虫ではない、悪魔だ
きらりはビルを蹴り、遠方に見えた家族の元へと跳ねた。
同時に、背後で悪魔が蠢く気配を感じた。
群体の悪魔が、波となって背後から迫っている。
悪魔達より先に、いろはの元にたどり着かなくては。
きらりは手にしたスマホを操作し、背後に黒い網のようなものを射出した。
振り向かぬまま、溶解液や刃物を立て続けに背後へ放出する。
効果を確かめている余裕などない。きらりはただ前方の家族だけを見ていた。
きらりは空から、聖歌隊の乗り物に跨る家族の名を叫んだ。
いろはは声を受け取り、上空を見上げて姉の姿を見つけた。
驚愕、そして安堵。
その二つの感情が、いろはの手元を狂わせた。
元々慣れていない操縦を気力だけで無理に行っていたのだ。
きらりの声と姿を確認し、緊張と恐怖が緩まった。
その結果、操縦を誤り横転、空へと投げ出された。
高速道路に着地したきらりの頭上を飛び越え、高架下へと落ちていく。
きらりはスマホを投げ出し、家族の姿を追った。
「いろは!!」
きらりは落ちていく彼女の名を再び叫び、彼女に向けて飛びついた。
いろはの姿が高架下へ消える、その寸前にきらりは彼女を手を掴んだ。
落下の勢いに引っ張られたが、なんとか落ちずに持ちこたえた。
きらりはうつ伏せの姿勢のまま、引き上げようと腕に力を込める。
だが、思うように力が入らなかった。
きらりの体は既に限界を迎え、悪魔憑きとしての力は残されていなかった。
そこには、ただの少女が一人いるだけだった。
右腕を離さないように気をつけながら、辺りを見回す。
遠方に、ゴブリンの聖女が群体の悪魔に追い回されているのが見えた。
救援は期待できないだろう。
「いろは…今助けるから……!」
「お……お姉ちゃん!!」
恐怖で裏返ったいろはの視線の先には、群体の悪魔がいた。
高架の上を巨大なひとつの悪魔のように、のそのそと動いている。
きらりたちを見下ろすような位置で、その動きを止めた。
「なに――」
瞬間、岩盤が砕けるような音。
吹きあがる血飛沫、そして悲鳴。
きらりの、悲鳴。
「うぎ……あぁあああっ!!!」
堪える事ができないほどの激痛。
きらりの右足は、巨大な棘のようなもので貫かれていた。
群体の悪魔が数十集まり、巨大な棘となっていた。
きらりの血液毒すらものともせずに、左足、左腕を続けざまに貫いた
その度に血飛沫が空に吹きあがり、悲鳴が響き渡る。
いろはを掴んだ右腕だけは、なぜか無事だった。
「グ…ぐぅうっ……!!」
「お姉ちゃん……!」
つ、と妙に冷たいものが右腕に当たるのを感じた。
それは棘上に凝り固まった群体の悪魔。
どこに突き立とうか選ぶかのようにきらりの右腕を往復する。
きらりはこの悪魔をただの虫の集まりと頭のどこかで認識していた。
形は恐ろしいものの、ただ目的のために本能に従い動いているだけの存在だと。
しかし、目の前で行われるドス黒い嗜虐に満ちた行いに考えを改めた。
こいつらは――こいつは虫なんかじゃない、悪魔だ。
死に瀕した獲物を弄ぶ知性と露悪な残虐さを持ち合わせている。
むしろ今、虫けらのように死にかけているのはこちらだ。
どうにかしなければと辺りを見回すと、投げ捨てたスマホが見えた。
あれを手にすれば何か打開策があるかもしれない。
きらりは棘が突き立った左腕に力をこめ、スマホを自身に引き寄せた。
数メートル先に落ちていたスマホが宙に浮き、きらりへ近づく。
あと2メートル、1メートル――。
そこで、きらりの左腕に突き立った棘が回転し始めた。
「あがっ…! あぁアアアアっ!!!!」
皮が、肉が、筋繊維が回転と共に捻じり上げられる。
折れ、砕けた骨が肉に交じる。
血飛沫と共に肉と骨が混じった欠片が飛び散る。
スマホはきらりの指先、あと数センチのところに落ちた。
だが、きらりの左腕はもう動かない。
きらりの再生能力は悪魔憑きでも指折りだ。
しかし、度重なる負傷と無理な覚醒が祟って、再生速度は極端に落ちていた。
今の彼女は、普通の人間と大差ない。
「お姉ちゃ――」
「……あああああッ!!」
いろはの言葉をかき消すように、両足の棘も回転する。
血と肉と、骨片が飛び散り、まき散らされる。
それらが辺りを凄惨な赤に染め上げていく。
「ぅガ…ぁあ、あ……」
きらりは既に虫の息だった。
呼吸は次第に浅くなり、痛みすらも薄れてきていた。
その姿は、解剖を待つ哀れなカエルのようだった。
ただそれでも、いろはを掴む手だけは離さなかった。
「お姉ちゃん!」
「だいじょうぶだから、だいじょうぶ……」
「お、ねえ……」
「たすけるから、必ず、私が……」
虚ろな目で呟くきらりの下で、いろはは泣いていた。
「お姉ちゃんごめんなさい、私のせいで……!」
「だいじょうぶ、だから……」
「あの時のお姉ちゃんみたいに、皆を危険から守りたかった」
「だい、じょうぶ……」
「でも私にはなにもできない、あの時と一緒だ……」
「だ…い……じょう……」
「お姉ちゃん――あの時、酷い事言ってごめんなさい」
「……!」
「あの時、何が何だか分からなくて、怖くて、それでお姉ちゃんにあんな……」
きらりはただ、黙っていろはを見下ろしていた。
「いつもそうだったよね、いつもお姉ちゃんが損してた。全部私たちに譲って、私たちのためになんでもしてくれた。私も同じくらいしっかりしなきゃいけないのに……それなのに、私はお姉ちゃんを傷つけた、一番助けなきゃいけない時に私は見捨てた……本当に、本当にごめんなさい……!!」
「あ、はは~……だいじょうぶ、だよ…いろは……」
いつの間にか、きらりの顔には苦痛で歪んだ笑顔が張り付いてた。
その理由は、暖かな狂気。悲しんでいる家族を、励ますための笑顔。
彼女の笑顔は呪いだった。穏やかで優しい呪い。
その笑顔をみて、いろはの瞳からは更に涙が零れた。
「私には、その顔を向けて貰う資格はない」
「そんな、ことない……」
「……お姉ちゃん、右手はまだ動くよね?」
「え……?」
「右手を動かせば、スマホに届くよね?」
「なに、言って……」
「今まで、本当にごめんねお姉ちゃん――」
「――大好きだよ」
重みを失い、自由になったきらりの右腕。
そのきらりの腕を、いろはが振り払った。
落ちていく妹の姿に、きらりの笑顔が消えた。
それを待っていたかのように、群体の悪魔は素早く高架下へとその一部を動かした。
ぎゅるりと群体を巻き集め、硬く鋭く収束させていく。
蝶の口吻のように巻かれた悪魔達が伸びると、巨大な槍のように姿を変えた。
ちょうど、人ひとり貫くのに十分な大きさだった。
その先端が、落ちていくいろはに狙いを定めた。
きらりが何かする間もなくそれは放たれ、いろはを捉えた。
目視できないほどの速さで槍は飛び、ビルの壁面へ槍が突き立った。
その先端、煙のように舞う埃の中から、小さな血飛沫が舞い上がる。
「いやぁあああああああ!!!」
きらりの悲痛な叫びが、周囲に響き渡る。
その叫びに応えるものはなく、その残響すら消え失せる。
後に残されたのは、死にかけの哀れな少女一人だった。
「あ、あぁあぁ……!」
芯の無いうめきをあげるきらりの上空で、悪魔の棘が揺れる。
その緩慢な動きは「もう十分楽しんだ、飽きた」とでも言いたげに見えた。
ゆらりと退屈そうに棘が持ち上がり、きらりの頭部に狙いを定めた。
すい、と軽く棘が上方へ引かれ、そのままストンときらりの頭が貫かれた。
――かと思われた。
突然、高架下のいろはを突き刺した棘が細切れになった。
次の瞬間には、きらりの手足を貫いていた棘に無数の穴が開いた。
群体の悪魔はその統制を乱し、後ずさるようにきらりから離れた。
「え……?」
いろはを覆っていた煙が晴れると、そこには見慣れた顔が揃っていた。
ここまで皆を案内してきたであろうハカセ。
刀で、銃で、憎き悪魔を退けてくれた千晴とルディ。
大事な家族を受け止め、衝撃を吸収してくれた紫陽。
そして、悪魔の一撃をその頭で受けてくれたのは――。
「おぎゃあぁあああん! けっこう深く刺さったああああ! 血が、血出てアアアア!!」
「まりやぁ……!」