私も殺した
私は蛙田さんの部屋の前に居た。
ノックをしようと持ち上げた手は、さっきからずっと同じ位置にいる。
いつもなら何気なくできる行為が、今は禁忌に触れる行為にも思える。
入ったとしても、なんて声をかければいいんだろう。
千晴さんの時も、ルディさんの時も、もっと差し迫った状況だった。
だから自然と体が動いたし、言葉も頭に浮かんだ。
でも、蛙田さんの場合は違う。
何か脅威があるわけではない、命の危機があるわけでもない。
多少の暴力性はあれど、ただただ純粋な家族の問題だ。
そこに私が無遠慮に立ち入っていいものか。
「……真理矢」
不意に声をかけられ、ビクッと肩を揺らしてしまった。
振り向くと、花牙爪さんが立っていた。
いつもなら足音で気が付くのに。ずいぶん考え込んでしまっていたようだ。
「ど、どうかしましたか」
「……私も付いてく。きらり、一番の友達だから」
言うや否や「きらり入るよ」とドアを開けて入って行ってしまった。
思い切りがいいというか遠慮が無いというか。
ええいここでうだうだしていても始まらない。私も入ろう。
「失礼します……」
私は小さく呟きながら、蛙田さんの部屋に入った。
どぎついピンクの壁紙に、ヒョウの柄カーペットも目に痛いほどのピンク。
ピンクの隙間に、ゼブラ柄のカーテンやシーツが視覚的にうるさい。
テーブルなどは真っ黒で地味なはずなのに、なぜかかえって派手に見える。
いつものように、やかましいほどの存在感の部屋。
でも、今日はどの色もくすんで見えた。
それは部屋の主のせいだろう。
蛙田さんは派手な柄のベッドに腰掛けていた。
ちらりとこちらを見た表情は、いつもの笑顔すら浮かべていなかった。
花牙爪さんが傍に座っても、蛙田さんは反応しなかった。
花牙爪さんはただ近くに寄り添い、私は所在なく突っ立っていた。
そんな居心地の悪い時間が少し流れ、やがて蛙田さんが口を開いた。
「聞いたんでしょ? 私が人殺しだって」
「そんな言い方……」
「本当のことじゃない」
話し方もいつもの蛙田さんではない。
今の話し方の方が表面上は普通だ。
でも普段の彼女を知っているならそれが異常だと分かる。
「それが本当でも、いろはさんを助けるために――」
「殺したのがあの子の――私の父親でも?」
ぼそりと聞こえた蛙田さんの呟きに、言葉が詰まった。
蛙田さんが殺したのは、自分の父親だったんだ。
だからいろはさんも『あいつ』という表現を無意識に使ったんだ。
自分の親を殺すなんて酷い、などと言えるほど私は子供ではない。
蛙田さんは優しい人だ、それは私もよく知っている。
そんな蛙田さんが手を出すほどに、父親は酷い人間だったのだろう。
でも、それを蛙田さんに言っても仕方がない。
そんなことは何度も何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。
それでもなお、蛙田さんは自分を責めているんだ。
「……ルディさんは父親を殺したきょうだいと和解できました。だったら蛙田さんだって、きっといろはさんと……」
「ルディのお父さんは悪魔憑きになってたんでしょ? それならまだいい」
「……じゃあ」
「そう、あの男は悪魔に憑かれなんてなかった、ただの人間。私はただの人間を殺したの。このスマホで殴って、殺した」
蛙田さんは手にしたスマホを持ち上げてみせた。
禍々しい意匠が、より一層不気味に見えてしまった。
また口をつぐんだ私を見て、蛙田さんは小さく息を吐いた。
「あいつのしたことは許されることじゃないけど、殺す必要なんてなかった。一度殴って、逃げればそれでよかった。でも私はそうしなかった。今までの恨みを込めて、何度も何度も、何度も殴った……殴り殺した後、血まみれで私は笑った。この笑顔がそう」
きらりさんはいつもの張り付いたような笑みを、私たちに向けた。
その笑顔は不気味で、けれども痛々しく私には映った。
蛙田さんは今、自分の見たくない部分を実感してしまっている。
こんな時、なんと言葉をかければいいのだろう。
「狂った私を見て、いろはが叫んだ……『化け物』ってね。まさにその通りだと思う。私は不気味な化け物。笑いながら人を殺せる。醜い化け物……だから私は――」
「……きらり、私も殺した」
突然、黙っていた花牙爪さんが口を開いた。
蛙田さんも少し驚いたような顔で、花牙爪さんを見た。
「え……?」
「いっぱい、いっぱい殺した。悪魔じゃない人、いっぱい……」
「……」
「きらりは殺して、誰かを助けた。今も誰かを助けてる。きらりが悪魔を殺すから、真理矢は助かった、千晴も助かった、ルディも助かった……私も助かってる。それは一番いいことじゃない。でも、いいことではある」
何の具体性もなく、要領を得ない言葉だった。
でも、その言葉には想いが込められていた。
花牙爪さんの言葉に勇気づけられ、私も口を開いた。
「そうですよ、私があの子と戦った時も、蛙田さんは一緒に戦ってくれました」
私が過去と向き合ったあの時、蛙田さんも一緒に来てくれた。
放っておいてもなんの問題もないのに、一緒に戦ってくれた。
それだけは、間違いのない事実だ。
「皆が……蛙田さんが居たから、今私はここにいるんです」
「……」
「きらりは友達、大事な友達……だから、いつもみたいに笑ってほしい」
「…………」
「……笑ってるきらりが、一番好き」
花牙爪さんは、にこりと笑った。なんてことのない、ただの微笑み。
だけど、それをみた蛙田さんの口元が、僅かに震えた。
その震えは少しだけ顔に回り、強張った表情を崩した。
「……あはは~」
少し待つと、蛙田さんはいつもの笑い声を口にした。
私たちが黙って頷くと、蛙田さんはもう一度笑い声を口にした。
何度か繰り返すうち、少しづつ口角が上がるようになってきた。
「……あはは~☆」
そして、いつもの蛙田さんの面影が戻って来た。
傍から見れば狂った笑み、だけど私たちにとってはこれがいつもの蛙田さん。
陽気で頼れる、大切な仲間の顔だ。
「蛙田さん、今はご家族の事は心にしまっておきましょう。いつか蛙田さんがそれを取り出してみたいと思った時、その時また一緒に考えましょう」
私は蛙田さんの手を握り「お手伝いしますから」と笑いかけた。
蛙田さんはかくんと頭を下げると、大きく一回息を吸い込んだ。
それから顔をゆっくりと上げ、
「あはは~☆ りょうか~い☆」
それだけ言って、いつもの笑顔に戻った。