その②
サキュバスと対峙する数時間前――私はのん気に掃除していた。まさかあんな化け物に会う事になるなんて考えもせず、ほうきで玄関先を掃き、ありきたりなため息を吐いていた。
「はぁ……」
あの日からもう一週間がたった。結局行く当てもない私は、彼女たちの住処で暮らしていた。危険区にほど近いここは、『デビルバニー』という名前のバーだ。といっても営業しているわけでもなく、ただハカセさんたちが住み着いてるだけみたいだけど。
ほうきを片付け、建物の外観を見てみる。おしゃれな西洋風の建物に、品のない色をしたネオン看板がくっついている。昼間だから光っていないにも関わらず、毒々しい色と分かる文字の真ん中で、悪魔の羽が付いたウサギがニヤリと歯を見せて笑っている。
最初はなんだこれと思ったけど、だんだんかわいく見えてきた。
少なくとも今の私よりは可愛い。
さて次は皆の朝食の準備をしなきゃ。掃除用具を片付けてキッチンへと向かう。ここに住まわせてもらう代わりに、炊事、掃除に洗濯をやる羽目になった。なんで血を抜かれる上にそんなことまでと思わなくもないけど。
でも、それらは嫌いじゃないので問題ではない。
問題なのは……。
「はぁ~あ……」
窓に映った自分の姿を見ると、また深いため息が出る。右から見ても左から見ても、斜め後ろから見てもゴブリンだ。ただ一つ、目元と声だけは私なのがもう本当に嫌だ。
「……も~!」
理不尽ないら立ちを、手元のコーヒーミルにぶつける。硬いコーヒー豆をごりごりと挽いていると幾分気が晴れたような気もする。そろそろ挽き終わるかな、というタイミングで頭を小突かれた。
「そんな荒っぽく挽くな、粒がばらつく」
「ご、ごめんなさい……あ、ハカセさん朝ご飯は?」
「コーヒーだけでいい。それに『さん』はいらない」
「ああ、はい……」
ハカセは私の挽いた豆を手に取ると、匂いを嗅いで「まあ悪くないか」と言ってサイフォンを手早く用意した。彼女はいつもコーヒーばかり飲んでいて、着ているものもいつも同じ白衣だ。汚れが気になるけど無理に引っぺがして洗濯するわけにもいかない。
サイフォンが静かに音を立てている中、沈黙が訪れる。うーん、気まずい。何話したらいいか分からない。コーヒーの事でも勉強しようかな。そんなことを考えていると、キッチンに誰かが入ってきた。
「おはよ~っす」
汗を拭きながら入ってきた彼女は、御鬼上千晴さん。刀で私の拘束具を切り裂いた人だ。彼女はトレーニングが好きなようで、毎朝ランニングをしている。ちらりと見えるお腹は筋肉が浮き出ていてカッコいい。
「おはようゴブ子ちゃん」
「ゴブ子って言わないでください」
「はいはいごめんなさいっと」
まったく気持ちのこもっていない謝罪をすると、御鬼上さんは冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出した。そしてそのまま2リットルをごくごくと飲み干してしまった。スポーツドリンクってそんな風に飲んでいいのかな。悪魔だからいいのかな。
「おう千晴、ちょうどよかった」
「なんだよハカセ」
「お前向きな『依頼』が来てるんだ、行って来な」
「またあたしかよ、わんちゃんに行ってもらえよ」
「建物の中だ、ルディ向きじゃない」
「じゃあきらりは? 紫陽は?」
「数が多いからきらりじゃ時間がかかる。聖歌隊から流れてきた依頼だから紫陽は出にくい。お前さんがベストなんだよ」
「へいへい、じゃあ着替えたら行ってきますよっと」
「ちょい待ち、この子も連れて行きな」
ハカセは私を指さした。
「へ? 私が何か?」
「おいおいなんでゴブ子ちゃんまで」
「親睦を深めてきな」
「何ですか、行くってなにが?」
「なんでもないさ、ちょっといって悪い奴らをこらしめるとお金がもらえるのさ」
「おいハカセ……」
「大丈夫、例のナイフあっただろ」
「ああ、あの鉄を千切りにできたやつね」
「あの日あれでこの子の腕に傷をつけたんだが、薄皮が斬れる程度でね。試しに寝ている間にトンカチで頭殴ってみたんだが、トンカチの方がぶっ壊れてすやすや寝てたよ」
え、私の話してるんだよね。寝てる間にそんなことされてたの?
「だから頑丈だ、ちょっとやそっとじゃ死なない」
「なるほどね、でもわざわざ連れていく意味もないだろ」
「さっきも言ったが今回は聖歌隊から回ってきた仕事だ。もしかするとヤバいのが出てくるかもな」
「それで?」
「あの子の血があれば保険にはなるだろう。それにお前さん自身の覚醒による体の負担、覚醒の継続時間もどんなもんか知りたいしな。あと何より払いがいい、失敗したくない」
「最後のが一番の理由ってわけね」
ハカセが「その通り」と笑うと御鬼上さんもにやりと笑った。そしてそれを脇で見ている置いてけぼりな私。え、なに。どこ行くって?
「よし! じゃあ行こうかゴブ子ちゃん。着替えてくるから待っててな」
「ゴブ子って言わないで……え、どこに行くんですか」
「悪魔をぶっ殺しにいくのさ」
「あく…ぶっころ……え!?」
困惑している私を置き去りにして、御鬼上さんはキッチンから出て行ってしまった。ハカセに視線を向けると、ごきごきと肩を回し、「朝飯は心配すんな」と笑った。
いや、それは別に心配してないんですけど。