4.退職の理由
その日、実家のお風呂の湯舟に浸かりながら私は昼間のことを考えていた。
(結局、佐保ちゃんに何も言ってあげられなかったな……。せっかく私に相談に来てくれたのに)
お風呂に入り湯舟に浸かっていると、昼間聞いた佐保ちゃんの話に促されるように、ぽつぽつと、いくつかの記憶が蘇ってきた。
「ほら、あの人よ。この間、品川店から来た……」
「ええ? 飛ばされてきたっていうあの子?」
「そうよ。外商部のお客さんと……アレで、ね?」
「うっそー。そんな風に見えないけどー」
「ああいう虫も殺さないようなのが一番タチ悪いのよ」
「言えてるかもー」
ヒソヒソとした囁き声に重なる、クスクスと言う笑い声。
退職までの二ヶ月。私はずっとそういう声に囲まれながら仕事をしていた。
耐えきれなくなって書いた退職願を見た上司は、止めるどころかあからさまにほっとした顔をしていた。厄介払いが出来たと思ったのだろう。
それでもお義理のようにかけられた送別会の誘いの声を私はにべもなく断った。
そのことでまた悪口を言われたが、もうどうでも良かった。
丸菱百貨店の外商部で働いていた私が、見知らぬ女性にいきなり頬を叩かれたのは今から五か月前の四月の半ばのことだった。
同期にイベントの手伝いを頼まれて、催事場で配送伝票の受付をしていた私は目の前に立った女性に、
「須藤悠花さん?」
と声をかけられた。
顧客の誰かだと思い、慌てて立ち上がり、
「はい。お世話になっております」
と笑いかけようとした途端、その衝撃はやってきた。
バチン、という音と同時に右の頬がカッと熱くなった。
「え……っ」
何が起こったか分からずに呆然としていると、続けて目の前のテーブルの上のものをかたっぱしから投げつけられた。
ボールペンが胸のあたりに当たって落ち、配送伝票とそれを入れていたトレーが引っ繰り返されて宙を舞う。
「あんたみたいな女にうちの家庭をめちゃくちゃにされてたまるもんですか!」
手近なものをすべて投げつけ終わった女がテーブルごしにつかみかかってきたのは覚えている。
白いブラウス越しに食い込んだ爪が鮮やかなローズピンクだったことも。
けれど、そのあといったい何がどうなったのかはあまり記憶にない。
気がついたらスタッフ用の休憩室に一人で茫然と座っていた。
しばらくしてやってきた上司は、取返しのつかない失態をした部下を見るように憎々し気に悠花を見た。
「とんでもないことをしてくれたな」
「何が、ですか?」
「私にまでしらばっくれなくてもいい。今の女性は長谷川クリニックの奥様だそうだ。身に覚えがあるだろう」
そう言われても何がなんだか分からない。
ただ、長谷川クリニックという名前には聞き覚えがあった。
院長の長谷川先生は外商部のお得意様だった。でもただそれだけだ。
私の担当顧客ですらない。
「いったい何のことでしょう。私は長谷川先生にはお目にかかったこともほとんどないと思うのですが」
いや、一度か二度。担当社員が休暇中であったり出張中の時に品物を届けに行ったことがあったかもしれない。
けれどそれは両方とも目黒にあるクリニックの方で、夫人とはまったく面識がなかった。
「奥様は君と長谷川先生が不倫の関係にあったと仰っている」
「そんな、誤解です!」
懸命に否定をしたが聞き入れて貰えず、しばらく有給を消化して休むように言われた。
「奥様のご実家は名勝グループの創始者の一族だ。正直言って長谷川先生ご自身よりもこっちの方がよっぽどまずい。本当にとんでもないことをしてくれたものだ」
自宅待機をしている最中にメールで、埼玉県の支店に移動になったことを一方的に告げられた。
しばらくして、長谷川先生の担当だった外商部の先輩の井戸田という男性社員から本当の浮気相手は院長の医大時代の同級生だった女医だったと知らされた。
院長自らそれを打ち明けたうえで、
「うちのはバリバリの専業主婦でさ。女性のキャリアなんていうのになぜか異様に敵愾心持ってるんだよな。浮気相手が国立医大でも評判の美人ドクターなんて知ったらどんな騒ぎになるか……。その女の子には悪いけど助かったよ」
とぬけぬけと言い放ったらしい。
「ひっどい話だよな。相手が百貨店の女の子だっていうなら院長のほんの気まぐれの火遊びで済むからその方が丸く収まるだってさ。馬鹿にしてるよな」
電話のむこうで井戸田さんは憤慨してくれたが、だからと言って私に対する不当な処分を撤回するように上司に掛け合ってくれる気はさらさらないようだった。
それはまだいい。
誰だって面倒ごとには関わりたくないに決まってる。
井戸田さんは外商部の主任や部長をはじめ上司たちにはことの真相を報告してくれたらしいけど、それで私が品川支店に呼び返されることはなかった。
間違いとはいえ、一度それなりに収まってしまったものをまた引っ繰り返すのには労力がいる。
私のためにそこまでしてくれようという気のある人は誰もいなかったということだ。
私が一番打ちのめされたのは、当時付き合っていた恋人までもがそれを機に離れていったことだった。
同期の矢崎航平とは、「同期会」と称した飲み会を何度か重ねているなかで親しくなった。
はっきりとそういう関係になったのが、就職して一年目の秋だったから四年近く交際していたことになる。
そこまで考えて私はふふっと笑った。
付き合ってたって思ってたのは私だけだったのかな。
今、思い返してみても「付き合って欲しい」だとか「彼女になって欲しい」なんて言葉は言われたことはなかった。
「悠花と一緒にいると落ち着く」
「悠花のそういうとこが好きだな」
そんな言葉を愛情のしるしだと思って、いつかは一緒になるものだと思い込んでいた少し前の自分を自分で笑ってやりたくなる。
売り場で平手打ちをくらって、上司にいわれのない叱責を受け、なかばパニック状態になって帰宅した私がその夜、震える手でかけた電話に出た航平は私以上に冷静さを失っていた。
「どういうことなんだよ、説明してくれよ」
「私だって何がなんだか分からないわよ!」
涙声で訴える私に、
「泣くなよ。泣きながらワーワー言われても何がなんだか分からないよ。ちょっと冷静になったら整理してメールして」
そう言って航平は通話を切った。
切れた電話を握りしめたまま、私は茫然とするしかなかった。
それでも私は混乱する頭で必死に考えて、不倫なんていうのは事実無根で、今回のことは長谷川夫人のまったくの誤解だというメールを航平に送った。
返事は来なかった。
電話はいつかけても繋がらず、着信が残っているはずなのにコールバックもなかった。
意地になって何度もかけた。
やがてかえってきたメールには、
「仕事が忙しくて今は会えない」
ということが簡単な言葉で綴られていた。
それ以上、追いすがってでも関係を繋ぎとめようとする情熱も気力もその時の私にはなかった。
それでも自分は何も悪いことはしていないのだからと胸を張って新しい職場に出勤した。
けれど、「顧客と浮気して飛ばされた女」の噂はそこまで届いてしまっていた。
すべてに疲れてしまっていた私は、新しい同僚たちの陰口に対して誤解を解こうともせずに退職することを選んだのだった。
佐保ちゃんの話を聞いているうちにそんなことを思い出した。
奈月ちゃんも何も悪いことはしていない。
悪いのは、人の努力の結果を認めずに馬鹿にしたり、からかいのネタにしたりした同級生の方だ。
けれどそんなことは関係ないのだ。
理由は何でもいい。
集団のなかで一度浮き上がってしまって、蔭口や誹謗中傷のターゲットにされてしまうともう自分の力ではどうあがいても駄目なのだ。
私や奈月ちゃんを非難し、蔭口を叩いた人たちにとってそれは一種の娯楽なのだ。本人たちが自覚していたかどうかは知らない。
けれど、一度「この人は叩いてもいいんだ」みたいな空気が生まれてしまったら、標的にされた者に出来ることはそこから逃げ出すことだけだ。
実際に逃げ出してきた私には奈月ちゃんの気持ちが痛いほどに分かった。
今の奈月ちゃんは誰のことも信じられず、誰とも話したくない気持ちなのかもしれない。
だとしたら、奏輔さんの言う通りほうっておく方がいいんだろうか。
佐保ちゃんが親友のつらい立場を知って力になりたいという気持ちも分かる。
でも、それは今の奈月ちゃんにとっては迷惑でしかないのかな。
それでも……。
奈月ちゃんのつらさや、まわりを拒絶したくなる気持ちに共感しながらも私は少し彼女のことが羨ましかった。
私が弾き出された辛さに耐えきれず逃げ出したときに、追いかけて手を差し伸べようとしてくれる人は誰もいなかったから。
別に力になってくれなくてもいい。
あの時、誰か一人でも話を聞いてくれたら。
「ひどいね」「大変だったね」って共感してくれていたら。
たとえ退職っていう結果は変わらなかったにしてもずいぶん救われたような気がする。
まあ……そんな人が現れなかったっていうのはひとえに私の不徳のいたすところなんだけど。
奈月ちゃんにはまだ心配してくれる佐保ちゃんがいる。
佐保ちゃんの今の気持ちを伝えることは、奈月ちゃんにとっても少しは救いになるんじゃないだろうか。
翌日、私は佐保ちゃんに奈月ちゃんに宛てて手紙を書くことを勧めてみた。
「手紙?」
佐保ちゃんは不思議そうな顔をした。
「うん。メールでもいいんだけど、今まで何度送っても返事がなかったって言ってたでしょ? だったら少しアプローチ方法を変えてみたらどうかなって思って」
昨夜、一晩考えて出た結論がそれだった。
とりあえず、まずは佐保ちゃんの気持ちを奈月ちゃんに届けないことには何も始まらないと思ったのだ。
佐保ちゃんは少し考えて頷いた。
「うん。小学校の頃はしょっちゅう手紙も渡し合うとったし交換日記もしとったし……ええかもしれん。うち、やってみるわ」
そう言うと佐保ちゃんは笑顔で帰って行った。