牙、罠、毒、
「どこに隠れたのかしら~?」
ミナーヴァのつぶやきは、重なり支え合うビルたちの隙間に消えていった。ぐるりと周囲を見回し、周囲のビルのかつて窓だった穴から漏れ指す月明かりを頼りに探してみるが、紫陽ときらりの姿を見つけることはできなかった。
「隠れても無駄よ~」
ミナーヴァは目を閉じ神経を聴覚に集中させた。それから梟が獲物の音を探るように首を動かしては止め、二人の居場所を探る。風の音、虫の声、遠くから聞こえる戦いの音。それらの中から生物の呼気や心音を探していく。
(あら……?)
聞き覚えの無い音が、いくつもミナーヴァの耳に入った。地面にひとつ、それから倒れかけたビルのあちこちから、生物が蠢くような音が聞こえる。初めはネズミでもいるのかと思ったが、足音や筋肉が動く音、心音すらも聞こえなかった。
心臓が動いていない生物などいない。悪魔な可能だろうか。だとすればあの悪魔憑きのどちらかがなにかしたのか。身代わりか分身か、あるは他のなにか――。そこまで考えた時だった。「わっ!」と大きな掛け声がミナーヴァの鼓膜を裂いた。
「―――――ぃぎ……ッ!」
ただの叫び声ではない、スピーカーか何かで何倍にも増幅した大声が研ぎ澄ましていた聴覚を直撃した。ミナーヴァの耳は大声程度で壊れるほどやわではなく、すぐさま声の位置を割り出していたが、ほんの一瞬意識の焦点が合わなくなった。
その瞬間を狙い、紫陽は瓦礫を切り裂きミナーヴァに突進した。四つ足の悪魔は牙をむき、彼女に襲い掛かったが、ミナーヴァはすんでのところで飛び上がりその一撃を避けた。自身が立っていた瓦礫が紫陽の牙で粉砕される様を見下ろし、あぶなかったと安堵したのも束の間、ぷつりと糸を切ったような感触が背中に伝わった。
「――ッ!」
自分のすぐ脇、傾いたビルの窓から血濡れた杭のようなものが無数に飛び出す。体を捻り、翼を羽ばたかせ躱すが、また数本糸が切れたような感触が手足に走る。周囲のビルから骨と血肉で出来たような丸ノコが数個飛び出し、壁面を溶かしながら青緑の液体がミナーヴァに向けて飛び散る。
(さっきのは……っ!)
先ほど周囲を探っていた時に感じていた気配はこれか。ミナーヴァはおどろおどろしい罠を必死で躱しながらそう思った。躱す度に1本、2本と糸が切れ、罠が作動する。どの罠も当たればただではすまないと、ミナーヴァは肌で感じた。
(いくつあった? いや、今も増やしているとしたらなんのあてに、も……ッ!?)
罠の数が減り始めたと感じた頃、ミナーヴァは不意に体がずしりと重くなったのを感じた。疲労や装備の不調ではない。自分の体の中で何かが――解毒したはずのきらりの毒が変異していた。
(こ…れくらいぃ……ッ!)
彼女の体はすぐさまその毒の抗体を造り出した。毒の変異自体は大したものではなく、常人相手でも命までは到らない毒素だった。彼女でなくとも、毒に耐性を持つ者なら解毒に集中すればなんの問題にもならない程度の毒だ。
だが、二人の狙いは正にそこだった。ミナーヴァの意識を解毒に集中させる。不意を突かれて焦り、不必要なまでに殺意の高い罠に焦り、体内で変異した毒に焦る。ミナーヴァの速さを削ぐにはそれだけ必要だった。
ミナーヴァを照らす月の光が陰った。
「――――ッ!!」
彼女の頭上、傾いたビルの天井から紫陽が飛び降りた。いつものミナーヴァならば躱せた。躱して一撃、それでよかった。だが、立て続けに変化した状況に僅かに疲弊した彼女の頭脳は、短絡的な迎撃を選択してしまった。
それでもなお、ミナーヴァは瞬時に敵を把握し、爪か、牙か。その二択どちらでも対応できるよう体制を整えた。そのどちからかで襲い掛かってくれば、ミナーヴァの迎撃は辛くも成功しただろう。
だが、紫陽の選択はそのどちらでもなかった。紫陽は爪で切り裂くでも牙で噛みつくでもなく、大手を広げてミナーヴァにのしかかった。人並外れた重量の紫陽に乗られてはミナーヴァも空中にとどまることはできず、猛スピードで落下していく。
「……捕まえた」
「な……っ」
体を捻り、逃れようとするミナーヴァだったが、背中でまたなにか糸を切るような感触と共に触手が体に巻き付き、紫陽とぎっちりと固められてしまった。そんな状態ではもがく事すらできず、一気に地面が迫り――。
「あ……あら~――――」
ひきつった笑みを浮かべ、ミナーヴァは地面へと叩きつけられた。落下の衝撃で地面はひび割れ、道路のコンクリートがめくれ上がった。触手の拘束が解かれ、紫陽だけがのそりと起き上がった。その下には、白目をむいて気を失ったミナーヴァがいた。
「あはは~☆ 作戦成功~☆」
「……敵もさるもの引っ掻くもの」
「そうだね~☆ これ失敗したら危なかったかも~☆」
きらりはぴょこぴょこと不規則な足取りで気を失ったミナーヴァに近づいた。
「あはは~☆ 死んでないね~☆ どうしよっか~☆」
「……情けに刃向かう刃なし」
「見逃すの~?」
「……一応、ルディの家族」
「ああ……うん、そうだね~☆ このまま連れてって謝らせよっか~☆」
きらりは禍々しいスマホをいじり、横たわるミナーヴァを風船のようなものに閉じ込めた。スマホから伸びる紐のようなものに繋がれ、まるでストラップのように見えた。「じゃあこのままいこっか~☆」と歩き出そうとしたきらりは、ふらりと体制を崩した。
「あれれ~? なんだろ~☆」
「……満身創痍」
「え~☆ そんなことないよ~☆」
「……私に乗って少し休んで。きらり、とっても頑張ったから」
「あはは~☆ しーちゃん優し~☆ でも~☆」
「……あっちは大丈夫、二人は強い、それに真理矢もいる」
紫陽はそう言って四つ足の形態になり、きらりに乗るように促した。きらりは「それじゃあお言葉に甘えて~☆」とその背中に乗り、うつぶせで抱き着くような姿勢になり、そのまま目を閉じた。紫陽は背に乗る友人の負担にならないよう、ゆっくりと足を動かした。
二匹の悪魔は体を寄せあい、ビルの谷間へ消えていった。