6.抹茶の葛プリン
閉店時刻の19時まで、お客さんの波が途切れることはほとんどなかった。
最後のお客さんを送り出して、外のプレートを「本日の営業は終了しました」というのにかけ替える。
「お疲れ!」
メニューの看板を中に入れて、入り口のドアに鍵をかけて戻ってきた奏輔さんが片手をあげて言った。
「お疲れさまです」
私もテーブルの上を片づけながら会釈をかえした。
「いやー、今日は盛況やったな。悠花さんが来てくれて助かった!」
「いいえ。お邪魔にならなかったなら良かったです」
「ま、ちょっと座って休んでや。開店からほとんどずうっと立ちっぱなしやったやろ」
「それは、奏……店長も同じじゃないですか」
「うん。俺も疲れた。だから片づけの前にちょっと休む。付き合って」
そう言って手近の椅子にどかっと腰を下ろす。
「ほら。悠花さんも座って座って」
「あ、はい。じゃあこれだけ運んじゃいますね」
最後のお客さんのテーブルの食器を手早くトレイにのせて厨房に運ぶ。
かわりに、ピッチャーに入っていたお水をグラスに注いで持っていくと、
「おお、ありがとう!」
奏輔さんは、嬉しそうに笑って頭を下げた。
私が座ってグラスを持つと、奏輔さんは
「それじゃ乾杯!」
と言ってカチンとグラスをぶつけてきた。
「……何に乾杯なんですか?」
「何やろ? 今日の商売繁盛に、でええか」
「分かりました。じゃあ乾杯。お疲れさまでした」
私たちは顔を見合わせて笑ってからグラスに口をつけた。
「ほんまにありがとう。助かったわ。バイト代ちゃんと払うから。あ、そう言えば俺、給料の話もせんと働いて貰ってしもうて……」
「いいですよ、そんなの。うちの祖母が強引に決めたようなものでしたし」
そうはいかん。こういうことはちゃんとせんと」
そう言って、奏輔さんは立っていくとしばらくして封筒を手に戻って来た。
「急だったからこんなんで悪いけど」
何も書いてない茶封筒を渡される。
「ほんまに助かったからバイトの子の時給よりちょっと色つけといたから。そいでも全然たいした金額やあらへんけど」
「……いえそんな。ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」
私が持ってきたバッグ……といっても和装だったからちりめん地の巾着みたいな袋にその茶封筒をおさめる間、奏輔さんは、頬杖をついてじいっとこっちを見ていた。
「悠花さんってさ」
「はい?」
「今、プーなん?」
「はい!?」
「あ、プーって無職っちゅう意味なんやけど」
「い、意味は分かります」
分からないのはそういうデリケートな質問をズケズケ出来てしまうあなたの神経の方なんですけどっ。
ほぼ初対面に近い相手にそういうこと聞く? 普通。
「いや、さっき千鳥さんが言うとったやろ? 東京で仕事辞めて戻ってきて今職探し中やって。違うた?」
「違うてませんけど……」
「そやったらさ。明日からもしばらくここ手伝ってくれへんかな?」
「えっ」
「悠花さんも聞いとったやろ。パートの沢野さん。しばらく来られへんようになったって」
「それは……聞いてましたけど」
「バイトの募集かけても新しい子決まるまで、どんなに早くても一、二週間はかかると思うね。な、その間だけでも!!」
ぱちんと掌を合わせて拝むように頭を下げられ、私は慌てて言った。
「や、やめて下さい。そんな、困ります」
「何で?」
「何で……って、だって私就職活動中ですし」
「だから仕事決まるまでの間だけでええから! っていうか新しいバイトの子決まるまでの間だけでもええから!」
「ええー……、でも……」
「面接やら行く日はその時間休んで貰っても構わんから。な! 頼みます。この通り!!」
「やっ、だから頭上げて下さいってば。そんなにされても困りますから」
「何で?」
「だ、だから……」
「就活中なのは分かったから、もちろん時間帯とかは融通きかせて貰う。バイト代も無理言っとるの分かっとるから出来る限り希望に添わせて貰うし」
奏輔さんは熱心に言い募った。
その勢いに気圧されながらも、私は何とか湧き上がって来た疑問を口にした。
「な、何で……?」
「うん?」
「あの、じゃあこっちからも聞かせて貰いますけど、何でそうまでしてさっき会ったばっかりの私になんか頼むんですか? 次のバイトの子が見つかるまでの間だったら、お知り合いの方とか、それこそこのあたりのご近所の方とか、お手伝いに来てくれる方見つかるんじゃないですか?」
実際、パートの沢野さんはこの、ならまち界隈に住んでいる人みたいだったし。
急に来られなくなった責任を感じてもいるみたいだったから頼めば知り合いの一人や二人紹介してくれると思うんだけど。
「そんなん、俺が悠花さんのことええな~って思ったからに決まっとるやん」
「え、ええっ!?」
え、ええなって……ええな~って思ったって、それって、どういう……。
「テキパキしとって手際いいし、そのくせお客さんへの対応とかほんわりしとって感じええし、店バタバタしてきてもこうキリキリした感じせえへんし」
テキパキ……手際……。
「なんちゅうか、今日一日……ちゅうか半日? 一緒に店やっとって気持ちええっていうか、こう、いつもより楽しく働けた気がするんだよな。いつもは中とフロアと両方に気遣って、落ち着かん気分で作業しとったんやけど今日はそれがなくて調理に専念できたっていうか……」
あ。「ええな」って私の仕事ぶりのことね。
なんだ。って、そりゃそうか。勘違いに頬が熱くなる。
そしてそれ以上に、じわじわと胸の奥からこみあげてきた温かさは嬉しさからだった。
おっかなびっくり、手探りでやっていた感のある今日の仕事だったけれど、それでもやりながら私自身も楽しさを感じていた。
ああ、そうだ。
私はもともと、お客さんと接して、その希望を叶えたときに喜んでいただけるお顔を見られることが好きで、百貨店という仕事を選んだんだった、なんて新卒で就職したばかりの頃の気持ちを思い出したりもして。
そんなことを思いながら働いていた仕事ぶりについて褒めて貰った。そのうえ、明日からも一緒に働いて欲しいとまで言って貰えた。
ある意味、恋の告白よりも嬉しいかもしれない。
「ありがとう、ございます」
「いや、礼を言うのはこっちの方やし。あと悠花さんって今日仕事しながらメニューの位置とか、ドリンク持ってくタイミングとか、全部自分で考えて動いてくれたやろ? その辺の棚に置いてあるものもちょっと置き直してくれたり」
「あ、いちいち聞くのも煩わしいかと思ってそうしてしまったんですけど、勝手なことをしてすみません」
「そうやなくて。悠花さんがしてくれとることみて、俺、今日何回も『あ、そっか。それそうすれば良かったんやな』『その方がずっとええな』って思うこといっぱいあって。そんで、もし良かったらもうちょっと一緒に店やってみたいなって思たんや。今さっき聞かれた無理言うてまで頼んでる理由はそれ」
は、あ……」
「そんでも、どうしても無理やって言うんならごり押しは出来んけど」
そこで言葉を切って奏輔さんはまっすぐにこっちを見た。
「今日一日で、俺的にはすごい勉強になることいっぱいあったし。出来ることなら悠花さんともっと一緒にやってみたい。だからお願いします! ……無理にとは言わんけど」
そう言って奏輔さんは、テーブルに額をぶつけそうな勢いでがっと頭を下げた。
無理を言わないとは言ってるわりに、圧がすごい……。
意志薄弱で、典型的なNOと言えない日本人の私にはこの圧を跳ねのけてまで断固として断れる自信がない。
もともと何がなんでも出来ない、物理的な理由はないのだから余計に。
それに本当のところを言うと奏輔さんの申し出はかなり嬉しかった。
百貨店の仕事を辞めるまでの経緯や、こちらへ帰ってからの母の態度で、元来あまり高くない自己肯定感が地の底まで低下しきっていたところにさっきの言葉は素直に嬉しい。
ただ嬉しいというのではなくて、砂漠で干からびそうになっていたところに一杯の水を差しだされたような、そんな救われた感がある。
「あのー……」
奏輔さんがぱっと顔を上げる。
そのクールな顔立ちに似合わない熱量でこっちをみつめてくる黒い瞳に向かって、私はおずおずと頭を下げた。
「私で良かったら、その……次の人が見つかるまでの間だったら」
「やった! ダメもとで言ってみて良かった!!」
奏輔さんは椅子からぴょんっと立ち上がって喜んだ。
まさに飛び上がって喜ぶといった感じ。
ほんとに感情表現のストレートな人だ。なんだかこっちの方が照れてしまう。
「じゃあ、改めてよろしくお願いしますっ」
テーブルに平伏する勢いで元気よく、私も慌ててぺこりと頭を下げた。
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします。……あまり、お役に立てるか分かりませんが」
奏輔さんが顔を上げてこっちを見た。
「あのさ。それって東京風なん?」
「え、それって?」
「だから、その『私なんかで良かったらー』とか『お役に立てるか分かりませんがー』とか。そういう風に言うのあっちじゃ常識なんかなーと思って」
「と、東京風というか日本ではわりと一般的な『謙遜』というやつなのではないかと思うのですが……」
言ってから「しまった」と思ったが遅かった。
「なーんや。謙遜なん? 本心では別にそんなん思うてへんてこと?」
「え、ええっとですね。いえ、決して本心で思ってもないことを言ってるわけではないんですけど、その、なんていうか社交マナーというか、会話の潤滑油的なものというか……」
って、なんでこんなに必死に説明してるの私っ。
焦っている私をよそに奏輔さんは屈託のない笑い声をあげた。
「なーんや。悠花さん、やたらとそうやって自分サゲるようなこと言うからさー。過去によっぽど何かあって自己評価下がりまくりだとか、それとも元来めっちゃネガティブだとかそういうのなのかと思ってちょっと心配になってさー。謙遜でそんなん思うてへんのやったら良かった!」
なにげに心の地雷を二、三発踏み抜かれたような衝撃が……。
そうだ。ここで働くっていうことはこの人のこういう良く言えば無邪気、悪く言えば無神経な発言に常に晒されなきゃいけないってことなんだよね。心が折れないといいけど。
「あ、そうだ!」
ふいに奏輔さんが席を立って奥に入って行った。
短期バイトとはいえ、一応雇用契約書みたいなものを書くのかな、と思って待っていると、戻ってきた奏輔さんの手にはガラス製の器を二つ載せたトレーがあった。
「はい。これ。良かったらどうぞ」
奏輔さんがコトン、と私の前のテーブルにそれを置くと透明の葉っぱの形をした可愛い器の上で、半円形をした抹茶色のかたまりが、ふるんと揺れた。
「これって……」
「そう。うちの店の看板メニューの一つ。抹茶の葛プリン」
確かに、今日みえたお客様の間でもかなりの人気メニューで三組に一人はオーダーする人がいた気がする。
見ためも艶やかで涼しげで、運びながらも気になっていたメニューの一つだ。
「良かったら食べてみて」
「え、いいんですか?」
「良くなかったら出さへんけど」
「そ、そうですよね。では遠慮なくいただきます」
「お口に合うか分かりませんが……とか俺は言わへんで。絶対うまい、はず!」
きっぱりと言い切られて私は苦笑しながらスプーンをとった。スプーンを入れようとして、意外なほどの弾力に少し驚いた。
見た目と名前からそれこそ「プリン」のような柔らかさを予想していたから。
ひと匙すくって口に入れてみる。その瞬間、ふわっと抹茶の香りが口のなかに広がった。
「美味しい~」
思わず、ため息のような感嘆の声が洩れる。
「な、な、そやろ?」
奏輔さんは得意げに言うと満足そうに自分もスプーンをとり上げた。
そこで初めて、彼が私が一口目を口に入れるのを固唾をのむようにしてじっと見守っていたことに気がついた。
「お世辞やったらいらんし」
「お世辞じゃないですよー。本当に美味しい。これ、なんでこんなに抹茶の香りがするんですか?」
「企業秘密や」
奏輔さんは、ふふんと笑った。本当に子供みたい。
私たちは向かい合って、そのプリンを食べた。葛プリンっていうからには葛粉が入ってるんだろうけど、基本的に卵と砂糖と牛乳で作る(で合ってるよね?)プリンにどうやって、抹茶や葛粉を混ぜてるんだろう。
プレーンな普通のプリンすら、中学校の調理実習か何かで作って以来作ろうとしたことすらない私にはまったく未知の領域である。
だ、ものすごく滑らかでぷるんぷるんで美味しい! ということだけはよーく分かったけど。臨時のバイトとしてはそれが分かってれば十分だよね。
抹茶の香りとつるんとした舌触り、そして優しくて上品な甘みが仕事の疲れを癒してくれるみたい。
「あー、幸せ」
思わず呟くと、奏輔さんがおかしそうに笑ったので私は赤くなった。
「な、なんで笑うんですか」
「いやあ、なんやプリンひとつで幸せ~って大袈裟な人やなあって」
「大袈裟なんかじゃないですよ。本当に美味しいですもん。なんか、私、今このプリン食べてたら、美味しいものを美味しい~って思って食べられるのってすごい幸せなことだなあってなんかつくづく思っちゃって」
「まあ、それはそやな。人間、飯食って美味いと思えるうちが花や。飯が美味いと思えんようになったらしまいやな、ってじいちゃんもよく言うとったわ」
「お祖父さん、ですか?」
「ああ。祖父ちゃん兼俺の師匠」
「師匠?」
「和菓子の師匠。ここ元は祖父ちゃんの店やってん。『紫陽花堂』っていう和菓子屋。特に大福と羊羹はちょっと有名で、遠くから買いに来てくれるお客さんも仰山おったんやで」
羊羹……という言葉に促されるようにして一つの記憶が蘇ってきた。
「栗蒸し羊羹……」
「え?」
「その、お祖父さんのお店って栗蒸し羊羹って置いてありましたか?」
「ああ。置いてたけど」
「小さい頃、祖母のうちに遊びに来るとよく出してくれてたんです。大きな黄色い栗がいっぱい入った栗の羊羹。私、それが大好きで、祖母の家に遊びに行って、それを出して貰うといつも嬉しくて……」
奏輔さんは嬉しそうに目を細めた。
「ああ。千鳥さんは祖父ちゃんの店のお得意さんだったんよ。お茶席に使う和菓子とかもよく注文してくれとった」
「そうだったんですね」
あの懐かしい栗蒸し羊羹を作ってくれていた人のお孫さんのお店で自分が今、バイトをすることになったなんて、なんだかすごく不思議な気持ちだった。
それは奏輔さんも同じだったらしく、
「そうかー。悠花さんは祖父ちゃんの栗蒸し羊羹食べとってくれたんやなー」
と感慨深げに呟いている。
「うちの店でも秋になったら栗蒸し羊羹メニューに出すからさ。是非、食べてみてよ」
「わ、本当ですか。嬉しい」
「祖父ちゃんの味を知っとる人に俺の羊羹がどれくらい先代に近づけとるか見極めて貰うチャンスやな」
「えっ」
そんなことを言われると味覚にも記憶力にもあまり自信がないので不安になってしまう。
ただ、「栗がほくほくして美味しかった」っていうことくらいしか覚えていないし。
そんな私の心配には気づかない奏輔さんは、最後の一口のプリンを平らげて嬉しそうに言った。
「とりあえず今日は祖父ちゃんの仏壇に報告しとくわ。祖父ちゃん羊羹のファンだった女の子が俺の店手伝ってくれることになったんやでーって。喜ぶと思うわ」
そうか……。お祖父さんの和菓子屋さんのあった場所で今、奏輔さんがこのお店をやっているっていうことは、ひょっとしたらそうなのかな、とは思っていたけどお祖父さんはもうお亡くなりになっていたみたいだ。
ご愁傷さまです、なんてお祖父さんと面識もないのにいきなり言うのも失礼な気がして私は黙って頭を下げた。
「あの、本当に美味しくて、秋に祖母の家に来るのがいつも楽しみだったって、そうお伝え下さい」
「うん。ありがとう」