その⑤
サキュバスから飛び降りると同時に、御鬼上さんの姿は元に戻っていた。刀も元の形状に戻り、鞘に収まった。
「さあて、それじゃあいただくとするかあ」
御鬼上さんはポケットから何かを取り出すと、サキュバスに向けた。するとサキュバスから黒いような紫色のようなもやが立ち上り、御鬼上さんが手にした試験管のような物に吸い込まれていく。
「これは魔素。なんつーか悪魔の元みたいなやつだ」
私の視線に気が付いたのか、御鬼上さんが口を開く。
「詳しい事は知らねえけど、これが体の中に溜まると悪魔憑きになっちまうらしい。ハカセが言うにはいろんな事に使えるらしいが詳しくは知らない」
「使える?」
「知りたいんなら今度ハカセに聞いてくれ、っと」
黒紫のもやがなくなると、あれだけ大きかったサキュバスの体はしぼんでいた。巨大な悪魔が倒れていた場所には、私たちと何も変わらない人間が横たわっていた。
「よし、と。じゃあ下の連中からもいただいて帰るかあ」
御鬼上さんは試験管に封をすると、どこかに電話をかけ始めた。
「もしもし? ああ、終わったよ。思ったりキツかったぜハカセ」
『まあそうだが、大変だったことに変わりは無い」
『わかった、例のブツを届ける』
「そうこなきゃ。ところで集めた魔素の量だが……」
ホールから出て行こうとする御鬼上さんの肩越しに、サキュバスの亡骸と目が合った。その時感じたものに突き動かされ、私はその亡骸に歩み寄っていた。その感じたものが、好奇心なのかなんなのか、自分でも分からなかった。ただ、勝手に体が動いた。
「おい、どうした」
「……」
近づいてみると分かる。そこに横たわっていたのは私と何も変わらない、一人の女の人だった。ただ、サキュバスの時のような彫像じみた美しさはそこにはなかった。どこにでもいる普通の女性。
こんなにも普通の人が、さっきまであんな風に暴れていたなんて信じられない。悪魔憑きとは、どこか遠い存在だと思っていた。犯罪者が自分の悪意に飲み込まれて、醜く変異してしまったのだと、ぼんやりとイメージしていた。
でも目の前にいるのは、普通の人だ。
せめてもの弔いになるかと、彼女の見開かれた目を閉じようと手を差し伸べた。でもそれは叶わず、触れる前に女性の体は白い石の様に変色し、やがて塵になってしまった。
「なにしてる、そいつにもう魔素はのこってない。行くぞ」
私は小さく返事をして、ホールを後にした。でも、今見た光景が心の中で何度も反芻され、その度に私はゴブリンの顔を両手で覆い、撫でた。建物から出るまで、私はずっとそれを繰り返していた。
◆
建物の外に出ると、日が傾き始めていた。暗くなる前に帰ろうということになったが、なにか受け取るものがあるとかで、今は公園のベンチに座っている。危険区の中なので、人に見られる心配はない。
悪魔が襲いかかってくる心配はあるけど。
「よお、さっきからどうした」
御鬼上さんが隣に腰掛ける。私は「いえ」と短く答えたが、彼女は納得していないようで、視線を外してくれない。仕方がないので、思ったことをそのまま言葉にする。
「さっきのサキュバス、普通の人間でしたよね」
「悪魔憑きだ、普通じゃないだろ」
「それはそうなんですが、元は普通の人だったんじゃないかって」
「かもな、でも悪魔憑きは人間を襲う。獣と変わらねえさ」
「でも、弔ってあげるくらいは」
「……いや、悪魔憑きは皆ろくでもない。死んで当然の輩しかいねえ」
「そんな……御鬼上さんだって悪魔憑きじゃないですか、でもあんな風には……」
「あたしだって変わんねえよ」
低く淀んだ、けれどもきっぱりとした口調で彼女はそう言い放った。その声色と、私を見下ろす眼光の鋭さに、全身が強張り言葉が詰まった。冷たい静寂が数秒続き御鬼上さんが「悪い」と小さく言葉を発すると、私の体のこわばりは解けた。
それと同時に、目の前にドローンが現れた。御鬼上さんはそのドローンから紙袋を受け取ると、こちらを振り返った。その目の色にはとげとげしいものは残っていなかった。
「さ、ブツが届いた。コイツで楽しもう」
「なんですかそれ」
「ブッとぶやつだよ」
「え、それって」
「病みつきになるぜ」
ニヤリと笑って取り出したのは、ただのチェーン店のハンバーガーだった。かなり大きいけど別に怪しいものはなさそうだった。
「ほら、食おうぜ」
「あ、はい……」
包みを開けるとお肉が4,5枚、チーズも同じくらい入っていて、緑色が見えない。
「それと、こいつらもだ」
紙袋から皮付きのフライドポテトと大きな飲み物のカップが出される。それを受け取ると揚げ物とお肉のいい匂いが混ざり、食欲がわいてきた。一口齧ると「うまいだろ?」と笑いかけてくれたので、小さく頷く。
しばらくはそうしてハンバーガーとポテトを齧り、甘い炭酸で飲み込んだ。思ったよりお腹がすいていたようで、大きすぎると思っていたハンバーガーは全部私のお腹の中に入ってしまった。
「あの、ごめんなさい、余計なこと言って……」
ハンバーガーの包み紙をもてあそびながら、私は口を開いた。
「なにがだ?」
「さっきの、悪魔憑きの事です」
「ああ、気にすんな。変な空気にしたのはあたしだ」
「なんか本当、ごめんなさい……何の役にも立ってないですし」
「はあ? 何言ってんだ今日は最高のアシストだったよ」
「アシスト?」
「お前が居なかったらもっと苦戦してた」
「そう、ですかね」
「それに飯がうまい」
私が首をかしげると、御鬼上さんはポテトをひとつ齧ってから笑った。
「お前が作ってくれる飯だよ、結構好きだぜゴブ子ちゃん」
「あ、ありがとうございます……ってゴブ子ちゃんって呼ばないでくださいよ」
「はいはい」
誤魔化すようにぐりぐりと頭を撫でられた。少し痛かったけど、御鬼上さんの気遣いが伝わってくるようだった。なんだか気恥ずかしくなってしまい、私はごまかすように手にしたハンバーガーの包みに視線を落とした。
そして立ち上がって絶叫した。
「はああああ!? 1200カロリィィイイイイ!!??」
「ああ、そんなもんだろうな」
「一食のカロリーオーバーどころじゃないですよ!」
「カロリー気にしてんの?」
「あったり前じゃないですかもおおおおお!!」
私は――聖女ゴブリンは嘆いた。