を待たずに、王狼さんは店員さんに注文してしまう。私が悩んでたドーナツふたつと、カップ入りのドーナツポップがすぐに手渡される。あれ、と思っていると「あの子たちのぶん」と王狼さんは囁き、代金を払ってしまう。
「あ、出しますよ!」
「その姿に戻れたお祝いのひとつってことで」
ウィンクをひとつすると王狼さんはドーナツを受け取り、さっと出て行ってしまう。「払ってもらったら悪いですよ」と言ってついていくが、彼女はにこにこと笑うだけで取り合ってくれなかった。
「ところで、私が来たのは実は偶然じゃないんだ」
「え、もしかして……」
「そう、ハカセに言われてね。この辺りに悪魔憑きが潜んでいるらしい」