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聖女ゴブリン 今日も嘆く  作者: 海光蛸八
魔屍画~魍魎千蛇・跋扈~ 編
142/208

蛙田きらりという人間

 きらりは地を蹴り、必死に悪魔達を追った。

 覚醒していない彼女の体は既に限界を超えていた。

 人並外れた頑丈さを持つ悪魔憑きの体だが、限界はある。


 ぜいぜいと荒い音と共に、肺から送られてくる呼気に血が混じる。

 激しい足の痙攣が、地を蹴るのをやめろと訴えかけてくる。

 蛙のように跳ね、着地した瞬間、骨が軋み皮膚や肉が裂けて血が滲んだ。


 脳天まで駆けあがるような激痛。

 だが、彼女は顔を上げてまた駆け出した。

 限界を超えた体は、内から沸き立つ熱を発散しきれない。


 自ら発した熱で、脳が茹でられているようだった。

 思考がまとまらない、視界がぼやけていく。

 今何をしているのか分からなくなってくる。 



 熱い、熱い――――暑い。



 ああ、そうだ


 あの日も暑かった。

 暑かったけど、私は長袖を着るしかなかった。

 あの男に――父親に殴られた傷を隠すために。

 

 あの男はろくでもなかった。

 酒とギャンブルと女にしか興味の無い人間だった。

 その男に寄ってくる女も例外なく最低だった。


 最低な母親だった。

 

 母親の暖かな笑みなど見たことがなかった。

 常に不機嫌で、たまに不気味なほどに機嫌がよかった。

 そしてすぐに私の前から消えた。


 私と、いろはの前から消えた。

 私たちは捨てられた。

 でもすぐに別の母親が現れた。


 とっかえひっかえ女が入れ替わり、その度にきょうだいが増えた。

 そして母親になったはずの女は全員私たちの前から居なくなった。

 女が出て行くたびに私たちは暴力を振るわれた。


 暴力を振るわれるけど、女が出て行くのは嬉しかった。

 狭い賃貸の隣の部屋から、嫌いな男と嫌いな女の嬌声が聞こえる事がなくなるから。

 淫らで醜悪な絶叫、部屋に充満するむせ返るような体臭と異臭、熱気。


 あの家が、私の地獄だった。


 周りは誰も助けてくれなかった。

 あいつは外面だけはよかったから、皆簡単に騙された。

 騙された振りをしていたのかもしれない。


 分かるはずだ、真夏なのに皆長袖を着ているんだから。

 それでなくても、私たちの気配がおかしい事に気づけるはずだ。

 でも、誰も何もしてくれなかった。手を差し伸べてはくれなかった。


 あの頃は今よりもっと悪魔被害が多かった。

 だから『それどころではなかった』のだろう。

 周りの人々は『そんなことより』大事なことがあったのだろう。


 たとえそれが、私にとっての地獄であったとしても。


 そんな無関心に絶望するほど、私は現実に夢見てはいなかった。

 私にとってのすべては、あの子たちだった。

 下の弟や妹を、あいつから守ることが私の役目だと、そう思った。


 あの子たちが泣くと、殴られてしまう、蹴られてしまう。

 だからあの子たちが泣いてしまわないよう、私はいつも笑顔でいた。

 大丈夫だよ、泣かなくていいよ、そうやっていつも笑っていた。


 気が付いた時には、私の顔には笑みが張り付いていた。


 殴られても、暴言を吐かれても、その笑顔がはずれなくなっていた。

 痛いけど、辛いけど、あの子たちの前で泣くのは駄目だ。

 私が泣いたら皆も泣く、皆も殴られる。


 それだけは駄目だ。

 私はお姉ちゃんなんだ。

 皆を守らなきゃいけないんだ。


 そうやって笑顔が、べったりと張り付いて取れなくなった。


 いつも私が笑っていたせいか、あいつは私を気味悪がった。

 苛立ちを他の妹や弟に向けようとしても、私が来るとすぐにやめた。

 これで皆安全だ、私は自分の役割を果たせていると思っていた。


 あの日までは。


 外で蝉がやかましく鳴いている暑い日だった。

 何人目かの母親が出て行って、あの男はいつものように荒れた。

 いつものことだから、私たちはクローゼットに隠れて嵐が収まるのを待っていた。


 買い与えられたスマホで、流行りの歌なんかを調べて聞いた。

 皆怖がっていたけど、いつもの様に私が笑顔をみせると少し落ち着いてくれた。

 クローゼットの中は蒸し暑かったけれど、外に出るよりマシだった。 


 そのうちにあの男も落ち着いてきたのか、物音が聞こえなくなった。

 少し待つと、大きないびきが聞こえ始めた。

 クローゼットから出ると、安い酒瓶を転がして寝ているあいつが居た。


 これならしばらくは起きないだろうと、夕飯の買い出しに出かけた。

 外に出ると、不気味なほどに大きな太陽が沈みかけていたのを覚えている。

 買い物を済ませて家に帰ると、弟と妹たちが玄関先でうずくまっていた。


 あいつが起きて暴力を振るったのか。

 少しでも皆から離れた自分を責めた。

 私は弟たちに張り付いた笑顔を向けてから、廊下の奥へと向かった。


 ドアノブに手をかけた瞬間、鼻についた臭い。

 むせ返るような体臭と異臭。

 それから、熱気。


 私は付き破るようにドアを押し開け、部屋に飛び込んだ。 

 上ずったあいつの声と脅え切ったいろはの声。

 いろはに覆いかぶさる、実の父親。


 消え入りそうな声で抵抗するいろはに、あいつは自分の――。


 気が付いた時には、私はあいつを蹴りつけていた。

 裏返った声で叫びながら、何度も蹴った。

 でも、あいつはいろはの上から離れなかった。

 

 あいつの下に居るいろはの様子を見て、最悪の事態にはまだ至っていないことを確認した。

 それでも、このままでいたらいろはを守ることはできない。

 大人と子供、性差もある。自分があいつを引き剝がすことはできない。


 尚もいろはから離れないあいつに、私はパニックになった

 出るはずもない母親に電話をかけ、続けて警察に電話したところで張り飛ばされた。

 あいつはいろはから離れ、今度は私に覆いかぶさってきた。


 酒臭く湿った息が顔にかかった。

 恐怖で冷えた汗が染みた肌を、あいつの手がまさぐった。

 足の付け根をささくれた指が撫でた。


 きちんとした記憶があるのはそこまでだ。


 気が付いた時には、私の目の前に赤い水溜りができていた。

 初めはこぼしたお茶か何かに、夕日が反射して赤く見えているのだと思った。

 あいつが倒れていたから、よって暴れてなにかをこぼしたのかと思った。


 でも、そうじゃなかった。

 目の前にひろがるのは、血の海。

 その赤い水の源泉は、あいつの頭部。


 右手になにかを握りしめているのに気が付き、無意識に右手を持ち上げた。

 その手には、血まみれの禍々しいスマホが握られていた。

 付着した血が、肉片が、私の腕を伝って床に流れ落ちた。


 ああ、そうか。

 私がこいつを殺したんだ。

 ひどく気持ちが落ち着いていた。


 ゆっくりと周囲を見回すと、見慣れた人がこちらを見ていた。

 いろは、いろはだ。そうだ、こいつに襲われていたんだ。

 なんて酷い事をしたんだろう。 


 怖かったよね、大丈夫?

 私は笑顔で近づいた。

 でも、いろはは青い顔で叫んだ。


「――来ないで! 化け物!!」


 頭を内側から殴られたような衝撃が走った。

 酷い耳鳴りと一緒に思考が一気に止まり、頭の中が真っ白になった。

 ただ、スマホを握りしめた右手だけが、妙に熱かった。


 ただ、ここに居ちゃいけないと思った。

 ここに居たらいろはを怖がらせてしまう。

 それは駄目だ。


 だから私は家から出た。

 あの子たちが居ない場所まで行かなきゃいけなかった。

 そうしなきゃいけないんだ。


 だって私がお姉ちゃんなんだから。

 皆を守らなきゃいけないんだから。

 この子たちを怖がらせる存在は、近づけちゃいけないから。


 歩いているうちに、ハカセに会った。

 魔素がどうとか色々と言っていたけど、ほとんど覚えていない。

 でも、ハカセの目的は理解できたから、私は付いていった。

  

 私はお姉ちゃんだから、あの子たちを守らなきゃいけない。


 ハカセの目的は悪魔の殲滅。

 悪魔を、化け物をあの子たちには近づけさせない。

 だから私もあの子たちには近づかない。

 

 寂しくなんてない。

 あの子たちさえ幸せならそれでいい。

 私はお姉ちゃんだから大丈夫。


 私は――化け物だから大丈夫。

   


「―――アぁああッ!!」


 きらりは喉の奥から声を張り上げ、血に濡れた脚で地面を蹴った。

 渾身の力で蹴ったつもりだった。

 だが、彼女の体はもう使い物にならなくなっていた。


 できたのは、人並の跳躍だけ。

 彼女はすぐに地面に堕ち、がくりと膝を折った。

 その視線のはるか先に、空飛ぶ悪魔の群れを見ながら。


「あ、ぁあ……」


 なんだ、もう動けないのか。

 化け物のくせに、醜い悪魔憑きのくせに。

 姉だから守らなきゃならないと決意したくせに。

 

 そうやって自分を叱ってみるのだが、立ち上がることができなかった。

 手にしたスマホも自分の体力に比例して、その性能は落ちる。

 いくつも機能を試してみるが、役に立つものを錬成することはできなかった。


「うぅ…うううぅううう!!!!」 


 きらりは動かない自分の脚を殴りつけた。

 何度も何度も殴りつけながら、大粒の涙を流した。

 情けない、自分は大切な人を守る事すらできないのか。


 自分で決めたことも守れないのか。


「うぁあああああ!!!」


 手にしたスマホを大きく振りかぶり、自分の脚を打ち据えようとした。

 その瞬間だった、きらりのすぐ隣のビルが崩壊した。

 きらりは咄嗟に手にしたスマホを構え、向かってくるものに備えた。


 しかし、きらりの元に突っ込んできたのは見覚えのある緑の悪魔。

 背筋のピンと伸びた姿勢のまま、ものすごい勢いでやってくる。

 そのミサイルのような緑の悪魔は大声で叫んだ。


「蛙田さぁああああん!!!」


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