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3、

 結局、私は次の日、何事もなかったかのように目を覚ました。

 全てが夢だったと気づいて、訪れた朝に長く長く息を吐いた。


 ……あの時から、幾星霜を経たのだろう。


 あの当時住んでいた下宿は、開発の波に飲み込まれるように消えて、もはや影も形もない。

 無限に広がるように思えた菜の花畑は、今やひしめき合う住宅街。

 ちっぽけな商店が寄り集まっていただけだった駅前には今、無数のビルが所狭しと立ち並ぶ。

 胸に心地よかった雨の香りも、濁った下水の臭いの強さを増すばかり。


 あの当時を思い出させるものはもう何も残っていない。

 両親は首都圏の外れにちっぽけな家を中古で買って、未だ終わらぬローンの支払いに追われている。

 三十路を越えた私も、あの当時の面影の一切を残さなかった。


 今の私は、油の浮いた水たまりをヒールで踏み越え、疲れてしわの寄った目を俯かせて、暗い色の隙間を這いまわる姑息な虫けら。

 狡く賢く、浅薄な情に弄ばれる、大人の女。


 漂うような夜の闇。その中にあっても。

 ……寂しい? 怖い? 寝なきゃいけない?

 いいや。そんな瑞々しい感情は全て、遠く妖しい春の夜に、あの下宿に置いてきた。


 誰もいなくて、構わない。

 恐怖は、感じようが感じまいが、どうでもいい。

 そして今、私はいつでも眠れる。寝ても寝なくても、干からびた目の色に何も変わりはないけれど。


 だがそんな私でも、遠いあの日、あの夢のことは思い出す。


 1Kの小さなアパートの、ナチュラル模様の木のベッドの上で、薄桃色の掛け布団にくるまって。

 見つめるのは、白い壁紙の天井と、シャンデリアのように枝分かれしたシーリングライトの薄明り。


 少しばかり少女趣味の過ぎる、三十路女の独り暮らし。

 帰るたび、部屋の中に漂うほの甘さ。むせるほど香る、女のにおい……私のにおい。

 酒も煙草も、男のにおいもしない。

 母の香りも、父の香りも、もうはるか遠い記憶の向こう側。時折連絡は取るものの、もうほとんど会ってはいない。


 全て必要ない。どうでもいい。


 それなのに、誰かが自分を抱きしめると、胸の奥が僅かにうずく。

 父と同じ煙草のにおいに、何かを思い出したりして。

 私、煙草嫌いなのに。

 わざと少し酒を入れて、わかっているのに流されたふりをして。

 どうにでもなればよい気がして、しかし保身を忘れることもなく。

 終わって別に後悔するわけでもないけれど、関係を続けようとも思わない。


 ああ、くだらない……馬鹿な女。

 自分の賢さにも愚かさにも、全て気付いているくせに。


 母のように、浮気性の父にも尽くす馬鹿な女に徹することはできなかった。

 父のように、奔放に振舞いながらも家庭を持つ絶妙な身勝手さも持たなかった。

 だからか、私はこのちっぽけな部屋に、男を入れたことが一度もない。

 情を交わした男たちの中で、私の家を知っている者は一人もいない。


 ……あれ? 思い返せば、女も入れたことないな。二、三人、関係を持ったはずなんだが。


 いや、まて。私、友達も入れたことない。

 そもそもそんなものが、いたことあったっけか?

 郵便や宅配以外で、うちの戸を叩いた者は、一人もいないんじゃないか……?


(「なるほど……寂しいも怖いも、ないわけだわ」)


 窓の外では、春風がひゅうひゅうと、音を立てている。

 がたんがたんと、近場の家の雨戸が揺れる。


 ああ、きっとこれだ。


 吹き荒れるぬるい風と、どこまでも深い夜が、あの時の記憶を呼び覚ますのだ。

 目を閉じれば浮かび上がる。

 あの安下宿の天井と、台所仕事をする母の影。


 そう。

 なぜ、私はあの時……あの女についていかなかったのかと。

 そればかりを、考えるのだ。


 あの日の小さな女の子は、今や熟して腐り果てて。

 毎日、胸のラインの浮かぶブラウスを着て、パソコンと煙草臭い男たちの間をうろうろして。


 ああ、全く。

 一体、私は……。


 気怠い眠さが、ゆっくりと身を包み、腕や足が重くなっていく。


 意識が、蕩ける。

 闇の向こうへ。


 そして私は、呼びかける……。




~つづく

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