花牙爪紫陽という人間③
それからの日々は、とても穏やかだった。
蝶華は邸宅の庭の花壇によく居た。そこで彼女を膝に乗せて、空を飛ぶ鳥やひらひら舞う蝶を見ながら、二人で歌ったり、言葉を教えて貰うのが好きだった。そこには禹夏も必ずいて、三人で穏やかな時間を過ごした。
蝶華は本当にかわいい子だった。いつもにこにこと笑い、話すのが下手な私と辛抱強くおしゃべりしてくれた。私は人生で初めて、楽しいという感情を知った。私は蝶華のことが大好きだった。
私はだんだん、自分が悪魔の子だという事を忘れてきた。
そして、少しずつ人を傷つける事が怖くなってきた。
そのことを蝶華に話すと彼女は驚いたような顔になり、それから真剣な眼差しを私に向けてきた。その日の歌はそこで終わり、蝶華は夜に会いに来てほしいと言い残して屋敷に戻って行った。
言われた通り、夜に彼女の部屋を訪ねると薄暗い部屋で彼女は待っていた。その脇にはいつものように禹夏もいた。蝶華は今までにないくらいの低くて真剣な声で私に入るように言って、禹夏は急いで私の背後のドアを閉めた。
そして彼女は、計画を打ち明けてくれた。
大まかに言うと、『父親たちがしている事は間違っている、だから悪魔憑きたちを解放して元の暮らしに戻してあげたい』という事だった。正直細かい事は分からなかった。でも、禹夏が私に分かりやすい形で教えてくれた。
「蝶華の理想を邪魔する奴を、殺せばいいの」
その言葉を蝶華は色々と訂正していたけど、私には蝶華より禹夏の言葉の方が理解できた。とにかく、それから何回かこっそり会って準備を進めた。私は難しい事は分からなかったから、私の役目は暴れる事。
計画を打ち明けてくれてから半年、ついに決行の時が来た。
闘技場を見たいと蝶華がボスにお願いする。彼女はボスの隣のVIP席に案内されるから、そこに禹夏だけ付いて行く。私は下の闘技場で待機、試合が始まる前に地下牢を襲撃、制圧して悪魔憑きたちを開放する。
できるかぎり警備員は殺さないで、と蝶華にお願いされた。難しいけど頑張ろう、そう思って合図を待った。闘技場の喧騒の中、VIP席を見ていると青い光が見えた。決行の合図、私は地下へ飛び込んだ。
何かがおかしかった。
警備員というには重装備の奴らがわんさと居て、全然制圧なんてできなかった。いくらVIPの蝶華が来ているとはいえ、警備の量も質も尋常ではなかった。結局、蝶華との約束はほとんど守れなかった。
更には、牢屋の中の悪魔憑きたちも様子がおかしかった。悪魔憑きは凶暴性が増すとはいえ、ある程度の人間性は保つはずだった。でもそこにいた皆は、誰も彼も獣のように唸り声をあげてこちらに襲い掛かって来た。
だから、殺した。
殺さなければ、こちらが殺されていた。
血だまりの中で、全身に嫌な汗をかいているのを感じた。何かおかしなことが起こっている。頭の悪い私には分からなかった。増援が続々とやってきて、私はとにかく蝶華たちと合流しようと二人が居る部屋へと向かった。
豪華なじゅうたんが敷かれた廊下を駆け抜けた。
細かな模様が入った扉を押し開けた。
煌びやかな飾りいっぱいの部屋に飛び込んだ。
全員、床に倒れ伏していた。
ボスも、ボスの護衛も。
赤い血だまりの真ん中で、だらりと体を弛緩させて。
――そして、蝶華も倒れていた。
その中でたった一人。
私と同じ様に血まみれで立っていたのが。
――禹夏だった。
「……禹夏? ……なに、これ」
「流石ね八仙、ここまで来るとは思わなかった」
「……ちょう、か、が……なんで? ……どうし、て……」
「やはり貴女は必要な存在みたいね」
「……けっ……計画、は?」
「問題ないわ、全て計画通り」
「……なに言って……っ!!」
詰め寄ろうとした私を、禹夏は殴り倒した。朦朧とする意識の中で部屋にどたどたと大人数が駆け込んでくる音が聞こえた。禹夏が何か指示を出す声、持ち上げられる体。視界の端に映った、蝶華の顔。
生気が薄れていく虚ろな瞳。
涙の筋が、頬を伝っているのが見えた。
怖かったんだ、痛かったんだ。
そう思ったら、心の底からなにかが湧き出てくるのを感じた。滲み出てきたのは熱、どろどろと黒い汚泥のような怒りという熱。それが胸の奥からどろどろと噴き出し、一気に頭まで昇るのを感じた。
そこから先の事はよく覚えていない。気が付いた時には部屋中真っ赤になっていた。自分のものか他人のものか分からない鮮血と肉片が、部屋中に、体中にびっしりと張り付いていた。
目の前の、禹夏の周り以外は。
叶わない、そう思ったら全身が震えだした。いつの間にか私は死ぬのが怖くなっていた。でも、引くことはできないと構えると、禹夏も荒い呼吸を整えて構えた。飛びかかろう、そう思った時、禹夏の足元にいた蝶華が口を開いた。
かすれる声で、「逃げて」とだけ。
そして彼女はかくんと頭を床に落とした。
彼女は、そこで死んだ。
私は雄叫びを上げ、禹夏に駆け寄った。彼女が振るう棒を躱し、そのまま闘技場を見下ろす窓ガラスを突き破った。逃げるとは思っていなかったのか、禹夏の追撃は遅れ、私は地下から逃げ出すことができた。
でも、何ができるわけでもない。ただ街をさまよって、追っ手を殺した。そうこうしているうちに聖歌隊にみつかり、捕らえられた。そして殺される前に、魔素研究の一環で組織に目をつけていたというハカセに引き取られた。
そこでまた、仲間に出会った。
出会ったのに。
また私は失うのか――。
悪魔の子だからしょうがないのか。
沢山殺して来たから受け入れるべきなのか。
でも、皆は……真理矢は関係ないじゃないか。
どうして、どうして……。
―――どうして。