今すぐ出て行け
いろはさんの言葉には答えず、蛙田さんは無表情で立っていた。
沈黙の中、鼻に届くお菓子じみた卵焼きの匂いが不釣り合いだ。
状況を整理しきれない頭はそんなことを考える。
「わ、私だよ…いろは……」
「…………」
「お姉ちゃ――」
瞬間、蛙田さんのスマホから黒い触手が幾本も飛び出す。
伸び上がった無数の触手が、いろはさんめがけて襲い掛かった。
彼女の体に、首に、ぐるぐると巻き付いた触手は彼女を空中へ持ち上げる。
「あ…ぐ……ッ!」
「蛙田さん!?」
「なにしてんだお前!!」
思わず体を動かした私たちだったけれど、すぐに固まった。
蛙田さんの顔は無表情のままだけど、何かが違った。
それが何かは分からないけど、どろどろとした感情だということは分かった。
「う…ぅぐ……!」
「ここは悪魔の住処、貴女が来るところじゃない」
憤怒、嗜虐、憎悪。
そのどれとも取れない淀んだ声色で、蛙田さんが囁く。
ぎりぎりと締め上げられるいろはさんが苦し気に息を吐き出した。
「……ま、待つんだ! 死んでしまうぞ!!」
「忠言耳に逆らう……!」
止めに入ろうとした私たちにまで、蛙田さんは触手を向けた。
襲い掛かってはこないけれど、近づくなら攻撃するという意思は伝わって来た。
再び私たちは硬直し、蛙田さんは吊り上げられたいろはさんを見上げた。
「死にたくなかったら、ここには近づかないで」
「お…ねぇ、ちゃ……っ!」
「私は貴女の姉じゃない」
このまま見ているわけにはいかない。
千晴さんは刀に手をかけ、ルディさんもルルちゃんたちを銃に戻した。
花牙爪さんも爪を構えるが、いつもの荒々しさは微塵もない。
私も、何かしなければ。でも何をしたらいい。
いつもの悪魔相手とは違う。
蛙田さんを止めるにはどうしたらいいんだ。
千晴さんたちが武器を手にしても、蛙田さんはいろはさんを解放しない。
「今すぐ出て行け、さもないと――」
不意に、蛙田さんが倒れた。
同時にいろはさんを締め上げていた触手もずるりとスマホに戻った。
床に倒れ込んだいろはさんに駆け寄ると、背後から聞きなれた声が。
「一般人になにしてんだ」
ごきりと肩を鳴らし、ハカセが倒れ込んだ蛙田さんを見下ろしていた。
ハカセは白いペンのようなものをくるくると弄び、ポケットにしまった。
私の視線に気が付いたのか、ハカセはポケットを叩き、
「試作品の麻酔注射だ。きらりに効くなら実戦投入も可能かな?」
「は、はあ……大丈夫なんですか」
「死にはしない、たぶんな」
「たぶんってアンタな……」
「ともかく、きらりを運ぼう。ここに転がしておくのもね」
「……馬を崋山の陽に帰し、牛を桃林の野に放つ」
蛙田さんは千晴さんたちに任せて、私はいろはさんを介抱した。
軽く咳込んでいるけれど、大きなけがは無いようでひとまず安心した。
ひとまずソファーに座ってもらい、落ち着くまで待った。
「す、すみません……」
「こちらこそ、こんなことになるだなんて。いつもはあんな風じゃないのに」
「……いえ、こうなるのも仕方ないんです」
「仕方ないって、どういうことですか」
「……きっと姉は、私を恨んでいるんです」