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古都奈良の和カフェ あじさい堂花暦  作者: 橘 ゆず
第一章 抹茶の葛プリン
7/11

7.また明日

お店の片づけをして、明日の準備とバイトの契約についての簡単な手続きを済ませて店を出たのはもう九時近かった。

奏輔さんは、すぐそこなので大丈夫です、という私の言葉を頑として聞き入れずに祖母の家まで送ってくれた。


バイト用の着物に着替える時に脱いだ母の絽の着物は、祖母が畳んで預かってくれていたのだ。恥ずかしながら私は着物をきちんと畳むことも出来なかったので。


祖母の家で、朝着てきた着物を元通り着付けて貰う間、奏輔さんは表のお茶屋の店舗の方で待ってくれていた。


「家どこ? 送ってくわ」

「え、いいですよ。すぐそこなので」


「すぐそこなら尚更送ってくわ。俺のせいで遅くなったんやから」

「大丈夫ですよ。人通りの多い道を行くので」


「その人通りが危ないかもしれんやんか。この辺、この時間まだ観光客とか結構おるで」

そんなやりとりをしている横から祖母が、

「この子の家はね。東大寺の東側。きたまちの方や」

とさっさと教えてしまった。


「すぐ近くとちゃうやん。歩くと結構あるやんか」

結局、家の近くまで送って貰うことになってしまった。


「すみません……」

「また。なんですぐ謝るん? それも謙遜か」

「ち、違いますよ。お仕事のあとでお疲れなのにわざわざ申し訳ないなと思って」


「女の子が夜遅くなったら男が責任持って家まで送ってくんは当たり前のことやろ。それとも悠花さん、これまでそんなんもしてくれん男としか付き合うたことないんか?」

「……そんなことは」

「おお。図星か」


「ち、違いますよ! そうじゃなくって、女だからって無条件に男の人に送って貰えるって決めつけるのは図々しいというか、全部の女の人がそういうことして貰って当たり前って思ってるわけじゃないっていうか」


あー。悠花さん。デートで男に奢って貰う理由がないんで半分払います、とか言っちゃうタイプだ」

「それは今関係ないと思いますけどっ」

「そらそうやけど、たかが家まで送ってくくらいのことでそんな肩肘突っ張らんかてええやんか」

「別に肩肘なんか張ってません」


「俺、別に悠花さんの家の場所知ったからって、ストーカーに変貌したりせえへんよ」

「そんな心配してません!」


ついむきになって言い返してすぐに、そんな自分が恥ずかしくなる。奏輔さんはそれ以上反論せずに、ちょっと笑って言った。

「別に俺が男だからとかそんなん今は関係ないやん。俺は雇用主で悠花さんは従業員。従業員の安全を確保するんは雇用主のつとめやろ」

「そう、かもしれませんね」


「悠花さんが女だからって男に頼るんみたいなのが嫌いだっていうのはよく分かったけど、部下が困った時に上司に頼るんは普通やろ?」

その言葉を聞いた途端、ふいにツンと鼻の奥が痛んだ。目頭に熱いものがこみ上げてくる。


(あ、いけない……)

と思った時には大粒の涙がぽろっと零れでていた。


「えっ」

案の定、奏輔さんがものすごく驚いた顔でこちらを見ている。

慌てて巾着からハンカチを取り出そうとするが、動揺しているせいかうまく紐がほどけない。

そうこうしているうちに、次々と溢れた涙が頬を伝ってもうどうにも誤魔化しきれない状態になってしまった。


「うわ、ごめん! 悪かった! 申し訳ない!」

「なんで奏輔さんが謝るんですか?」

やっと取り出したハンカチで目元を拭いながらわたしは言った。


こんな時でも、「あ、マスカラ。ウォータープルーフのやつで良かった」とか思っている余裕が自分でもおかしかった。


「なんでって、俺また何か言うてもうたんやろ。無神経なこと。自分では気づかんけど知らんうちに女の人の気に障ること言うて、泣かせてしまうことようあるんや」

そうだろうなあ、と思いつつ私は首を横に振った。


「ちがいます。別に奏輔さんの言ったことで泣いたわけじゃないですから」

「え、じゃあ……」

「今の奏輔さんのお話を聞いてるうちに、奏輔さんみたいな人が上司だったら下で働く人は幸せだなあって思ったんです」

「そんで?」

「それだけです」

「何や、それ」

奏輔さんは大袈裟にがくっと首をのけ反らせた。


「それで泣いたん? 感動の涙っちゅうこと?」

「まあ、そんなところです」

「マジか。わけわからんわー」

私は思わず笑った。


「わけ分からんですよね。ごめんなさい」

「あ、笑うた」

奏輔さんはあからさまに、ほっとした顔になった。


「良かったー。せっかくいいバイトの人見つかったのに、またダメにしてしもうたかと思って焦ったわ。しかも千鳥さんのお孫さんやし。泣かせたなんていうたらどとき回されるとこやった」

「ごめんなさい。びっくりさせちゃったみたいで」

「そら、びっくりするやろー」


その後、奏輔さんはそれ以上、私の涙については何も聞かずに家まで送っていってくれた。

感動の涙だなんて。いくらなんでもそれをそのまま信じたわけではないと思う。


でも、気づかないふりをして何気ない話をしながら肩を並べて歩いてくれた。面倒くさそうだから聞こうとしなかっただけかもしれない。

でも私には、出会ったその瞬間から何でもズケズケと言ってくる奏輔さんの、その分かりやすい「知らんふり」がなんだかとても嬉しかった。


家の前まで送って貰って、万が一にも母と顔を合わせるようなことになったら恐ろしく面倒なことになりそうだったので、近くの曲がり角で別れることにした。


奏輔さんは私が家の門にたどり着くまで、角のところに立ったまま見守っていてくれた。

ぺこっと頭を下げると、片手を大きく振ってくれて、そのまま踵を返して歩き出した。


その背中がまた曲がり角を曲がって見えなくなるのを見送ってから、私は家の中に入った。

なんだか妙にすっきりとして、前向きな気分だった。涙にはデトックス作用があるって聞いたことあるけど、そのせいなのかもしれない。


そのせいか、急に遅くなったことについての母のクドクドとしたお説教を聞いても、今朝までのようにずーんと重たい気持ちにはならずにいられた。


「ごめん。心配かけて。今度からちゃんと連絡するから」

素直にそう謝った私を、母は胡散臭そうに眺めてから

「今度からやないわ。嫁入り前の娘が夜遅くまでウロウロと。だいたいその着物はそんなその辺をうろつきまわる用のものとちゃうねんで」

とブツブツ言った。


着物を脱いで、衣桁に吊るし、帯や小物を和室の箪笥にしまう。

母が用意しておいてくれた夕飯を食べて、「早く入ってしまって。片づかへんねんから」と急かされながらお風呂に入る。


ドラッグストアのお徳用のボディソープを泡立てて体を洗いながら、私は明日、カフェの仕事帰りで駅前にでも寄ってお気に入りのシャンプーやボディソープを買い揃えて来ようと考えていた。

何はともあれ、これからしばらく私はこの街で暮らして、仕事していくのだ。


いきなりは無理かもしれないけれど。

少しずつ、以前の自分──「あのこと」がある前の自分を取り戻しながら暮らしていこう。

そう思いながら、体を洗い、髪を洗って、メイクを落とした。

ざぶんと湯舟に漬かりながら、私はなんだかずっと澱んで止まっていた自分のなかの時間が、今少しずつ動き出そうとしているような気がしていた。



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